第四話 勇者、レジに立つ
ハッピーマートひだまり三丁目店の店長、大林誠は、四十七歳である。
二十年勤めた会社を早期退職し、退職金でコンビニのオーナーになって五年。夜勤のアルバイトが三人同時に辞めた今、彼の目の下には、海よりも深いクマが刻まれていた。
そんな大林の目の前に、今、ひとりの若い女性が立っている。
泥だらけの銀色の鎧。ぼさぼさの金髪。背中には布で巻いた長い棒。そして、片足だけスリッパ。
「たのもう! この『アルバイト』とやらに、志願しに来た!」
夜の十時。店内には、大林と彼女の二人きりだった。
大林は、レジカウンターの内側で、ゆっくりと瞬きをした。疲れているのだ、と思った。三日連続の夜勤で、ついに幻覚を見始めたのだ。
だが、幻覚にしては、彼女のお腹の音が大きすぎた。
ぐうううううう。
店内に流れる有線放送のJポップをかき消すほどの音量だった。
「……とりあえず、これ、食べる?」
大林は、ちょうど棚から下ろしたばかりの、賞味期限切れ間近の唐揚げ弁当を差し出した。本来なら廃棄するものだ。
彼女の碧い瞳が、まるで聖杯でも見つけたかのように、大きく見開かれた。
◇
リリア・ブレイブハートは、生まれて初めて「唐揚げ」というものを食べた。
そして、泣いた。
「なんだこれは……! 外はさくさくで、中はじゅわっと……! 王宮の晩餐会でも、こんなに美味しい鳥は出なかった……!」
「そ、そう? それ、一番安い弁当なんだけど」
「一番安い!? この世界の民は、毎日こんなものを食べているのか!?」
「まあ、わりと」
「なんと豊かな国だ……!」
リリアは、ご飯の最後の一粒まで、箸を握りしめて(握り箸だった)、きれいに平らげた。大林は、その食べっぷりを、なんだか娘を見るような気持ちで眺めていた。大林には娘がいない。息子が二人いるが、どちらも最近は口をきいてくれない。
「で、アルバイトの件だけど」
「うむ! なんでもやる! ドラゴン退治でも、盗賊団の討伐でも!」
「そういうのは、ないかな……。レジ打ちと、品出しと、トイレ掃除なんだけど」
「トイレ掃除……」
リリアは、ほんの一瞬だけ迷った。勇者が、トイレ掃除。師匠が聞いたら何と言うだろう。
だが、さっきの唐揚げの味が、舌の上によみがえった。
「やる!」
「そ、そう。じゃあ、えっと、履歴書とか……それと、身分証明書と、住民票の写しってある?」
「りれきしょ? じゅうみんひょう?」
リリアは、首をかしげた。
「それは、魔物か何かか?」
大林は、深いため息をついた。そうだよな、と思った。やっぱり、ちょっと訳ありの子なんだろう。
だが、大林は、二十年のサラリーマン生活で学んだことがひとつあった。訳ありの人間ほど、一度信じてもらえると、とことん頑張るのだ。そして、三人同時にアルバイトが辞めた店には、もう選り好みをしている余裕などないのだった。
「明日、市役所に行っておいで。住民票がないと、さすがに雇えないから。手続き、たぶん大変だろうけど」
「シヤクショ」
「この道をまっすぐ行って、二つ目の信号を右に曲がって、ずっと行った先の、大きい建物」
「まっすぐ、二つ目を右、だな! わかった!」
リリアは、力強くうなずいた。
大林は知らなかった。
彼女が、その「まっすぐ、二つ目を右」にたどり着くまでに、およそ十一時間を要することを。
◇
翌日の、午後三時。
市民課の窓口に座っていた僕は、自動ドアの向こうに、見覚えのある特徴を持った人影を見つけた。
金髪。長い棒状のもの。若い女性。
回覧板の、三枚目。
「……来た」
思わず声が漏れた。隣の窓口の佐々木さんが、怪訝な顔で僕を見た。
彼女は、ロビーの真ん中で立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回していた。泥だらけだった鎧は、少しだけきれいになっていた。片足のスリッパは、そのままだった。
そして、彼女は、なぜか僕の窓口に向かって、まっすぐ歩いてきた。
ほかにも窓口はあるのに。総合案内もあるのに。
「たのもう!」
「は、はい、いらっしゃいませ……じゃなかった。こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」
「じゅうみんひょう、とやらを手に入れに来た!」
彼女の声は、ロビー中に響き渡った。待合の椅子に座っていたお年寄りたちが、一斉にこちらを見た。
僕は、深呼吸をした。
大丈夫だ。僕には、もう経験がある。前例は、ないけど、ある。
「……もしかして、異世界の方ですか」
彼女の碧い瞳が、大きく見開かれた。
「なぜわかった!? お前、何者だ!?」
彼女は、背中の棒に手をかけた。布の隙間から、まばゆい白銀の光が漏れた。
「お、落ち着いてください! ただの市役所の職員です! 田中です!」
「タナカ……」
「こちらに、条例がありまして」
僕は、カウンターの下から、例の黄ばんだファイルを取り出した。課長が「田中くん専用にしておくね」と言って、僕の窓口に常備することになった、ひだまり市条例第百八号である。
◇
手続きは、前回よりはスムーズに進んだ。
いや、スムーズとは言えないかもしれない。
まず、彼女は、この国の文字がほとんど読めなかった。言葉は通じるのに、文字は読めない。どうやら、異世界から来た人たちは、話し言葉だけは自動的に翻訳されるらしい。そういえば魔王さんは、初日から「くらしのガイド」をすらすら読んでいた。王族としての教育で、あらゆる言語を読み解く魔法を幼い頃から叩き込まれたのだ、とあとで聞いた。勇者さんのほうは、そういう教育は受けていないらしい。
なので、申請書は、僕が聞き取りながら代筆した。
「お名前は」
「リリア・ブレイブハート!」
「……こちらで使う通称を決めていただきたいんですが」
「つうしょう?」
「こっちの国風の名前です。前の方は、僕が考えたんですけど」
「前の方?」
しまった。
「いえ、なんでもないです。……そうですね、勇者さん、なんですよね?」
「なぜわかった!?」
「なんとなくです」
僕は、メモ用紙に書いた。
『勇 りりあ(いさみ りりあ)』
「勇ましい、という意味の『勇』という字です。名字として、実際にあるんですよ」
彼女は、メモ用紙を手に取った。文字は読めないはずなのに、じっとその一文字を見つめていた。
「イサミ……勇ましい……」
彼女の頬が、ほんのり赤くなった。
「いい名前だ。気に入った!」
よかった。前回の骨川スケ蔵さんよりは、ずっとまともな名前をつけられたと思う。
身元引受人の欄で、少し迷った。魔王さんの身元引受人をしている僕が、勇者さんの身元引受人もしていいのだろうか。利益相反、という言葉が頭をよぎった。でも、ほかに頼める人もいない。
結局、僕の名前を書いた。
住所は、とりあえず、雇ってくれるというコンビニの店長さんの連絡先を借りることにした。住む場所は、追々考えるしかない。
そして、すべての書類が揃ったとき。
彼女が、カウンターに身を乗り出してきた。
「ところで、タナカ」
「はい」
「この役所というところは、この町に住む者の名前と住処を、すべて把握しているのだな?」
嫌な予感がした。
「……まあ、はい。住民基本台帳というものがありまして」
「ならば、教えてほしい」
彼女の碧い瞳が、真剣な光を宿した。
「魔王ヴァルガ=ド=ゼルギウス三世は、どこに住んでいる」
ロビーの空気が、静まり返った気がした。
僕の頭の中で、いくつもの思考が駆け巡った。
魔王さんは、今、202号室にいる。たぶん、ボーンズさんと一緒に、昨日百円ショップで買ったという「かき氷機」で、かき氷を作っている。住所を教えれば、この人は、今すぐにでも聖剣を抜いて、ひまわり荘に乗り込むだろう。そして、築五十二年の木造アパートは、たぶん、最終決戦の舞台には耐えられない。
でも、それ以前に。
僕は、市役所の職員だった。
「申し訳ございません」
僕は、深々と頭を下げた。
「他の住民の方の住所は、個人情報にあたりますので、お答えできません」
「……こじんじょうほう?」
「はい。この国の法律で、守られています。たとえ相手が誰であっても、ご本人の同意なく、住所をお教えすることはできません」
「たとえ、相手が勇者でもか」
「たとえ、相手が勇者さんでもです」
彼女は、しばらく僕を睨んでいた。聖剣の柄を、ぎゅっと握りしめている。
そして、ふっと、肩の力を抜いた。
「……そうか。この国では、それが掟なのだな」
「はい」
「ならば、仕方ない。掟は、守らねばならぬ」
彼女は、少し悔しそうに、でも、どこか納得したように笑った。
「それに、正々堂々と探し出してこそ、勇者というものだ! 役所の力を借りるなど、勇者の名折れ!」
その笑顔を見て、僕は思った。
この人も、魔王さんと同じだ。
ルールを、ちゃんと守る人なんだ。
◇
こうして、ハッピーマートひだまり三丁目店に、新しいアルバイトが誕生した。
勇りりあ。年齢不詳。夜勤。
彼女の働きぶりについて、店長の大林さんは、のちに僕にこう語った。
「いい子なんだよ。本当に、いい子なんだ。ただ……なんというか、全部が、全力なんだよね」
全力、というのは、たとえばこういうことだ。
「いらっしゃいませえええええ!」
自動ドアが開くたびに、店内に響き渡る雄叫び。それは、挨拶というより、ほとんど鬨の声だった。最初の三日で、深夜に入店した客の五人に一人が、そのまま回れ右をして帰っていった。
「あの、勇さん。いらっしゃいませは、もうちょっと、優しく……」
「優しく、だな! わかった!」
次の客が入ってきた。
「……いらっしゃいませ」
リリアは、ささやくように、そう言った。そして、客に向かって、聖母のような微笑みを浮かべた。完璧な優しさだった。あまりに完璧すぎて、客は、何か宗教の勧誘でも始まるのではないかと身構えた。
「お弁当、温めますか」
この一言を覚えるのにも、時間がかかった。
電子レンジの使い方を教えたとき、リリアは、その箱の中で弁当が勝手に温まることに、心の底から感動した。
「すごい! この箱の中に、炎の精霊が住んでいるのか!」
「住んでないです。電気です」
「デンキの精霊か!」
「精霊ではないです」
だが、リリアにとって最大の難関は、品出しでも、レジでも、電子レンジでもなかった。
店の裏の、倉庫だった。
倉庫は、店の裏口から出て、駐車場の横を通った先にある、小さなプレハブ小屋だ。距離にして、十五メートル。
リリアは、そこに飲み物の在庫を取りに行って、二時間帰ってこなかった。
大林さんが探しに行くと、リリアは、なぜか店の正面の歩道で、途方に暮れて立っていた。手には、ちゃんとペットボトルの段ボールを抱えていた。
「店長! 倉庫から出たら、店が消えていた!」
「消えてないよ。目の前にあるよ」
「なんと……! いつの間に、こんなところに!」
大林さんは、倉庫から裏口までの十五メートルに、矢印の形に切ったガムテープを、地面に貼った。十二枚。それ以来、リリアが倉庫で遭難することはなくなった。
◇
リリアが働き始めて、十日が経った頃。
その夜も、店内には、リリアと大林さんの二人だけだった。午前一時を回り、客足はぱったりと途絶えていた。
リリアは、雑誌コーナーの整理をしていた。読めない文字ばかりの雑誌を、表紙の写真を頼りに、ジャンルごとに並べ直していく。料理の雑誌。車の雑誌。それから、なぜか、魔王と勇者が戦っている絵が表紙になった、漫画雑誌。
リリアは、その表紙をしばらく見つめていた。
絵の中の勇者は、剣を振り上げ、魔王に向かって、雄々しく叫んでいた。
「……私も、早く見つけないと」
小さく、呟いた。
魔王の気配は、ずっと近くに感じている。この店から、本当にすぐ近くに。なのに、探しに行こうとすると、どうしても道がわからなくなる。
そのとき、自動ドアが開いた。
ピンポーン。
「いらっしゃいま──」
リリアの挨拶は、途中で止まった。
入ってきたのは、黒いパーカーのフードを深くかぶり、マスクをした若い男だった。男は、まっすぐレジに向かっていった。レジには、大林さんがひとりで立っていた。
男が、ポケットから何かを取り出した。
銀色に光る、小さなナイフだった。
「レジの金、出せ」
大林さんの顔から、血の気が引いた。
「は、早くしろよ!」
男の声は、上ずっていた。ナイフを持つ手が、震えていた。大林さんは、震える手でレジを開けた。
リリアは、雑誌コーナーの陰で、その光景を見ていた。
背中の聖剣に、手が伸びる。
抜けば、一瞬で終わる。あんな細い刃物など、聖剣ルミナスの一振りで、粉々にできる。
だが。
──この国では、それが掟なのだな。
市役所で、自分が言った言葉がよみがえった。
ここは、自分の世界ではない。聖剣を抜けば、あの男だけではない。この店も、大林店長も、ただでは済まないかもしれない。
リリアは、聖剣から手を離した。
そのかわりに、雑誌コーナーの陰から、すっと立ち上がった。
男は、レジの金を乱暴にポケットに突っ込むと、自動ドアに向かって駆け出した。ドアが開く。男が、夜の駐車場に飛び出していく。
「待て!」
リリアは、男を追って飛び出した。
男は、駐車場を突っ切り、店の裏手へと走っていった。リリアも、その後を追う。
角を曲がる。
男の姿が、消えていた。
リリアは、立ち止まった。右か。左か。暗くて、何も見えない。
いつもの、あの感覚が来た。道が、わからない。方向が、わからない。どちらに行けばいいのか、まったくわからない。
「くっ……!」
リリアは、勘で左に走った。
それは、男が逃げたのとは、正反対の方向だった。
狭い路地を抜け、民家の塀を飛び越え、誰かの家の庭を横切り、また路地に出る。どこを走っているのか、もうまったくわからなかった。
わからないまま、リリアは、角を曲がった。
──ごつん。
何かに、正面からぶつかった。
「いってえ!」
黒いパーカーの男だった。
男は、店の裏手から、ぐるりと遠回りをして逃げていた。人目につかない路地を選んで、選んで、選んだ末に。
なぜか、真正面から走ってきた勇者と、出会い頭に衝突していた。
男は、アスファルトの上に、仰向けにひっくり返っていた。ポケットからこぼれた千円札が、夜風にひらひらと舞っていた。ナイフは、どこかに飛んでいってしまっていた。
リリアは、男の胸の上に、片足をどんと乗せた。
スリッパのほうの足だった。
「──成敗!」
◇
駆けつけた警察官に男が連れていかれたあと、大林さんは、駐車場のアスファルトにへたりこんだ。
「勇さん……ありがとう……本当に、ありがとう……」
「礼には及ばない! 勇者として、当然のことをしたまでだ!」
リリアは、胸を張った。それから、ちょっとだけ照れくさそうに、こう付け加えた。
「……まあ、正直に言うと、道に迷っただけなのだが」
大林さんは、きょとんとした顔をして、それから、声を上げて笑った。久しぶりに、心の底から笑った気がした。
その夜、大林さんは、勇さんの時給を五十円上げた。
◇
それから三日後の、夕方。
リリアは、いつものようにレジに立っていた。強盗を撃退した勇者として、町内では、ちょっとした有名人になっていた。「あのコンビニの金髪の子」を見るためだけに、わざわざ来店する客もいた。
ピンポーン。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ!」
リリアは、ちょうどいい音量で、元気よく挨拶をした。十日間の特訓の成果だった。
入ってきたのは、身長二メートルの、大柄な男だった。
つんつるてんの浴衣を着ていた。七月なのに、ニット帽をかぶっていた。その後ろには、マスクとサングラスと帽子と手袋とロングコートで全身を覆った、ひょろりと細い人物が従っていた。
男は、まっすぐレジの前まで歩いてきた。手には、雪見だいふくを、一つ持っていた。
「これを、ひとつ」
低い声だった。
お腹の底に響く、重低音。
地の底から響くような、あの声。
リリアの手から、バーコードリーダーが落ちた。
かしゃん、と乾いた音がした。
男もまた、レジの向こうに立つ店員の顔を見て、ぴたりと動きを止めていた。ニット帽の下の赤い瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
店内の有線放送が、場違いに明るいJポップを流し続けていた。
「……勇者よ」
「……魔王」
二人の声が、重なった。
「「なんで、こんなところに!?」」
後ろに控えていた骸骨が、カタカタと骨を鳴らしながら、小さく呟いた。
「……魔王様。雪見だいふく、溶けてしまいます」




