第三話 魔王、回覧板を回す
金曜日の夕方。ひまわり荘202号室に、回覧板がやってきた。
青いプラスチックのバインダーに、町内会からのお知らせが三枚。表紙には、回覧する順番が書かれた名簿が貼ってある。陽だまり町三丁目の第四班、全十二世帯。ひまわり荘はその七番目と八番目で、201の僕の次が202の魔王さん、その次が隣の一軒家の山田さん、という順番だ。
僕が202のドアをノックして回覧板を渡すと、魔王さんはそれを両手で受け取った。
住民票のときと同じ、恭しい受け取り方だった。
「……確かに受領した」
「そんな大げさな」
「大げさではない、タナカ。これは伝令である」
魔王さんは、ちゃぶ台の上に回覧板を置き、正座してその前に向き合った。ボーンズさんが、すかさず麦茶を出す。冷えたグラスの表面に、水滴がついていた。
「向こうの世界では、伝令は国の血管であった。前線の情報を、王都へ。王都の命令を、前線へ。ひとりの伝令が倒れれば、ひとつの砦が落ちる。余は伝令兵を、最も大切に扱った」
「はあ」
「この回覧板とやらも同じである。十二の家をつなぐ、一本の血管だ」
魔王さんは、お知らせの一枚目を手に取った。
『陽だまり町三丁目 夏祭り実行委員募集のお知らせ』
二枚目。
『熱中症に注意しましょう ──ひだまり市保健センター』
三枚目。
『不審者情報 七月○日ごろから、金髪で、長い棒状のものを持った若い女性が、町内を何度も行ったり来たりしているとの情報が寄せられています。声をかけると「魔王はどこだ」と尋ねられたとのことです。お心当たりの方は町内会長まで』
僕と魔王さんとボーンズさんは、三枚目を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……魔王さん」
「うむ」
「これ」
「うむ」
「勇者さん、ですよね」
「おそらくな」
ボーンズさんが、麦茶のグラスをカタカタ鳴らした。
「金髪で、長い棒状のもの。そして、魔王はどこだ。……間違いございません。勇者リリアでございます」
「同じ町内にいるんじゃないですか!」
「そのようだな」
「探さないんですか!?」
「なぜ余が探す必要がある。向こうは余を倒しに来た者であるぞ」
魔王さんは、ちっとも慌てていなかった。それどころか、三枚目を丁寧に読み返している。
「それに、この報告によれば、勇者は『何度も行ったり来たり』しておる。つまり、迷っておるのだ」
「迷ってる」
「あの者は、旅の途中でも三度、魔王城とは逆方向に進んで、隣国まで行ってしまったという噂がある。極度の方向音痴なのだ」
「勇者なのに!?」
「勇者であることと、地図が読めることは、別の才能である」
それは、そうかもしれないけど。
魔王さんは、回覧板の表紙の名簿に、ボールペンで丸をつけた。202の欄。それから、印鑑の代わりに、指先でちょんと触れた。
じゅっ、と小さな音がして、名簿の欄に、黒い焦げ跡で紋章が浮かび上がった。角の生えた竜の紋章だった。
「ちょっと! 何してるんですか!」
「印を押したのだ。余は印鑑を持っておらぬゆえ、魔王家の紋章で代わりとした」
「焦げてますよ!」
「消えぬ印のほうが、確かであろう」
そういう問題じゃない。
「この前、佐藤殿にありがとうと言われてから、少しだけ魔力が戻っておってな。これくらいなら、できるようになった」
魔王さんは、少しだけ得意そうだった。
僕はため息をついた。とりあえず、ハンコは近いうちに百円ショップで作ってもらおう。シャチハタなら、たぶん「是留」も特注で作れるはずだ。
◇
回覧板は、その日のうちに魔王さんの手で隣の山田さんに届けられた。
魔王さんは、ちゃんと山田さんの玄関の前で、「回覧板である。確かに届けた」と大きな声で宣言してから、ドアノブに袋をかけてきたそうだ。山田さんはひとり暮らしの七十九歳のおばあちゃんで、耳が少し遠い。だから大きな声で言った、というのが魔王さんの説明だった。
そこまではよかった。
問題は、そこからだった。
「……来ぬ」
火曜日の夜。202号室のちゃぶ台の前で、魔王さんが腕を組んでいた。目の前には、手書きの地図が広げられている。陽だまり町三丁目第四班の、十二世帯の位置と回覧の順路が、赤いペンで矢印として描き込まれていた。
「来ないって、何がですか」
「回覧板である。余が山田殿に渡してから、すでに四日。本来であれば、残りの四世帯を経て、班長の家に戻っておる頃合いだ」
「なんでそんなこと知ってるんですか」
「班長殿に確認した。毎晩、聞きに行っておる」
毎晩。
班長の鈴木さん(市役所の課長とは別人だ)の家の前に、毎晩、身長二メートルの男が訪ねてきて「回覧板は戻ったか」と尋ねる光景を想像した。鈴木さん、たぶん眠れていない。
「回覧板って、けっこう止まるものですよ。うっかり忘れて、何日も置きっぱなしにしてる家とか、よくあります」
「うっかり、か」
魔王さんは、地図の上の一点を、指でとんとんと叩いた。
九番目。山田さんの家。
「ボーンズ。今日、山田殿の家の様子はどうであった」
「はい。本日、わたくしが百円の店に向かう途中に前を通りましたが……」
ボーンズさんは、少しだけ言葉を止めた。
「新聞が、三日分、郵便受けに溜まっておりました」
部屋の空気が、変わった。
「それから、ドアノブに、回覧板の袋が、かかったままでございました。魔王様が金曜日にかけた、そのままの位置に」
魔王さんが、立ち上がった。
天井の電灯の紐が、角に当たって大きく揺れた。
「タナカ。行くぞ」
◇
夜の九時を回っていた。
山田さんの家は、ひまわり荘のすぐ隣にある、小さな二階建ての一軒家だ。庭には、手入れの行き届いた朝顔の鉢が並んでいる。山田さんは毎朝、この朝顔に水をやるのが日課だった。僕も出勤のときに、何度か「おはようございます」と挨拶をしたことがある。
その朝顔が、全部しおれていた。
家の窓には、明かりがついていなかった。いや、一か所だけ。一階の奥の部屋の窓から、ぼんやりとテレビの光が漏れていた。
「山田さーん!」
僕は玄関のチャイムを押した。反応がない。もう一度押す。ドアを叩く。
「山田さん! 隣の田中です! 大丈夫ですか!」
返事はなかった。
テレビの音だけが、かすかに聞こえてくる。バラエティ番組の笑い声。その笑い声が、ひどく遠く、ひどく場違いに聞こえた。
心臓が、嫌な音を立て始めた。
「警察……いや、救急車……でも、中の様子がわからないと……」
僕がスマホを取り出して迷っていると、魔王さんが、玄関の横の窓に顔を寄せた。カーテンのわずかな隙間から、部屋の中を覗き込んでいる。
「タナカ」
魔王さんの声は、静かだった。
静かで、硬かった。
「倒れておる」
◇
そこから先のことは、正直、細かくは覚えていない。
覚えているのは、断片だけだ。
魔王さんが、玄関の鍵を指先で触れた瞬間、かちり、と鍵が開いたこと。
暗い廊下を抜けた奥の部屋で、山田さんが、テレビの前の畳に横向きに倒れていたこと。
部屋の中が、蒸し風呂のように暑かったこと。エアコンは、ついていなかった。窓も閉め切られていた。七月の夜なのに。
山田さんの顔が真っ赤で、触れると、異様に熱かったこと。でも、汗はほとんどかいていなかったこと。
「熱中症だ……!」
回覧板の二枚目を思い出した。保健センターのお知らせ。高齢者は暑さを感じにくい。エアコンを我慢しないで。重症になると、汗が出なくなる。
「タナカ! 救急車を呼べ!」
魔王さんの声で、我に返った。
僕は震える指で一一九番を押した。電話の向こうの落ち着いた声に、住所と、状況を伝える。七十九歳の女性。熱中症の疑い。意識は──。
「山田さん! 山田さん、聞こえますか!」
呼びかけると、山田さんのまぶたが、かすかに動いた。唇が、何か言いたそうに震えた。
「意識、少しあります!」
電話の向こうから、指示が来る。救急車が到着するまで、体を冷やしてください。首、脇の下、太ももの付け根。そこに太い血管が通っています。冷たいものがあれば、そこに当ててください。
冷たいもの。僕は台所に走った。冷蔵庫を開ける。冷凍庫を開ける。保冷剤が、ひとつだけ。足りない。全然足りない。
「魔王さん、冷やすものが──」
振り返ると、魔王さんが、山田さんの横に膝をついていた。
両手を、山田さんの体の上にかざしている。
「ボーンズ。窓を開けよ。タナカ、エアコンをつけよ」
「は、はい!」
僕がエアコンのリモコンを探しているうちに、魔王さんの手のひらの下で、何かが起きた。
青白い光だった。
光は、霧のように細かく、静かに、魔王さんの手から山田さんの体へと降りていった。首筋に、脇の下に、足の付け根に。光が触れたところから、うっすらと白い霜が浮かび、すぐに溶けて消えていく。部屋の温度が、目に見えて下がっていく。むっとした熱気が、すうっと引いていく。
氷の魔法、なのだと思った。
でも、それは、僕が漫画やゲームで見たような、敵を凍りつかせる攻撃の魔法ではなかった。
もっとずっと、優しい魔法だった。
魔王さんの額に、汗が浮かんでいた。手のひらが、小刻みに震えていた。
「魔王様! 魔力が足りません! これ以上は、お体が──」
「黙っておれ、ボーンズ」
魔王さんは、手を下ろさなかった。
「回覧板を、届けたのは、余だ」
低い声で、魔王さんは言った。
「金曜日に、余はこの家の前で、大きな声で、回覧板を届けたと言った。それで、務めを果たしたつもりでおった。……だが、この御婦人が、そのとき、どんな様子であったか。余は、確かめなんだ」
「魔王さんのせいじゃないですよ!」
「伝令の務めは、届けることだけではない。届けた先で、何が起きておるかを、知ることでもある」
魔王さんの手から、最後の光が、ふっと消えた。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
◇
救急隊員の人たちは、手際がよかった。
山田さんは、担架に乗せられて救急車に運び込まれた。その頃には、意識もだいぶはっきりしていて、隊員の人の呼びかけに、小さくうなずいて答えていた。
救急隊員のひとりが、僕に言った。
「発見が、あと少し遅かったら危なかったです。それと、応急処置がとても適切でした。体温が、思ったよりずっと下がっていた。保冷剤、たくさんあったんですね」
「あ……はい。まあ」
保冷剤は、ひとつしかなかった。
僕は、救急車の横に立っている魔王さんを見た。魔王さんは、何も言わずに、ただ、救急車の中の山田さんを見ていた。
担架の上で、山田さんが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
しおれた朝顔のような、弱々しい顔だった。でも、目には、ちゃんと光が戻っていた。
山田さんの唇が、動いた。
声は、ほとんど聞こえなかった。
でも、僕にも、魔王さんにも、何と言ったかははっきりわかった。
──ありがとう。
救急車のドアが閉まった。サイレンを鳴らして、夜の住宅街を走り去っていく。
その赤い光が、角を曲がって見えなくなったとき。
魔王さんのニット帽が、ぽろりと地面に落ちた。
帽子の下から現れた二本の黒い角が、淡い金色の光を放っていた。今度は一瞬ではなかった。蛍の光のように、ゆっくりと明滅しながら、しばらくのあいだ、夜の中で静かに光り続けていた。
魔王さんは、自分の角に、そっと手を触れた。
「……温かい」
ぽつりと、そう言った。
「向こうの世界で、民に畏れられて力を得たときは、角はいつも、氷のように冷たかった。だが、これは……」
それ以上、魔王さんは何も言わなかった。
いつの間にか、ひまわり荘の一階の窓が開いていた。キヨさんが、窓辺からこちらを見ていた。金色に光る魔王さんの角を見て、キヨさんは驚きもせず、ただ、目を細めていた。
まるで、懐かしいものでも見るように。
◇
三日後、山田さんは無事に退院した。
退院したその日に、山田さんは菓子折りを持って、ひまわり荘の202号室を訪ねてきた。そして、魔王さんの手を両手で握って、何度も何度も頭を下げた。
魔王さんは、少し困ったような顔で、こう言った。
「礼には及ばぬ。それより、山田殿。ひとつ、約束してほしい」
「なんでしょう」
「夏の間は、エアコンを我慢せぬこと。それから──」
魔王さんは、懐から一枚の紙を取り出した。手書きの、新しい名簿だった。
「回覧板を受け取ったら、必ず、隣の家に手渡しで届けること。ドアノブにかけるのではなく、顔を見て、手渡しで」
山田さんは、少し驚いた顔をした。
「手渡しで、ですか」
「うむ。顔を見れば、元気かどうかがわかる。回覧板は、知らせを届けるだけのものではない。隣人の無事を、確かめ合うためのものでもあると、余は思う」
その日の夜、町内会長の権田原さんが、またひまわり荘にやってきた。今度は一升瓶ではなく、分厚い書類の束を抱えていた。
「是留さん! あんたの提案、町内会の役員会で検討させてもらうぞ! 回覧板の手渡しルール! 全班で導入だ!」
「うむ」
「それと、もうひとつ!」
権田原さんは、書類の束の一番上の紙を、魔王さんの前にばんと置いた。
『陽だまり町三丁目町内会 入会申込書』
「まだ、入ってなかっただろう。町内会に」
魔王さんは、申込書をじっと見つめた。
それから、なぜか少しだけ、ためらった。
「……余は、この世界の者ではない。いずれ、向こうに帰るやもしれぬ。そのような者が、入ってよいものか」
「関係ないね!」
権田原さんは、がははと笑った。
「ここに住んで、ゴミを分けて、回覧板を回して、隣のばあさんを助けた。それで十分だ! あんたはもう、三丁目の住人だよ!」
魔王さんは、しばらく黙っていた。
やがて、ボールペンを手に取った。
氏名の欄に、丁寧な字で、こう書いた。
『是留 魔央』
そして、印鑑の欄には──今度は、焦げ跡ではなかった。僕が百円ショップで特注した、真新しい「是留」のシャチハタが、ぽん、と押された。
◇
──同じ夜。
ひだまり市の、陽だまり町三丁目から、わずか二百メートルほど離れた交差点。
ひとりの若い女性が、コンビニエンスストアの前に立ち尽くしていた。
金色の髪は、三週間の野宿でぼさぼさに乱れていた。身に着けた白銀の鎧には、あちこちに泥がこびりついている。背中には、布でぐるぐる巻きにした、長い棒状のもの。足元は、片方だけ、ふかふかのスリッパだった。
勇者リリア・ブレイブハートは、三週間ぶりに、深く、深く、ため息をついた。
「……また、ここに戻ってきちゃった」
この交差点を見るのは、今日だけで七回目だった。
この世界に落ちてきてから、三週間。魔王の気配を追って、毎日この町をさまよっている。気配は、確かに近くにある。ものすごく近くにある。なのに、どうしてもたどり着けない。右に曲がれば左に出て、まっすぐ進めば元の場所に戻ってくる。
この世界の道は、きっと呪われているのだ。リリアは、本気でそう思っていた。
ぐううう、とお腹が鳴った。
この三週間、口にしたのは、公園の水道の水と、親切なおばあさんがくれた飴玉だけだった。この世界のお金を、リリアは一枚も持っていなかった。
目の前のコンビニの、ガラス戸。そこから漏れる、白くて明るい光。中に並んだ、色とりどりの、見たこともない食べ物たち。
そして、ガラス戸に貼られた、一枚の紙。
リリアは、まだこの世界の文字をほとんど読めなかった。だが、ここ三週間で、いくつかの文字だけは覚えた。その中に、この紙に書かれた文字があった。
『アルバイト募集』
その下に、もう少し小さな文字。
『まかない(廃棄弁当)あり』
「まかない……」
意味は、わからなかった。でも、その文字の横には、おいしそうなお弁当の絵が描いてあった。
リリアは、ごくりと唾を飲んだ。
そして、勇者としての誇りと、三週間分の空腹を天秤にかけた。
天秤は、一瞬で傾いた。
「──たのもう!」
リリアは、コンビニの自動ドアに、真正面から突撃した。
自動ドアは、ちゃんと開いた。
ピンポーン、と、間の抜けた入店音が、夜の交差点に響いた。




