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第一話 兆しの違和感

 夕方の長屋は、煮炊きの匂いが溢れている。

 出汁のいい香りや魚から落ちる脂がはねる音。どこかの井戸で葱を刻む音まで、すべてが混じり合って混沌としている。


 俺は縁側に腰を下ろし、湯呑みを傾けていた。ぬるくなった茶が、喉の奥をゆっくりと落ちていく。

 庭では重俊が竹箒を動かしている。乾いた砂利を掃く音が、さらさらと耳に残った。

 光太郎は柱にもたれかかり、腕を組んでぼんやりとそれを見ている。


 その時、がらりと障子が開いた。


「章吉、いるかいな?」


 夢之介だった。相変わらず女物の派手な振り袖を着ている。その上、うっすら唇に紅を引いている。

 帳面を小脇に抱え、眉間に皺を寄せている。俺は湯呑みを畳に置いた。


「何だ」

「武蔵野の件よ」


 夢之介は帳面をぱたぱたと叩きながら言った。重俊の箒がぴたりと止まる。俺は肩をすくめた。


「終わったぞ」

「だからねぇ……」


 夢之介は小さくため息をつき、少し間を置いてから続けた。


「殿から日当、受け取って早く店賃たなちん払って欲しいのよ」


 俺は眉を寄せた。


「お前が行けよ」

「私は忙しいのよ。武蔵野の件、まだ書いてないのよ〜」


 庭で重俊がくすっと笑った。


「何が忙しいんだ」

「戯作よ、戯作。これでも、読者が大勢いるのよ」


 俺は頭を掻いた。重俊が箒を立てかけながら、からかうような目で夢之介を見る。


「受け取るのは殿の屋敷だな」

「そうよ」


 夢之介は煙管をくわえ、大きく煙を吸い込んだ。良い香りの煙が、ゆったりと夕方の空気に溶けていく。


「武蔵野は殿の仕事だもの。日当も殿から受け取ってちょうだいな」


 俺は腕を伸ばし、背骨をぐきりと鳴らした。


「殿の屋敷、遠いんだよなあ」

「御府内だぞ」


 光太郎が、ぼそりと小さく言った。


「歩けば着く」


 俺は三人を順番に見回した。


「お前らも来い」


 重俊は肩をすくめ、にやりと笑う。


「最初からそのつもりだ」


 光太郎は無言で外へ出た。草履を履く乾いた音が、静かに響いた。


 長屋の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。魚屋の呼び声、子どもたちの笑い声、遠くで桶を叩くかんかんという音。江戸の夕暮れは、まだまだ騒がしかった。

 重俊が空を見上げ、目を細めた。


「もうすぐ日が落ちるな」

「帰る頃には腹が減ってるぜ」


 重俊が呆れた顔で俺を振り返る。


「今食ったばかりであろう?」

「味噌汁だけだったじゃねえか」


 前を歩く光太郎が、背中で小さく言った。


「米はなかった」

「だろう」


 俺は指を鳴らした。三人は通りへ出た。夕焼けが屋根瓦の上に赤く広がり、店々の灯りが一つ、また一つと点り始めている。


 通りの向こうから、武士が二人、ゆっくり歩いてくる。裃の色が、夕焼けに浮かび上がった。重俊の足が、ほんの少し止まった。


「……旗本だ」

「だから何だ」


 重俊は声を落として言った。


「いや……殿の屋敷にああいう連中が来ているとしたら、ただ事じゃねえかもな」


 光太郎が淡々と返す。


「用があるのだろう」

「大目付の屋敷だぞ。用がある奴もいるさ」


 俺は歩きながら小さく笑った。だが重俊は、まだ旗本たちの後ろ姿を目で追っている。


 夕焼けが消えかかり、江戸の空がゆっくりと藍色に染まっていく。


「まあいい。日当もらってさっさと帰るだけだ」

「我も腹が減っている」

「拙者もだ」


 宗冬の屋敷の方角に、提灯の明かりがいくつも揺れていた。門の前に人影が多い。

 光太郎が門番に顔を向けると、こちらの顔を覚えていた男が、すぐに潜り戸を開けた。

 砂利を踏む音が、夜の庭に小さく響いた。

 案内された座敷には、すでに宗冬が座っていた。相変わらず、表情一つ動かさない。石像のような男だ。


 座敷は静まり返っていた。庭の虫の声だけが、細く聞こえる。さっきから宗冬は微動だにしない。重俊が小さく息を整えた。


「殿は……相変わらずだな」

「怒ってんのか、寝てんのか分からねえ」


 俺は肩をすくめた。虫の声を聞いていた光太郎が、ぼそりと呟く。


「起きている」


 宗冬の目が、ゆっくりとこちらを向いた。


「全部聞こえておるぞ」

「失礼いたしました」


 重俊が慌てて頭を下げた。宗冬は小さく息を吐く。


「構わぬ」


 重俊がもう一度頭を下げる。


「武蔵野の件、戻りました」

「話は聞いている」


 宗冬は脇に置いてあった袋を取り、畳の上に置いた。


「日当だ」


 俺は袋を持ち上げ、ずしりとした重みに思わず声を漏らした。


「……重いな」

「それだけの働きだったろう」


 俺は袋を懐に差し込んだ。


「よかった。これで店賃が払える。差配が喜ぶぜ」

「であろう」


 宗冬の口元が、わずかに緩んだように見えた。俺たちは立ち上がろうとした。


 そのとき、宗冬が低く言った。


「待て」

「まだ何かあるのか?」


 俺は振り向く。宗冬は奥の襖に目をやった。


「今日はもう一人客がある」


 襖が静かに開いた。姿勢の良い男が一人、入ってくる。小柄な老人だったが、座敷の空気が一瞬で張りつめた。


 宗冬が、抑揚のない声で告げた。


「松平伊豆守殿だ」

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