第一話 魔王、住民票を出す
人は本当に驚いたとき、声が出ないらしい。
二十八年生きてきて初めて知った。僕、田中ひろしは、カップ焼きそばの湯切りをした姿勢のまま、たっぷり十秒は固まっていた。シンクに落ちたキャベツの切れ端が、排水口のほうへ流れていく。
押し入れから、角の生えた身長二メートルの男が出てきた。
正確に言うと、角の生えた身長二メートルの男と、黒いローブを着た骸骨が出てきた。
骸骨は僕の来客用布団を丁寧にたたみ直してから、押し入れの襖をそっと閉めた。几帳面だった。
「人間よ」
男が口を開いた。声が低い。お腹の底に響く。映画館の重低音みたいだ。
「突然の訪問、まことに失礼した。余は魔王ヴァルガ=ド=ゼルギウス三世である」
「……はあ」
「こちらは参謀のボーンズだ」
「お初にお目にかかります。ボーンズでございます」
骸骨がお辞儀をした。カラカラと乾いた音がした。
僕はとりあえず、湯切りの終わった焼きそばをちゃぶ台に置いた。こういうとき、人は手に持っているものをどうにかしたくなるのだと思う。
「えっと……コスプレ、ですか?」
「こすぷれ、とは何だ」
「その、仮装というか」
「仮装ではない。この角も、この威厳も、すべて本物である」
威厳は自分で言うものなんだろうか。
骸骨のボーンズさんが、そっと右手の手袋を外した。中から出てきたのは、理科室の標本でしか見たことのない、真っ白な骨の指だった。指はカタカタと動いて、僕に向かって小さく手を振った。
僕は焼きそばの容器を見た。ソースの小袋がまだ封を切られずに乗っている。
夢じゃない。夢なら、ソースはもうかかっている。
◇
落ち着いて話を聞くのに、三十分かかった。
要約すると、こうだ。
この二人は、地球とは違う世界から来た。向こうの世界で、魔王さんは勇者と最終決戦をしていた。そこへ部下の宮廷魔術師が裏切って、禁じられた魔法で二人を異世界に飛ばした。気がついたら僕の部屋の押し入れにいた。
「なるほど」
僕はうなずいた。何もなるほどではなかった。
「で、その勇者さんは?」
「わからぬ。同じ光に呑まれたはずだが、ここには来ておらん」
「別の場所に飛ばされたのかもしれません。転移魔法というのは、出口がずれることがよくございますので」
骸骨がさらっと言った。郵便の誤配みたいなノリで。
魔王さんは、正座していた。
身長二メートルの男が、六畳間で、きっちりと正座していた。背筋がまっすぐで、膝の上に両手を揃えて置いている。部屋が急に狭く見える。天井の電灯の紐が、角に引っかかって揺れていた。
「さて、人間よ。名を聞いておらなんだな」
「田中です。田中ひろし」
「タナカ。良い名だ。覚えやすい」
「よく言われます」
「タナカよ。余はまず、そなたに謝罪せねばならぬ」
魔王さんは、畳に両手をついた。
「無断でそなたの住居に侵入したこと。来客用の寝具を下敷きにしたこと。そなたの食事の時間を妨げたこと。まことに申し訳なかった」
そして、深々と頭を下げた。角が畳に刺さりそうなくらい、深く。
僕は慌てた。魔王に土下座されるという経験は、さすがに人生の想定外だった。
「い、いや、そんな、わざとじゃないんですよね? 事故みたいなものなんですよね?」
「事故であろうと、迷惑をかけた事実は変わらぬ。迷惑をかけたら謝る。それが道理である」
「魔王なのに!?」
「魔王だからこそである。上に立つ者が道理を守らずして、誰が守るというのか」
なんだろう。言っていることが、すごくまともだ。
僕の職場の上司より、まともかもしれない。
「お詫びのしるしとして、何か差し上げたいのだが」
魔王さんはマントの内側を探った。出てきたのは、拳ほどもある真っ赤な宝石だった。電灯の光を受けて、部屋中に赤い光が散る。
「ドラゴンの心臓石である。これで勘弁してもらえぬか」
「いりません」
「なぜだ」
「どこに持っていっても、たぶん僕が怪しまれるので」
質屋に持ち込んで、警察を呼ばれる自分の姿がありありと浮かんだ。
◇
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン、と、ひまわり荘の古びたチャイムは、いつも少し音程がずれている。
「田中さーん? いるー? 回覧板よー」
大家の梅宮キヨさんだ。八十二歳。このアパートの一階に住んでいて、毎週金曜日に回覧板を持ってくる。耳は少し遠いけれど、目と勘は異常に鋭い。
まずい。
「ちょ、ちょっと待ってください! 今、出ます!」
僕は振り返った。どこかに隠れてもらわないと。押し入れ──は、さっき出てきたところだ。もう一度入ってもらうのは、なんだか失礼な気がする。
「田中さーん? 開けるわよー」
「開けないでください!」
「あら、鍵開いてたわよ」
ガチャリ。
閉め忘れていた。
小さな体のキヨさんが、回覧板を胸に抱えて、玄関に立っていた。その目が、ゆっくりと部屋の中を見る。
正座した身長二メートルの角の男。
その隣に正座した、ローブの骸骨。
キヨさんは、しばらく黙っていた。
僕は言い訳を考えた。友達です。外国の友達です。ハロウィンの準備です。まだ七月ですけど。
だが、言い訳を口にする前に、キヨさんがぽつりと言った。
「……あらまあ」
それだけだった。
キヨさんは靴を脱いで、すたすたと部屋に上がってきた。魔王さんの前まで来て、首をうんと上に傾けて、その顔をじっと見上げる。
魔王さんも、キヨさんを見下ろした。
不思議な沈黙が流れた。
「あなた、ずいぶん背が高いのねえ」
「……うむ。よく言われる」
「お腹すいてない?」
「……」
魔王さんのお腹が、ぐう、と鳴った。重低音だった。
「あらまあ。おにぎり、持ってきてあげるわね」
キヨさんはそう言って、回覧板をちゃぶ台に置き、すたすたと出ていった。
僕と魔王さんと骸骨は、しばらく顔を見合わせた。
「……タナカよ。あの御婦人は、何者だ」
「大家さんです」
「大家」
「この建物の持ち主です」
「つまり、この城の主か」
「城ではないですけど、まあ、そうです」
魔王さんは、閉まった玄関のドアをじっと見つめていた。その赤い瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えたのは、気のせいだったと思う。
「……余を見て、怯えなんだ」
「キヨさん、昔から物に動じない人なんですよ」
「そうか」
魔王さんは、それきり黙った。
十分後、キヨさんは大皿いっぱいのおにぎりと、たくあんと、麦茶を持って戻ってきた。そして、こう言った。
「隣の202号室、ちょうど空いてるのよ。住むところないなら、使っていいわよ。お家賃は月三万二千円。共益費込み」
「三万二千円……」
魔王さんはおにぎりを片手に、真剣な顔で考え込んだ。
「この世界の通貨で、それはいかほどの価値なのだ、タナカ」
「安いです。めちゃくちゃ安いです」
「そうか。では御婦人、その部屋、余が借り受けよう。ただし──」
魔王さんは、梅干しのおにぎりを一口で食べ終え、背筋を伸ばした。
「家賃は、必ず期日までに払う。余は、期日を守らぬ者が嫌いだ」
キヨさんは、にこにこ笑った。
「あらまあ。いい店子さんねえ」
◇
問題は、翌日に起こった。
いや、問題はずっと起こり続けているのだけれど、とにかく、翌日だ。
僕は、ひだまり市役所の市民課に勤めている。窓口で転入届や転出届を受け付けたり、住民票を発行したりするのが仕事だ。地味だけれど、市民の生活の土台を支える、大事な仕事だと思っている。
月曜日の朝、九時ちょうど。
開庁と同時に、市民課の窓口に巨大な影が差した。
「タナカよ。転入届とやらを出しに来た」
魔王さんだった。
昨夜、キヨさんから借りたらしい、亡くなったご主人の浴衣を着ていた。つんつるてんだった。膝から下が全部出ている。角は、僕が貸したニット帽で隠している。七月なのに、ニット帽。
隣には、マスクとサングラスと帽子と手袋とロングコートで全身を覆った骸骨──ボーンズさんが立っていた。七月なのに、ロングコート。
窓口の空気が凍った。
隣の窓口の佐々木さんが、そっと防犯ブザーに手を伸ばしたのが見えた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 知り合いです! 僕の知り合いです!」
「タナカ、なぜ慌てる」
「慌てますよ! なんで来たんですか!」
「昨夜、大家殿から聞いたのだ。この国では、新しい土地に住む者は、十四日以内に役所へ届け出ねばならぬと」
「そうですけど!」
「ならば届け出るのが道理であろう。余は、ルールを守らぬ者が嫌いだ」
魔王さんは堂々と胸を張った。浴衣の胸元が、ぴちぴちに張った。
だめだ。この人、ルールには絶対に従う。そして、ルールに従うためなら、どこにでも来る。
「あの……田中くん?」
背後から、のんびりした声がした。市民課の鈴木課長だ。五十代半ば、温厚で、仕事は丁寧だけど決断が遅い。口癖は「前例がないねえ」。
「その方たち、転入の方?」
「えっと、その……はい、まあ」
「どちらから?」
僕は魔王さんを見た。魔王さんは堂々と答えた。
「異世界である」
課長は、目をぱちくりさせた。
「イセカイ?」
「うむ。魔族領ゼルギウス、魔王城の最上階から来た」
「ああー……」
課長は、眼鏡を外して拭いた。かけ直した。もう一度、魔王さんを見上げた。
「前例がないねえ」
ですよね。
僕は頭を抱えた。そもそも、住民登録には前の住所の転出証明書が必要だ。身分を証明するものもいる。魔王城の転出証明書なんて、どこの役所が出してくれるというのか。
「課長、さすがにこれは無理ですよね。書類がないと──」
「いや、待って、田中くん。たしか……」
課長は、ふらりと奥の書庫に消えていった。
十五分後、課長は埃まみれになって戻ってきた。手には、黄ばんだ分厚いファイルを抱えている。表紙には、手書きの文字でこう書かれていた。
『ひだまり市条例第百八号 異界ヨリ来タリシ者ノ住民登録ニ関スル条例 昭和四十一年制定』
「……え」
「あったよ、田中くん。前例はないけど、条例はあった」
「なんであるんですか!?」
「さあ。昭和四十一年の市議会で、全会一致で可決されてるねえ。提案者は……ええと、当時の市民課の職員さんみたいだね。梅宮、なんとかさん。字がかすれて読めないや」
梅宮。
どこかで聞いた名字だった。いや、昨日聞いた。ものすごく最近聞いた。
僕が考え込んでいるうちに、課長はファイルをめくり、のんびりと読み上げた。
「ええと、第三条。異界より来たりし者は、市内に居住する者一名を身元引受人とすることにより、住民登録を行うことができる。……田中くん、身元引受人、お願いできる?」
「僕ですか!?」
「だって、知り合いなんでしょう?」
魔王さんとボーンズさんが、そろって僕を見た。赤い瞳と、サングラス越しの空っぽの眼窩。
断れる雰囲気では、なかった。
◇
書類の記入は、さらに難航した。
「氏名の欄だけど、ええと……ヴァルガ、ド、ゼルギウス、三世……入らないねえ、枠に」
「余の名は、千年の歴史を持つ由緒正しき名である」
「でも入らないんだよねえ」
住民基本台帳のシステムには、文字数の上限がある。しかも「=」は使えない。
「では、どうすればよいのだ」
「日本で使う通称を決めていただくのが早いかと……」
僕が言うと、魔王さんは腕を組んで考え込んだ。
「タナカ。そなたが考えよ」
「僕が!?」
「そなたは身元引受人であろう。名付けも引受人の務めである」
そんな務めは聞いたことがない。
でも、窓口の後ろには、もう三人も順番待ちの市民が並んでいた。悩んでいる時間はない。
僕は、メモ用紙に書いた。
『是留 魔央』
「ゼルギウスの『ゼル』と、魔王の『まおう』から取って、魔央です。どうですか」
魔王さんは、メモ用紙を手に取った。しばらく、じっと見つめていた。
「……魔の、中央。悪くない」
「気に入ってもらえてよかったです」
「うむ。今日から余は、ゼルマオである」
「ゼル・マオです。区切ってください」
続いて、ボーンズさん。
「私の名も、タナカ殿に決めていただけますか」
「いや、えっと……」
「余が決めてやろう」
魔王さんが、さらさらとペンを走らせた。意外と達筆だった。
『骨川 スケ蔵』
「骨だから骨川。スケルトンだからスケ蔵である」
「そのまんまじゃないですか!」
「ありがたき幸せにございます、魔王様……!」
ボーンズさんは、サングラスの奥の眼窩を手袋で押さえていた。感動しているらしい。骸骨なのに泣いているように見える。本人がいいなら、もう、いいのかもしれない。
最後の難関は、職業欄だった。
「ご職業は?」
「魔王である」
課長が、ペンを止めた。
「うーん……魔王、という職業は、ちょっとねえ。分類がないんだよねえ」
「なんだと」
「今はお仕事、されてないんですよね?」
「……城も、領地も、軍も、向こうに置いてきた」
「じゃあ、無職、ということで」
魔王さんの肩が、目に見えて落ちた。身長二メートルの背中が、急に小さく見えた。
「……無職」
「魔王様、お気を確かに!」
「余は、千年続く魔王家の当主であるぞ……それが、無職……」
見ていられなかった。僕は思わず口を挟んでいた。
「あの、課長。職業欄って、住民票には載らないですよね? 参考情報なので、『求職中』でもいいんじゃないですか」
「ああ、そうだね。じゃあ『求職中』で」
魔王さんが、顔を上げた。
「求職中……。つまり、次なる玉座を求めている、ということか」
「まあ、そう……ですかね?」
「悪くない」
魔王さんは、少しだけ元気を取り戻した。
◇
午前十一時。
ひだまり市の住民基本台帳に、二名の新しい住民が登録された。
是留魔央。住所、ひだまり市陽だまり町三丁目四番地、ひまわり荘202号室。続柄、世帯主。
骨川スケ蔵。同住所。続柄、同居人。
身元引受人、田中ひろし。
発行された住民票の写しを、魔王さんは両手で受け取った。まるで勲章でも授与されたみたいに、恭しく。
「タナカよ」
「はい」
「この紙は、余がこの国の一員であることを示すものなのだな」
「そうですね。ひだまり市民の証です」
魔王さんは、住民票の写しをじっと見つめた。そして、窓口のカウンター越しに、僕と課長に向かって、深く頭を下げた。
「──ありがとう」
その瞬間だった。
ニット帽の下で、ほんの一瞬、何かがちかっと光った気がした。
角のあたりだった。
「……?」
僕は目をこすった。窓から差し込む夏の日差しが、反射しただけだろうか。魔王さん自身も、一瞬だけ不思議そうに自分の頭に手をやっていた。
「どうかしましたか?」
「……いや。気のせいであろう」
魔王さんはそう言って、住民票の写しを浴衣の懐にしまった。
帰り際、魔王さんは市役所のロビーに置いてある「ひだまり市くらしのガイド」という冊子を一冊手に取った。転入者に無料で配っている、ゴミ出しのルールや、病院の場所や、町内会の案内が載った冊子だ。
魔王さんはそれをぱらぱらとめくり、ある一ページで手を止めた。
赤、青、黄色、緑。色とりどりの表が、びっしりと並んだページ。
「タナカ」
「はい」
「この『ゴミ分別早見表』とやらは、何だ」
魔王さんの目が、ぎらりと輝いた。
戦場に向かう前の将軍のような目だった。
嫌な予感がした。
ひだまり市のゴミ分別は、県内でも屈指の細かさで知られている。燃えるゴミ、燃えないゴミ、プラスチック製容器包装、ペットボトル、ビン、缶、古紙、古布、有害ゴミ、粗大ゴミ。全部で十八種類。
そして、ルールを守らぬ者が嫌いな魔王が、それを知ってしまった。
「ルールが、こんなにもあるのか……」
魔王さんは、恍惚とした表情で呟いた。
「素晴らしい国だ」
僕の平凡な日常が、ゴミの日を境に崩れ始めることを、そのときの僕はまだ知らない。
いや、知っていた。うすうす、知っていた。




