8話 やっぱ異世界でした
一週間経った。
この間、特に問題が起こることはなかったが、問題が解決されることもなかった。
目を覚ましたら、見覚えの部屋に帰っていたり、とか体を自由に動かせることもない。
視覚しかない状態で目を覚まし、赤ちゃんの声を聞きながら、外の観察をし、「何か」を操る練習をすることが日常になってしまった。
由々しき事態。
でも、まぁいっか、と思ってしまっている俺がいる。
帰る方法を模索することも出来ない。
その前に、俺は元の世界に帰りたいのだろうか?
まぁ、いっか。
うん、こういうことは帰る方法が見つかった時に考えよう。
後回しだ。
この一週間はほぼ変わりない日々だったが、それでも進歩したことはあった。
先ず、音だ。
ここで理解して欲しいのは、俺は音が聞こえてはいないことだ。ただ音波の形を単純な映像として取り入れているだけ。だから、未だ世界は静かだ。
少しずつ判別がつくようになってきてはいるのだが、今の所母音しか拾えない。
例えば、「おあおうおあいあう」
分かるだろうか?
これは、よくメイドが朝一番に赤ちゃんに言っている言葉だ。母音から意味を理解するのに、かなりの時間を要した。
因みに答えは、「おはようございます」だ。
もう一つ分かった言葉は、赤ちゃんの名前だ。こちらもメイド達と母親が何回も繰り返し言ってくるから分かった。
母音しか分からないが、「いうあ」らしい。
…よく考えてみれば、あんまり進歩はしていないかもしれない。
言語の習得と同時並行で進めなければいかないので、かなり忙しくなりそうだ。
次に、視界の方だな。こちらの成果は著しい。
最初は、情報過多状態による吐き気と痛みでまた意識を失いかけた。そのあと試行錯誤を繰り返し、やっとこさ光波と音波、あとその他諸々に仕分けすることに成功した。
でも結局問題は残った。見え過ぎるのだ。
360度全てが見渡せるということは、その分通常よりも入手できる情報が多い。この時点で、負担がかかるのはどうしようもなかった。
ただここで、俺の脳は閃いた。
俺は今、体を動かす必要性がない。ならその分の処理能力を全て使いきってしまえ!
ということで、根性で乗り切った。
最後には、全部気合でなんとかなるんだな、これが。
たまに痛みが生じることもあるが、その頻度も段々低くなってきた。
今は、結構快適だ。見える範囲が増えただけじゃなく、「いうあ」が寝ている時でも周りの景色が見える。また、便利すぎる力を手に入れてしまった。
だが、見えるようになったのにあまり情報は増えなかった。何故か図書館から一歩も出ることがないのだ。もっと外の世界へ出してあげなければいけないと思うのは、俺の願望だったりするだろうか。
でも、よく考えればそれが普通なのかもしれないな。この体の中で目を覚ましてからまだ半月程度しか経っていない。恐らく「いうあ」は、まだ生後一ヶ月かそこらなのだ。出来ることといえば、泣くことと寝ることだけ。おしめも変えてもらえるし、授乳だって乳母さんが勝手にあちらからやって来る。それほどまで生活リズムが変わった様子もない。少し起きている時間が長くなった程度か。
だからこそ外に出る必要がない。
出来れば外に出て欲しいが、乳母さんやメイドの方が育児に関しては俺より知っている筈。あまり文句は言えないな。
ということで、俺は基本的にボーッとしている。特に何かすることもなく、何か目新しい発見もないので外の「何か」を何も考えずに循環させているだけだ。
隣では、母親が本を読んでいる。彼女はかなりの本好きのようだ。この部屋に来た時は、赤ちゃんをあやした後、ずっと本を読み続けている。時々、子供用の絵本を持ってきて読み聞かせているのだが、俺も例に漏れず、「いうあ」も意味が分かってないと思う。でも、時々笑ってみせるので、母親の方も張り切って読んでいる。楽しそうで何よりだ。
そういえば、母親の名前が分からない。母音だけ分かるのもどうかと思うが、何かと不便だ。
何とか解読しようとしてるのだが、メイド達が呼んでいるのが名前じゃない気がしてならない。どっちかというと「奥様」的なニュアンスだと思う。覚えられる言葉が増えるのは良いことなので、文句はないが。
とにかく平和な昼下がりだ。「何か」を空間で循環させながら、浮遊島以来何も目新しいものが見えない窓を見つめる。言ってしまえば、暇だ。思いっきり暇だ。何か起きないかなぁ。
そんなことを考えていると、既にお馴染みになってしまった不快感を感じた。メイドさーん、お仕事ですよー。
早くもぐずり始めた「いうあ」を見て、母親が本を置いてこちらに手を伸ばしてきた。少し困惑顔になった後、急に納得したような表情を見せた。
そして、いつもは乳母さんに任せているのに、おもむろに胸元をはだけさせる。
目に飛び込むは黄金の輝き。
ちょっと待てぇええええ!
俺は急いで、目を背ける。実際に背けることはできないが、光波の読み込みを止めて、目の前にある綺麗な形の双丘をできるだけ意識の外へと押し出す。たとえ、ほぼ全ての欲求というものが消え失せていようとも、自分的にアウトなものはアウトなのだ。これまで乳母さんが授乳していた時だって、頑張って目をそらしてきた。不可抗力と言えるかもしれないが、なんか駄目だ。
紳士。そうだ、俺は自分が紳士だと信じたい。だから絶対にこの光景を保存するなよ、俺の記憶力!
少しの間その豊満な胸を「いうあ」の顔に押し付けた後、やっと違うと気付いて外したボタンを留め始めた。そしてまた、困った表情をする。
首をかしげ、顎に手を当てて考えている。それが癖なのかもしれない。本を読んでいる時も似たような仕草をしていた。そしてその仕草が実によく似合っている。
かなりモテそうだ。確実にラブレターが殺到するレベル。
どうでもいいですね、はい。
また少しの間考えた後、再度納得した表情になる。今度は、「いうあ」の服を脱がせるべく手を伸ばし始める。
俺は、もう一度目をそらす。一度見てしまっているが、アウトなものはアウトだ。
脱がし終えた母親は、少し顔を顰めた後、また困惑の表情を浮かべた。何をすればいいか分からないようだ。メイド達に任せっきりだしな、仕方ない。でも、俺は彼女が育児放棄しているとも思わない。この世界では育児などは、乳母やメイドに任せるのは普通なのだろう。もしかしたら上流階級だけかもしれないが、それでも文化がそうさせているのなら問題でもないだろう。それに、母親はちゃんと「いうあ」と触れ合いを持とうとしている。絵本を読んであげたり、いざとなったら自分で育児もしようとしているしな。
そんな彼女が、次に迷いの表情を浮かべた。なんというか、これは本当にやっちゃっていいのだろうか、と逡巡しているような感じだ。最悪メイドさんに怒られるかもしれない。でも、彼女は一瞬で決断したようだ。案外何も考えずに、突っ走っていく性格なのかもしれない。
彼女は、「いうあ」の爆弾部分に手をかざし、そして何かを呟いた。瞬間、彼女の掌の前に魔法陣のようなものが、浮かび上がる。
それは魔法陣としか呼びようがないものだった。または、術式?とにかく幾何学模様が幾重にも重なったような、丸いものだ。
何だ?と思う間もないまま、そこから白色の光が迸る。そして、その光が消えたとき、先ほどから感じていた不快感が一瞬で消え去った。いつものように少しずつ小さくなる訳ではなく、文字通り一瞬で。
こ、これは。もしや!?
満足した表情で、母親は「いうあ」に服を着せ始める。すると、メイド長が部屋入ってきて、彼女を怒り始めた。恐らく、これは私の仕事です的なことを言っている。
でも、俺はそんなことに目もくれなかった。頭に焼き付いているのは、さっきの光景だ。短い呟きと魔法陣、そして閃光。それらが指し示すのは、俺の元居た世界には存在しなかったもの。
この世界には、魔法がある。




