第二話 金打の響き
名が告げられた、その瞬間。
重俊が畳に両手をつき、額を押しつけるように深く平伏した。俺も一拍遅れて手をつき、頭を垂れた。光太郎だけが、軽く首を折っただけだった。
後ろに控えていた武士が、一歩前に出た。
「無礼者!」
低い、抑えた怒声が座敷に響いた。
「伊豆守様の御前で、そのような礼とは――」
「よい」
静かで、しかし凍てつくような声がそれを遮った。
松平伊豆守が、ゆっくりと片手を上げた。
「構うな」
家臣は即座に口を閉じ、後ろへ下がった。
伊豆守は俺たちを、静かに見据えた。老いた瞳の奥に、冷たい光が宿っている。
「この者たちは、武士でも家臣でもないならば、その礼で十分だ」
口元に、わずかな笑みが浮かんだように見えたが、それは笑みではなかった。獲物を値踏みするような、冷ややかな視線だった。
「頭を下げさせるために呼んだのではない。働いてもらうためだ」
俺は腕を組んだまま、伊豆守の顔を真正面から見た。
「で、何をやれというのです」
伊豆守は、ゆっくりと話し始めた。声は低く、静かだが、座敷の空気を重く圧する。
「江戸に軍学塾がある。張孔堂という。由井正雪という浪人が開いた塾だ」
茶碗を手に取り、一口飲む。その仕草さえ、すべてが計算されているように感じられた。
「兵法を説き、学問を語り、行き場を失った浪人を抱え込んでいる。町道場のような小さなものではない。今や門人は三千とも言われておる」
重俊が、ゆっくりと顔を上げた。
「三千……それは、もはや塾ではござらぬ」
伊豆守が、静かに頷いた。
「その通りだ。軍勢に近い」
伊豆守は言葉を続けた。声に、一切の揺らぎがない。
「正雪には側近がいる。丸橋忠弥、金井半兵衛……腕も口も立つ浪人たちだ。塾生の取りまとめも、その者たちがしている」
「つまり、浪人三千の徒党か」
俺は低く言った。伊豆守は静かに答えた。
「そうなる」
伊豆守は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。その息遣いだけで、座敷の温度が下がったように感じられた。
「主を持たぬ浪人が三千、兵法を学び、隊を組み、江戸の町にいる。放っておけば、どうなる」
「火がつく」
俺は小さく、しかしはっきりと言った。
伊豆守は、深く頷いた。
「それを其方らに調べてもらいたい。本来なら命を下すところだが……其方らは家臣ではない。ゆえに、これは頼みだ」
重俊が膝を一歩進め、声を低くした。
「拙者も参ります」
伊豆守の視線が、重俊に移った。冷たく、深く。
「其方は御家人の子だ」
「承知しております。それでも参ります」
宗冬が、横から伊豆守を見た。
伊豆守は、しばらく沈黙した。重い時間が流れる。
「よろしい」
重俊が、ほっと息をついた。しかし伊豆守は、すぐに続けた。
「ただし」
座敷の空気が、一瞬で張りつめた。
「今この場で、家を離れ、浪人として働くがよい」
「承知いたしました」
重俊の声に、僅かな迷いもなかった。
「事が済めば家へ戻す。役も与える。石高も上げようぞ」
重俊の指が、わずかに畳を掴んだ。
「報告は柳生殿にな」
俺たちは、揃って深く頭を下げた。
◇
「章吉たち、其方ら、夕餉はまだであろう。隣室に用意させてある。食していけ」
俺たちは顔を見合わせた。腹は確かに減っていたが、こんな状況で飯を食うことに、奇妙な違和感があった。それでも、素直に従うしかなかった。
隣室に通され、質素ながらも温かい飯が並んでいた。しかし、緊張のせいか、味はほとんど感じられなかった。箸を動かす音だけが、妙に大きく響く。
ふと、隣の座敷から声が聞こえてきた。
「……あれらが其方の話していた者たちか」
宗冬の声が、静かに答える。
「はい。吉原と武蔵野の件、あの者たちが収めました。武士でも家臣でもないのに、妙に肝が据わっております」
伊豆守の声が続いた。
「なるほどな。良き者を拾ったものだ」
「宗弘も信頼しております」
伊豆守が、低く笑った。だがその笑い声には、温かみなど微塵もなかった。
「弟御か。昔から人を見る目だけは確かだったな。苦労も多かったはずだが……して、今は何をしておる」
「気楽なものです。今は長屋の差配をしながら、戯作を書いております」
伊豆守の笑い声が、再び小さく響いた。
「……それはそれで似合う」
俺は箸を止めて重俊を見た。重俊が光太郎を見る。光太郎が、無言でこちらに目を向ける。重俊の箸が、わずかに震えた。
すると、再び伊豆守の声が聞こえた。今度は、さっきより一段と低く、冷たい。
「ただし」
その一言で、隣室の空気まで凍りついたように感じられた。
「よき者を拾ったとは言え、あれらは人の外に片足を掛けているような者どもぞ。扱いを誤れば、人の世に害を為す刃にもなる」
伊豆守が、深く息を吸う音が、はっきりと聞こえた気がした。
「決して、そのようなことの無いようにせよ」
宗冬の声が、静かに、しかし確かな響きで答えた。
「その時は……」
金打の音が、乾いた響きとともに座敷に落ちた。
金属が触れ合う、冷たく澄んだ音。
◇
柳生屋敷からの帰り道。
夜の風が冷たかった。
重俊が、ほとんど唇を動かさずに小さく言った。
「あれは……金打。武士の誓いだ」
光太郎は振り向きもせず、前を向いたまま言った。
「行くぞ」
三人は黙って歩き出した。
だが、なぜか。
さっきの金打の音だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。冷たい金属の余韻が、夜の闇の中で、いつまでも響いているようだった。




