46 王妃サンドレアの印象
「ネイオニー、大丈夫か? 目の下のクマ、凄いことになっているぞ」
寝不足で菫青石の間を歩いていると、後ろから声を掛けられた。声の主には聞き覚えがある。振り返れば、思った通り同僚の青年がそこにいた。私は思わず彼に苦笑した。
「後ろ姿だけで、よく私にクマがあることがわかったわね」
「さっき遠目から見えたんだよ。幽霊みたいな顔していたしな。そんなに学問補佐って大変なのか?」
雨音が外から聞こえてくる中、同僚は私の隣に並ぶ。三つ年上の彼は、私より頭一つ分背が高い。同僚を見上げれば、頭上にある幾何学模様が目に入った。
菫青石で天井が装飾されたこの廊下は、本来なら日が当たる時間になれば、石を通して黄金の光が美しく差し込むよう仕掛けられている。だが今日は生憎の雨で、石は己の特徴を生かすことができず、菫色の魔法陣の形をしたままだった。
私はついっと天井から目を逸らして、首を横に振った。
「レオナルド殿下は大変優秀だから、学問補佐である私の仕事は少ないわ。ただ、通常業務と並行なのが大変なのよ」
「王族によって当たり外れがあるって聞くしな。どこかの傍流の方なんかは、百回ぐらい同じ手本を繰り返されたらしいぜ。王太子殿下が優秀で良かったな、ネイオニー」
茶化してくる同僚に、私は曖昧に笑った。
王族の学問補佐は、簡単に言えば「魔法のお手本係」だ。
魔法そのものは学問係が教え、そのお手本として学問補佐が魔法を発動させる。そして、生徒である王族が先生から「可」を貰えるまで、私達は何十回何百回と同じ魔法を繰り返し寸分狂わず発動しなければならない。
魔法の使用には魔力を消費するが、同時に体力も持っていかれる。魔法の発動は肉体労働に近い。加えて、王族の魔法を教える学問係は大抵歳を召している。魔法の扱いに長けた彼らであるが、大変な肉体労働は若手に押し付けるに限るというわけだ。
もちろん、学問係が学問補佐に「不可」を出す場合もある。そうなると長いお説教で済めばマシな方で、先生によっては交代を求められる。学問補佐失格の烙印を押されたら、宮廷内の評価に響くことは言うまでもない。
代わりに補佐を一年勤め上げることができれば、昇進は確定だ。そのうえ、学問係の口添えで一つだけ宮廷内で融通を利かせてもらうことができる。
大抵は専用の工房や役職を望むらしいが、私は違った。王族や一部の魔法使いにしか読むことを許されない、貴重な魔導書が保管されている禁書庫を閲覧できる権利が欲しかった。
もしかしたら却下される可能性もあるけど、私にはどうしても確かめたいことがある。無理だったら役職を貰って早く禁書庫を利用できるよう偉くなろう。
そう思えば、忙しくてもやる気は漲ってくるものだ。推薦してくれたキルクルス先生には感謝してもしきれない。補佐係の任期が終わった後、もう一度お礼の手紙を送ろう。
「あっ、そろそろ時間がまずい。ごめん、私これから授業があるから先に行くね」
「そっか。無理すんなよ、ネイオニー」
「ありがとー。無理はするけど、倒れないように気を付けるよ」
私は同僚と別れて、菫青石の間を抜けた。
彼に言った通り、今日は朝一から授業がある。授業の準備をするのも補佐の仕事だ。準備ができていないくて補佐をクビだなんて間抜けなことは避けなくては。
私は周囲に人がいないことを確認してから、駆け足で廊下を走っていった。
*****
今日も無事に授業が終わった。私は学問係とレオナルド殿下に悟られないよう、ホッと胸を下ろす。一、二回の手本で魔法を成功させる殿下に感謝しつつ、私は授業の後片付けを始めた。
政治が行われる宮廷と王族達が住まう宮殿の境目、一部の人間にしか立ち入ることが許されない一室にて、レオナルド殿下の授業は行われていた。
教室内はさほど広くないが、魔法の練習をするため庭に接してあり、扉からすぐ外へ出ることができる。日当たりも良すぎるせいで、窓から差し込む日差しが強い。すでに太陽は真上に上っていた。片付けが終わったらお昼ご飯だ、と浮ついていると、学問係が声をかけてきた。
「レース君。片付けが終わったら、今日の授業を記録して私の所へ持ってくるように。今日中に頼むよ」
「かしこまりました」
老年の学問係は簡潔に用件を伝えた後、さっさと部屋から退出してしまった。必要最低限のやり取りしかしないのは、前任者も学問補佐の巻き添えで解任されたのを警戒しているのか。その背を見送った後、今度はレオナルド殿下に声をかけられた。
「相変わらず彼はさっさと退出してしまうな。君も無理する必要はないからな、ネイオニー」
レオナルド殿下は椅子から立ち上がり、私に気を遣うように言った。前任者の学問補佐係が亡くなったのに心を痛めているのか、たまにこうして殿下から話しかけられるのだ。
まだ十四歳だというのに色々背負われて大変な方だ。男爵家とはいえ借金のせいで屋敷と事業を手放し、平民とほとんど同じ生活をして自由に生きた私にとって、その重圧は計り知れない。
本来なら私は彼と言葉を交わせる身分ではないのだけれど、この場でそんなことを言うほど頭の固い女ではなかった。
「無理などしておりませんよ。レオナルド殿下とお話できる機会なんて、これを逃したらもう二度とありませんから。こう見えて野心家なんですよ、私」
「そうか。ネイオニーはたくましいな」
レオナルド殿下は少し寂しそうに笑った。陽の光を浴びて彼の金髪がキラキラと輝いている。
「私も君を見習いたいな」
「見習う?私を?そんなご冗談を殿下」
「冗談じゃないさ。私は本気だ。ネイオニー」
レオナルド殿下はそう言いながら窓の前に立つ。
「ここだけの話、婚約の話が持ち上がっていてね。優柔不断な私は、すぐには決められずにいるんだ」
婚約と言う話に私は目を丸くした。王族は早いなぁ。十五歳で成人とはいえ、もう結婚の話が上がるのか。
十六歳の私ですら婚約の話が上がると億劫になると言うのに。私はレオナルド殿下に同情した。
「きっと素敵な方とご結婚できますよ。殿下は素晴らしいお方なんですから」
「そうかなぁ」
レオナルド殿下はちらりと私を見て、すぐさま目を逸らした。
「どうせなら、君のような女性と結ばれたかったけどね」
「……?」
小声で呟かれたせいで、私は殿下の言葉を聞き取れなかった。聞き返すのは失礼なため返事に迷っていると、窓の外を見ていた殿下が急にハっとして私に向き直った。
「すまない、長く引き止めて。そろそろ仕事に戻った方がいいだろう」
殿下は珍しく慌てて窓から離れた。私は状況を飲み込めず、こそっと彼の肩越しに窓の外を見た。
誰かが庭からこちらに向かってきている。目を細めてその人物を特定する前に、ドアが開かれた。
「レオナルド。お勉強は終わりました?」
穏やかな声と共に教室に女性が入ってくる。
現れたのはレオナルド殿下の母親、サンドレア王妃だった。
侍女を二人引き連れていた彼女は、私を見るや否や目を丸くし、持っていた扇を広げた。
「まぁ。あなたは確か、新しい学問補佐でしたわね。ええと、確かお名前は……」
「お初にお目にかかります。サンドレア王妃。ネイオニー・トゥ・レースと申します」
私は慌てて頭を下げる。表情に出ないよう、できるだけ顔を引き締める。
私、サンドレア王妃なんとなく苦手なんだよな……。ジェロイ陛下と比べて人望はあるけど、人気すぎて怖いというか、あまり近寄りたくない雰囲気があるんだよね……。
視界の端で、侍女の一人がサンドレア王妃に何やら耳打ちをしていた。王妃は頷くと私に言った。
「始めまして、ネイオニー。レース男爵家のご令嬢ね。顔を上げてくださって。この場は非公式ですから、そうかしこまらなくて結構よ」
サンドレア王妃の言葉に、私は恐る恐る顔を上げた。彼女と目が合う。にこりと微笑まれたので、何とか私も笑い返した。
「母上。こちらにはどのようなご用件で?」
レオナルド殿下が私とサンドレア王妃の間に入った。王妃は特に気にせず朗らかに答える。
「あら、母が息子を昼食に誘うのに理由が必要?」
そして「そうだ」と、少女のように手を叩いて私に言った。
「あなたも一緒にどうかしら? ネイオニー」
突然の提案に、私は咄嗟に返事ができなかった。
ええ、うそぉ……?
王族と一緒に昼食……?
私、これから溜まっている書類仕事も片付けないといけないんだけど……。この目の下にできているクマが見えていないの……?
「母上。ネイオニーはこれから宮廷の仕事があるので、引き留めるのは酷でしょう」
「私から彼女の上司に伝えておきます。若い子と話す機会など早々ありませんから、ぜひお話したいわ」
殿下が助け舟を出してくれたが、王妃は引かない。侍女の一人に目で合図をすれば、彼女は頭を下げて引きさがっていった。
おそらく私の部署に伝言をしに行ったのだろう。そこまでされてしまえば、一介の宮廷魔法使いである私はこう答えるしかなかった。
「サンドレア王妃とレオナルド殿下と食事を共にできるなど、光栄です。ぜひ、ご一緒させてください」
私はできるだけにこやかに微笑んだ。声が震えてないかが心配だった。
*****
私とレオナルド殿下はサンドレア王妃に先導され、さらに宮殿の奥へと案内された。
王族達の居住区なだけあって、道を歩くだけでも手入れされた花々や植物を見て楽しめるよう工夫を凝らされている。
「せっかくの晴天ですから、今日はここでいただきましょう」
少し開けた土地に出れば、周囲に花で囲まれた東屋があった。
屋根の下には丸テーブルと椅子が三つ用意されている。白いテーブルクロスの上には、花の模様があしらわれた磁器の皿と銀のカトラリーが並べられていた。
「今日はこのような場なので、気楽な昼食ですけど」
王妃がそう言えば、控えていた侍女がさっと椅子を引き、彼女を座らせた。次にレオナルド殿下が、そして最後に私の椅子が引かれる。順に座ったあと、控えていた給仕が料理を運んできた。
若葉のサラダに、大きなローストチキン。サラダには薄切りにしたきゅうりとゆで卵が見栄えよく添えられており、鶏肉は一頭丸ごと机に置かれ給仕が部位を取り分けてくれるようだった。
パンは数種類に紅茶は淹れ立て。このあとにおそらくデザートで果物や菓子が用意されている。
これで気楽かぁ……。いつもは適当にサンドイッチを食べて終わりだから、腹の容量が心配だ。私は二人に見えないようにそっと腹を摩った。
「日差しが気持ちいいですね。ネイオニーさんとお話ができて嬉しいわ。学問補佐の件は気かがりでしたので。レオナルドもそうでしょう?」
王妃はサラダに手を付け始めながら、隣に座っているレオナルド殿下に話を振った。彼はどこか肩身が狭そうだった。
「……ネイオニーは優秀な魔法使いです。後任として、十分な働きをしています」
「あらまあ、そういうことじゃないのですけどねえ」
うふふとサンドレア王妃は微笑んだ。レオナルド殿下はどこか不貞腐れていたように見えた。珍しい。殿下があそこまで感情を露わにするなんて。年頃の息子と母親のやり取りとは、あんな感じなのだろうか。
「ネイオニーさんには感謝しているのよ。前任者の件を知っても引き受けてくれたのは、あなたともう一人だけでしたの。キルクルス家のご子息の推薦ということで、ネイオニーさんを選びましたが……レオナルドと上手くやれているようで安心したわ。良かったら、私とも仲良くしてくれるかしら?」
「そんな……こちらこそ光栄です、サンドレア王妃」
王妃がサラダを食べたのを確認したあと、私はようやく食事に手を伸ばした。王妃と同じように若葉のサラダを一口食べる。味などわからなかった。
「母上。あまり学問補佐を困らせるものではありません」
「まあ、お堅いことを言うのだから。私も、娘ほどのご令嬢と親しくなりたいのよ」
レオナルド殿下が窘めるも、サンドレア王妃はどこ吹く風だ。それどころか、「そうだわ」と閃いた顔をして両手を合わせた。
「よろしかったら観劇をご一緒しませんか、ネイオニーさん」
とんでもないお誘いに、食器の音を立てそうになった。
「お、王妃様……身に余る光栄ですが、私如きにサンドレア王妃の貴重なお時間をいただくわけには……」
「あら、観劇は趣味ではない? 最近ですと、若手の脚本家の恋愛劇が流行っていますのよ。ネイオニーさんは興味なくて?」
微塵たりとも興味がない。そう答えるわけにもいかず、私は頬を引き攣らせないように努めて笑った。
「申し訳ありませんが、その手の流行に疎くて……王妃様は恋愛劇がお好きなのですか?」
「ええ、好きよ。特に悲恋がお気に入りなの」
サンドレア王妃の声が一段と高くなった。楽しそうな声音に、私だけではなく控えていた侍女や給仕もわずかに身じろいだ。
「喜劇も素敵だけど、悲劇は心に爪痕を残された気分になる。やはり物悲しい結末の方が胸を打たれて感動するわ。ネイオニーさんも悲劇はお好きで?」
王妃の問いに、私は言葉を濁した。
「私は……悲劇は少し苦手です。悲しい気分になるのが辛くなってしまうので。物語の最後は幸せな結末を望んでしまいますね」
答えている内に、サンドレア王妃が苦手な理由がなんとなくわかってしまった。
この方は、他人の不幸を楽しんで消費するタイプだ。無自覚かもしれないが、悲劇を語る王妃の目は輝いていた。
私は、悲劇の登場人物達にやるせない気持ちを抱く。だがこの人は違うのだろう。物憂げな心地よさを求めて、他人の人生を観賞している。たとえ架空の物語の話といえど、私は王妃とは相容れられそうになかった。
「悲劇を好む令嬢は少ないでしょう。私も、喜劇の方が好みです。母上のように酸いも甘いも噛み分けるようになった頃に、悲劇の良さが理解できるかもしれません」
レオナルド殿下が会話に加わってきた。また助け船を出してくれたようだ。殿下の気遣いを私はありがたく思い、こっそり微笑んで礼をすれば、彼は目元をほんのり赤くして目を逸らした。
サンドレア王妃はそんなレオナルド殿下を見て、目を細める。
「私は若い頃から悲劇が好きだったけど……そうね。二人がもう少し歳を重ねたら、私の気持ちがわかるかもしれませんね。特に二人はまだ結婚も控えていますから」
王妃はレオナルド殿下を一瞥した後、私に視線を移した。
「ネイオニーさんは今十六歳でしょう? 早い方ですと、もうご結婚なされていますわ。ネイオニーさんも、予定はあるのかしら?」
しまった。あまり触れてほしくない話題に変わってしまった。
正直、結婚などあと十年は考えたくない。恋愛がくだらないとは言わないが、私の人生において優先順位で最下位だ。
しなくていいならずっと独り身でいたい。だがそれだと変人扱いされるため、私は本心を漏らさないよう努めてにこやかに応じた。
「いいえ、まだそのような話は来ておりません。実家が貧乏ですので、嫁の貰い手がありませんの」
それに、と付け加え、声の調子を低くした。
「妊娠と出産は大変ですから、慎重に考えています。私は宮廷魔法使いの仕事を誇りに思っていますが、妊娠中は魔法を使うなと言われますし……お腹の子に触りが出て、魔力無しや個人魔法持ちになるのは避けるべきですから。なので少なくとも、一人前の宮廷魔法使いになるまでは、結婚はしないと決めています」
手のひらに汗がにじむ。サンドレア王妃にバレないように膝の上に置く。生意気な返答だと思われないか、心配だったのだ。
王妃は「あら」と目を丸くし、口の端をナプキンで拭った。
「随分と思い切りがいいのね。宮廷で一人前になるには、十年は必要だと言われているのに。婚期を逃してしまうじゃない。ネイオニーさんは可愛らしいのに、もったいないわ。ねえ、レオナルド。あなたもそう思わない?」
話を振られると思っていなかったのか、レオナルド殿下がナイフを掴み損ねて地面に落としてしまった。新しい物を侍従から受け取って、王妃に答える。
「……価値観は人それぞれです、母上。我々が口を出すと、ネイオニーが委縮するでしょう。彼女の意志を尊重すべきです」
「まぁ。私はあなたの感想を聞いただけよ? ネイオニーさんは魅力的な女性でしょ? レオナルドはそう思わないと?」
「………」
王妃の発言に、レオナルド殿下がカッと顔を赤くした。私は慌てて仲裁に入る。
「サンドレア王妃、どうかその辺りで……殿下もお困りのようですし……」
王妃って息子を揶揄うタイプの母親なのかなぁ……? 殿下ぐらいの男子に、母親から女を褒めろって女の前で言われたら恥ずかしくなるのも普通だよ……。
私はレオナルド殿下に同情しながら、何とか話題を変える。王妃が好きそうな悲劇について尋ねれば、彼女は嬉々として目の色を変え、この前の観劇の感想を話し始めた。
私は内心上手くいったことに安堵しながら、またナイフとフォークを手に取る。
まだ全然食べていないのに、すでに腹は緊張でいっぱいだった。
味などわからない。それでも私が食事を止めるなどできるはずがなく、私は皿に盛られた肉にナイフを入れ始めた。
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