第五話 魔王と勇者、特売で激突する
「…………えっ」
仕事帰りにビールを買おうとコンビニに寄ったら、店内で最終決戦が始まりかけていた。
そんな日本語を、まさか自分が使う日が来るとは思わなかった。
自動ドアが開いた瞬間、空気が違った。店内の有線放送は相変わらず明るいJポップを流しているのに、その下で、ぴりぴりと肌を刺すような何かが渦を巻いていた。
冷蔵ケースの中のペットボトルが、かたかたと小刻みに震えていた。
レジの前に、魔王さん。
レジの内側に、コンビニの制服を着た、金髪の女の子。
勇りりあさん。
つまり、勇者さん。
二人は、レジカウンターを挟んで、無言でにらみ合っていた。
魔王さんの手には、雪見だいふく。
勇者さんの手には、いつの間にか布をほどいた、白銀に輝く長剣。
店の奥では、店長らしき中年男性が、ホットスナックのケースの陰に隠れて震えていた。
そしてボーンズさんは、雪見だいふくが溶けないように、魔王さんの手元に向かって、百円ショップのうちわでせっせと風を送っていた。
「ちょ、ちょっと待ったあああ!」
僕は、ビールのことを完全に忘れて、二人の間に飛び込んでいた。
「タナカ!?」
「タナカ殿!」
「タナカ! なぜここに!」
三人分の声が、同時に僕の名前を呼んだ。この一か月で、僕の名前を呼ぶ人外の数が、急激に増えている気がする。
「タナカ、どいてくれ! ついに見つけたのだ、魔王を! ここで決着をつける!」
「どかぬでよい、タナカ。勇者よ、剣を収めよ」
「なんだと!? 怖気づいたか、魔王!」
「怖気づいてはおらん。ここは店内である」
魔王さんは、雪見だいふくを持っていないほうの手で、店の入口を指さした。そこには、一枚の貼り紙があった。
『店内での危険な行為は、他のお客様のご迷惑となりますので、ご遠慮ください。 店長』
勇者さんは、貼り紙をにらみつけた。文字は読めないはずだが、店長さんが毎日のように指さして説明していたのかもしれない。勇者さんの剣先が、ほんの少しだけ、下がった。
「……くっ」
「それにな、勇者よ。そなたは今、この店の店員なのであろう。店員が店内で剣を振り回し、店を壊したら、どうなる」
「ど、どうなる」
「店長殿が困る」
勇者さんの視線が、ホットスナックケースの陰の店長さんに向けられた。店長さんは、涙目で、ぶんぶんと首を縦に振っていた。
勇者さんは、しばらく黙っていたが、やがて、ものすごく悔しそうな顔で、剣を背中の鞘に戻した。
店内の空気が、ふっと緩んだ。冷蔵ケースのペットボトルが、震えるのをやめた。
僕は、膝から崩れ落ちそうになった。
◇
「──とはいえ、このままでは私の気が収まらない!」
五分後。店の外の駐車場で、勇者さんは腕を組んでいた。休憩時間をもらったらしい。
「三年だ! 三年かけて、ようやく魔王城にたどり着いたのだ! それが、スリッパを履かされて、異世
界に飛ばされて、決着もつけられないまま、こんな……!」
「こんな、とは何だ。コンビニは良いところであろう」
「それは良いところだけど!」
良いところなのは認めるらしい。
「魔王! 私と勝負しろ!」
「だから、店内では──」
「店の外ならいいんだろう! あそこの、広い場所で!」
勇者さんは、駐車場の向こうに見える、ひだまり中央公園を指さした。
「公園で剣を振り回したら、警察が来ます」
僕は、冷静に指摘した。
「器物損壊。銃刀法違反。公園条例違反。たぶん、ほかにもいろいろ」
「なっ……!」
勇者さんは、絶句した。そして、救いを求めるように、僕を見た。
「では、どうすればいいのだ、タナカ! この国では、勇者と魔王は、どうやって決着をつければいい!」
「どうやってって言われても……」
そんなの、この国のどの法律にも書いていない。
困り果てた僕の頭に、そのとき、ふと、昼休みに職場の先輩たちが話していた会話がよみがえった。
──明日、マルヒダで卵の特売なのよ。一パック三十八円。
──えー、行きたい。でも、あそこの特売、戦場でしょ。
──そうそう。開店と同時に、主婦の精鋭部隊がなだれ込むから。
戦場。
「……あの」
僕は、おそるおそる言った。
「この国には、ルールに則った、正々堂々の戦場が、ひとつだけあります」
魔王さんと勇者さんが、同時に僕を見た。
「明日の朝九時。スーパーマルヒダ。卵の特売です」
◇
翌朝、八時四十五分。
スーパーマルヒダひだまり店の入口前には、すでに長蛇の列ができていた。
『本日の目玉! Mサイズ卵10個入り 1パック38円(税込) お一人様1点限り 先着100名様』
入口の横に掲げられたその看板を、魔王さんと勇者さんは、並んで見上げていた。正確には、魔王さんが看板を読み上げ、勇者さんがそれを聞いていた。
「──先着百名。一人一点限り。……なるほど。数に限りがある、まさに争奪戦というわけだな」
「つまり、先に卵を手にしたほうが勝ち、ということだな、タナカ!」
「まあ、そういうことで」
僕は、列の最後尾で、あくびを噛み殺していた。ちなみに今日は土曜日だ。せっかくの休日なのに、なぜか審判役として駆り出されていた。
ボーンズさんは、魔王さんのセコンドとして、列の横で水筒の麦茶を準備していた。
勇者さんのセコンドには、なぜか、コンビニの店長の大林さんがついていた。昨夜の騒ぎのあと、事情を聞いて「面白そうだから」とついてきたらしい。目の下のクマが、少しだけ薄くなっていた。
そして、列には、もうひとつの勢力がいた。
「あら、見ない顔ねえ」
列の先頭のほうから、ひとりの女性が、すたすたと歩いてきた。
六十代前半くらい。小柄で、パーマのかかった髪を紫色に染めている。エコバッグを三つ、両肩と左腕に下げ、右手には、なぜか扇子を持っていた。
彼女が歩くと、列に並んでいた主婦たちが、さっと道を開けた。まるで、モーセの海割りのように。
「あなたたち、特売は初めて?」
「うむ。初陣である」
「そう。じゃあ、ひとつだけ忠告しとくわね」
女性は、扇子をぱちんと閉じて、魔王さんの胸元に突きつけた。身長差は、ほとんど倍くらいあった。なのに、なぜか、魔王さんのほうが一歩、後ずさった。
「ここは、遊び場じゃないの。戦場よ」
それだけ言うと、女性は、悠々と列の先頭に戻っていった。
「……何者だ、あの御婦人は」
魔王さんが、珍しく、声をひそめていた。
僕は、彼女の顔に、見覚えがあった。どこで見たのかを思い出して、僕は、思わず額を押さえた。
「権田原文江さんです。町内会長の、奥さんです」
「なんと……」
「この辺りの主婦の間では、『マルヒダの女帝』って呼ばれてるらしいです」
魔王さんと勇者さんは、そろって、ごくりと唾を飲んだ。
◇
九時ちょうど。
スーパーマルヒダの自動ドアが、開いた。
それは、開戦の合図だった。
僕は、審判として、少し離れた場所からその光景を見ていた。そして、のちにこの日のことを振り返るたびに、こう思う。
あれは、本当に、戦場だった。
主婦たちは、走らなかった。
走ってはいけない、というのが、マルヒダの特売の暗黙のルールらしい。
そのかわり、全員が、ものすごい速さで「早歩き」をしていた。
競歩の選手のような、無駄のない、洗練された早歩き。
誰ひとり押さず、誰ひとり割り込まず、それでいて、誰ひとり譲らない。
魔王さんは、その流れに、完全に呑まれていた。
「ぬう……! なんだ、この圧は……!」
身長二メートルの巨体が、小柄なおばあちゃんたちの波に押され、じりじりと後退していく。
「ごめんなさいねえ、ちょっと通してねえ」
「あらあら、大きいお兄さん、すみませんねえ」
「よいしょ、よいしょ」
誰も、乱暴なことはしていなかった。
ただ、にこにこと笑いながら、「すみませんねえ」と言いながら、すいすいと魔王さんの横をすり抜けていく。
そして、すり抜けられるたびに、なぜか、魔王さんの体は少しずつ、入口のほうへと押し戻されていった。
「魔王様! 隙間です! 右の隙間から!」
ボーンズさんが、列の外から叫んだ。
「わかっておる! だが、隙間に入ろうとすると、すでに誰かがおるのだ!」
一方、勇者さんは、開始と同時に、誰よりも速く店内に飛び込んでいた。
さすが勇者だ、と思った。
思ったのは、一瞬だけだった。
「どこだ! 卵はどこだあああ!」
勇者さんの叫び声は、なぜか、店の一番奥の、鮮魚コーナーから聞こえてきた。
卵の特売台は、入口を入ってすぐ右の、青果コーナーの横にあった。
「勇さん、逆! 逆だよ!」
大林さんが叫んだ。
「なに!? くっ、この店も呪われているのか……!」
勇者さんの声は、そのまま精肉コーナーを抜け、冷凍食品コーナーを抜け、なぜかお菓子売り場から聞こえてきた。どんどん、卵から遠ざかっていた。
特売台の前では、マルヒダの女帝、権田原文江さんが、すでに卵のパックを一つ、エコバッグに収めていた。開始から、わずか四十秒だった。
文江さんは、扇子を広げて、ゆったりと自分を扇ぎながら、魔王さんの奮闘を眺めていた。
「遅いわねえ」
◇
九時四分。
特売台の卵は、残り一パックになっていた。
魔王さんは、ようやく主婦の波を抜けて、特売台まであと三メートルのところまでたどり着いていた。
浴衣の袖が、片方ちぎれかけていた。
ニット帽は、斜めにずり落ちていた。
息も、少し上がっていた。
千年続く魔王家の当主が、卵ひとパックのために、息を切らせていた。
そして、反対側。
冷凍食品コーナーとお菓子売り場と調味料の棚を、たっぷり三周したあとで、勇者さんもまた、特売台から三メートルのところに、ようやく姿を現していた。
金色の髪に、なぜかポテトチップスの袋が一つ、引っかかっていた。
二人の目が、合った。
そして、二人の視線が、同時に、特売台の上の、最後の一パックに注がれた。
時間が、止まった気がした。
「……勇者よ」
「……魔王」
「いざ」
「尋常に」
「「勝負!」」
二人が、同時に、走り出した。
いや、早歩きをした。走ってはいけないというルールを、二人とも、この四分間でしっかり学んでいた。
三メートル。二メートル。一メートル。
二人の手が、同時に、最後の卵のパックに伸びた──
そのときだった。
「……あ」
小さな声が、聞こえた。
特売台の横に、ひとりの女性が立っていた。
三十代半ばくらい。
ひっつめた髪に、ファストファッションのTシャツとジーンズ。
足元は、かかとのすり減ったスニーカー。
手には、仕事用らしい、くたびれたトートバッグを提げていた。
女性は、息を切らせていた。
走ってきたのだろう。
ルールのことなど知らずに、きっと、駅からここまで、ずっと。
そして、彼女は、特売台の上の最後の一パックと、そこに伸びた魔王さんと勇者さんの手を見て、小さく、肩を落とした。
「……そっか。もう、ないか」
その声に、僕は聞き覚えがあった。
「ゆうたくんの、お母さん……?」
女性が、顔を上げた。
ゆうたくんによく似た、日に焼けた顔だった。
「あ……三丁目の、田中さん? いつも、ゆうたがお世話に……」
彼女は、慌てて頭を下げた。
それから、恥ずかしそうに笑った。
「夜勤明けで、急いで来たんですけど。間に合わなかったみたいですね。ゆうたが、今朝、卵焼きが食べたいって言ってたから……」
魔王さんと勇者さんの手が、卵のパックの上で、ぴたりと止まっていた。
二人は、ゆうたくんのお母さんを見た。
それから、お互いの顔を見た。
言葉は、なかった。
なかったけれど、たぶん、二人とも、同じことを考えていた。
魔王さんが、手を引いた。
勇者さんも、手を引いた。
そして、二人は、まったく同時に、最後の卵のパックを、両側から、そっと持ち上げた。
二人で一緒に持ったまま、ゆうたくんのお母さんの前に、差し出した。
「「どうぞ」」
ゆうたくんのお母さんは、目を丸くした。
「え……で、でも、お二人が先に……」
「我らは、ただの勝負で来ただけである」
「そうだ! 勝負なら、また今度つければいい! でも、ゆうたの卵焼きは、今日しか食べられない!」
「……え?」
「受け取るがよい。我らの勝負など、子の朝餉に比べれば、取るに足らぬ」
ゆうたくんのお母さんは、しばらく、差し出された卵のパックを見つめていた。
やがて、両手で、それを受け取った。
「……ありがとうございます」
彼女は、深く、頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
その瞬間。
魔王さんのずり落ちたニット帽の下で、二本の角が、ふわりと金色に光った。
そして──勇者さんの背中の聖剣の鞘からも、白い光が、ほんのりと漏れた。
「え……」
勇者さんが、驚いて、自分の背中を振り返った。
「ルミナスが……光ってる……?」
魔王さんが、勇者さんの背中の光を、じっと見つめていた。そして、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「……やはり、な」
◇
「──引き分けね」
扇子を閉じる、ぱちんという音がした。
振り返ると、権田原文江さんが、腕を組んで立っていた。
エコバッグの中で、戦利品の卵のパックが、きらりと光っていた。
「いや、あんたたちの負けかしら。二人とも、卵、手に入れられなかったんだから」
「……む。その通りである」
「く、悔しいが、その通りだ……」
魔王さんと勇者さんは、そろってうなだれた。
文江さんは、そんな二人をしばらく眺めていたが、やがて、ふっと笑った。
さっきまでの、女帝の顔とは違う、ずいぶん柔らかい笑顔だった。
「でも、いい負けっぷりだったわよ。あたし、ああいう負け方する人、嫌いじゃないわ」
文江さんは、扇子で魔王さんの胸元を、とん、と軽く叩いた。
「うちの旦那から聞いてるわよ。あんたが、ゴミ出しのときの佐藤さんの件の人でしょう。それに、山田のおばあちゃんを助けたって」
「……うむ」
「来週の特売も、来なさい。今度は、ちゃんと戦い方を教えてあげるから」
そう言い残して、マルヒダの女帝は、悠々と去っていった。
◇
その日の昼、ひまわり荘の一階、キヨさんの部屋で、ささやかな食事会が開かれた。
ちゃぶ台の上には、炊きたてのご飯と、お味噌汁と、たくあん。そして、真ん中に、小鉢に割り入れられた、生卵が四つ。
ゆうたくんのお母さんが、「お礼に」と言って、さっき手に入れた卵を、四つ、届けてくれたのだ。
「卵かけご飯というのよ。熱々のご飯に、生の卵を落として、お醤油をたらしてね」
キヨさんが、にこにこしながら説明した。
「な、生の卵を、食べるのか!?」
勇者さんが、目を丸くした。
「向こうの世界では、卵は、必ず火を通すものだと……」
「この国の卵はね、とってもきれいに管理されてるから、生でも大丈夫なのよ」
「なんと……」
魔王さんは、すでに卵かけご飯を、真剣な顔でかき混ぜていた。
その横で、ボーンズさんが、正確にお醤油を三滴だけ垂らしていた。
勇者さんは、おそるおそる、卵かけご飯を口に運んだ。
そして、泣いた。
「なんだこれは……! とろとろで、甘くて、しょっぱくて……!」
「よく泣くわねえ、この子」
キヨさんが、笑った。
食事が終わる頃、勇者さんは、湯飲みのお茶を両手で包みながら、ぽつりと言った。
「……魔王」
「なんだ」
「お前、本当に、村を襲ってなかったのか」
「税の取り立てに行っただけである。督促状は、四回送った」
「……ミルテ村の、石橋は」
「余の土木部隊の施工である。耐用年数は、三百年」
勇者さんは、湯飲みの中のお茶を、しばらく見つめていた。
「……そっか」
それから、顔を上げた。
「休戦だ」
「ほう」
「この世界にいる間は、休戦する。ここで剣を抜けば、店長も、タナカも、キヨさんも困る。だから、休戦だ」
勇者さんは、まっすぐ魔王さんを見た。
「ただし! いつか必ず、この国のルールに則った方法で、決着をつける! それまで、首を洗って待っていろ!」
魔王さんは、少しだけ、目を細めた。
「望むところである」
キヨさんが、ぱん、と手を叩いた。
「それじゃあ、りりあちゃん。住むところ、まだ決まってないんでしょう?」
「え? あ、ああ。今は、店の裏の倉庫で……」
「倉庫で寝てたの!?」
僕と大林さんの声が、重なった。
「101号室、空いてるわよ。お家賃は、月三万二千円。共益費込み」
勇者さんは、目をぱちくりさせた。
「い、いいのか? でも、ここには、魔王が……」
「上の階にね」
キヨさんは、のんびりとお茶をすすった。
「いいじゃないの。勇者さんと魔王さんが、同じアパートに住んでるなんて。にぎやかで」
こうして、ひまわり荘は、満室になった。
いや、正確には、203号室が、まだ一部屋だけ空いていた。
その203号室に、新しい住人がやってくるのは、もう少しあとのことになる。
◇
その夜。
僕は、ひまわり荘の外階段の踊り場で、夜風に当たっていた。隣で、魔王さんが、夜空を見上げていた。
「魔王さん。さっきの、『やはり、な』って、何だったんですか」
「勇者の剣が光ったときのことか」
「はい」
魔王さんは、しばらく黙っていた。
「この世界で、余の魔力は、人々の感謝によって戻ってくる。そして、あの勇者の聖剣もまた、同じように光った」
「はい」
「この世界では、感謝が、力になる。余はそう考えておる。ならば──」
魔王さんの赤い瞳が、夜の闇の向こうを見た。
「感謝の反対側にあるものもまた、誰かの力になるのやもしれぬ」
感謝の、反対側。
僕は、プロローグ──いや、魔王さんから聞いた、あの日の話を思い出した。
魔王さんと勇者さんを、この世界に追放した、宮廷魔術師。
──私の魔力の源はね、人々の“不満”なんですよ。
夜風が、少しだけ、冷たくなった気がした。




