プロローグ 最終決戦は土足厳禁
魔王城、最上階。玉座の間。
雷鳴が窓を叩き、紫の炎が燭台の上でゆらゆらと揺れていた。千年の歴史を持つ黒曜石の床は、鏡のように磨き上げられている。
その床の上に、泥だらけのブーツが一歩、踏み込んだ。
「──見つけたぞ、魔王ヴァルガ=ド=ゼルギウス三世!」
勇者リリア・ブレイブハートは、聖剣ルミナスを真っ直ぐに掲げた。金色の髪が風もないのになびき、碧い瞳には三年分の旅の決意が燃えている。
玉座に座した巨躯が、ゆっくりと目を開いた。
二本の黒い角。夜を溶かしたようなマント。赤い瞳が、勇者を見下ろす。
魔王は低く、地の底から響くような声で言った。
「よくぞ来た、勇者よ」
「覚悟しろ、魔王! この剣で、世界に光を──」
「その前に靴を脱げ」
「……は?」
「靴を脱げと言っている。入口に下駄箱があったであろう。この間は土足厳禁である」
リリアは振り返った。確かに入口の横に、やたら立派な黒檀の下駄箱があった。その上には達筆な字で『土足厳禁』と書かれた札が下がっている。しかも札の下には、小さな字でこう付け足されていた。
『※スリッパはご自由にお使いください』
「いや、決戦だぞ!? 世界の命運をかけた最終決戦だぞ!?」
「決戦であろうと床は汚れる。この床は余の参謀が毎朝三時間かけて磨いておるのだ」
玉座の横に控えていた骸骨が、深々と頭を下げた。白い骨の指が、モップの柄をきゅっと握っている。
「恐れ入ります。参謀のボーンズでございます。よろしければ、スリッパはこちらに」
「あ、ご丁寧にどうも……じゃない!」
リリアは頭を振った。だめだ、ペースに呑まれてはいけない。旅立つ前、師匠から言われたのだ。『魔王は言葉巧みに人の心を惑わす。決して耳を貸すな』と。
師匠、これは何かが違う気がします。
「とにかく! お前が村々を襲い、人々を恐怖に陥れてきたことは知っている!」
「襲ってはおらん」
「え」
「税の徴収に行っただけである。期日を三か月過ぎていたのでな。督促状も四回送った」
「督促状」
「最後の一通は赤い封筒で送った。赤い封筒は最終通告である。常識であろう」
勇者は聖剣を掲げたまま固まった。ボーンズが申し訳なさそうに補足する。
「魔王様は、ルールと期日には大変厳しいお方でして。その分、期日を守った村には、魔王軍の土木部隊が無料で橋を架けております」
「……橋を」
「北のミルテ村の石橋をご存じありませんか。あれは魔王軍の施工でございます。耐用年数は三百年を見込んでおります」
リリアは知っていた。ミルテ村の石橋。旅の途中で渡った。見事な橋だった。村人たちは『あれは魔王様の橋だ』と言っていた。てっきり、魔王に無理やり造らされた呪われた橋だと思っていたのだが。
「ま、まあいい! 問答無用! いくぞ、魔王!」
「スリッパを履いてからにせよ」
「履くよ! 履けばいいんでしょ!」
リリアはその場でブーツを脱ぎ捨て、ボーンズが差し出したふかふかのスリッパに足を突っ込んだ。悔しいことに、ものすごく履き心地がよかった。
「では改めて。──来い、勇者よ」
魔王が立ち上がる。空気が震えた。床の黒曜石に、ふたりの影が長く伸びる。
リリアは聖剣を構え直した。スリッパのまま。
そのとき、だった。
「お二人とも、そこまでです」
玉座の間の柱の陰から、ひとりの男が現れた。
銀縁の眼鏡。痩せた頬。薄紫のローブには、びっしりと細かな魔法文字が刺繍されている。魔王軍宮廷魔術師、グリモア。
「グリモアか。下がっておれ。これは余と勇者の──」
「いいえ、魔王様。これは私の舞台です」
グリモアが眼鏡を押し上げると、床一面に青白い魔法陣が浮かび上がった。それは玉座の間全体を覆うほど巨大で、しかも、ものすごく複雑な模様をしていた。
ボーンズが骨をカタカタ鳴らした。
「こ、これは……禁呪『次元追放陣』! 対象を異なる世界へ永久に飛ばす術でございます!」
「説明ありがとう、ボーンズ殿。相変わらず気が利く」
グリモアはにっこりと笑った。
「魔王様。あなたは真面目すぎた。期日だの、ルールだの、約束だの。せっかく魔王という素晴らしい地位にありながら、恐怖で世界を支配しようとしない。もったいない」
「恐怖による支配は、長続きせん」
「そして勇者殿。あなたが魔王様を倒せば、王国は平和になる。それも困るのです。平和な世界では、人は文句を言わなくなる。不満が生まれなくなる」
リリアが眉をひそめる。
「……何が言いたいの」
「私の魔力の源はね、人々の“不満”なんですよ。愚痴、文句、苦情、陰口。そういうものが、私の力になる。だから、真面目な魔王様にも、正義の勇者殿にも、この世界から退場していただきたい」
魔法陣の光が強くなる。床が、壁が、天井が、青白く染まっていく。
「くっ……!」
リリアが駆け出そうとした。だがスリッパが脱げた。ふかふかすぎた。
「グリモア!」
魔王が手を伸ばす。その手の先から黒い雷が走る──はずだった。だが雷は魔法陣に吸い込まれ、ぱちん、と情けない音を立てて消えた。
「無駄です。この陣の中では、外からの魔力は通じません。では、ごきげんよう。異世界でも、どうぞお元気で」
光が、弾けた。
◇
最後に魔王が見たのは、慌てて自分のマントにしがみつく骸骨の参謀と、片方のスリッパを握りしめたまま光に呑まれていく勇者の姿だった。
そして、意識が途切れる直前。
魔王の耳に、遠い、遠い昔に聞いた声がよみがえった。
──ねえ、ちゃんと「ありがとう」って言える子はね、どこに行っても大丈夫なんだよ。
なぜ今、その声を思い出したのか。
魔王自身にも、わからなかった。
◇
次に目を開けたとき、魔王ヴァルガ=ド=ゼルギウス三世は、狭くて暗くて、ほんのりナフタリンの匂いがする場所にいた。
頭上には、なにやら柔らかい布の塊がある。背中には、硬い木の板。目の前には、細い光の筋が一本、縦に走っていた。
「……ボーンズ。ここはどこだ」
「わかりません、魔王様。ですが、この布の感触……おそらく、来客用の布団かと」
魔王は目の前の光の筋に手をかけ、ゆっくりと横に引いた。
すっ、と軽い音を立てて、それは開いた。
六畳の和室。日に焼けた畳。小さなちゃぶ台。窓の外では蝉が鳴いている。
そしてちゃぶ台の前で、ジャージ姿の若い男が、カップ焼きそばの湯切りをしたまま、こちらを見て固まっていた。
のちに魔王は、この瞬間を振り返ってこう語る。
「あれが余と、この世界との、最初の接触であった」
そして、その若い男──つまり僕は、のちにこう語る。
「いや、それ僕の部屋の押し入れなんですけど」




