6話:檻を抜け、戦場へ
夜が明けても、レオナルドは戻らなかった。
資料は床に落ちたままだ。アリアは拾わなかった。寝台に腰を下ろし、窓の外が白んでいくのを眺めながら、頭の中を整理し続けた。自分は何をすべきかと。
武器がない。脱出路がない。弟の居場所も分からない。持っているのは頭と、昨日得た情報だけだった。
扉の外で、何やらくぐもった話し声が聞こえた。二言三言言葉を交わし、護衛が交代する気配がする。
そして——また、扉が開いた。
レオナルドではなかった。
黒い外套。大柄な体躯。横を刈り上げた黒髪。左目を覆う、意匠を凝らした眼帯。
バッカス・ヴァナヘイムが、自分の部屋に入るような顔をして、私室に入ってきた。外套の下は動きやすそうな軽装。先日の貴族めいた服装よりも余程見慣れた、戦に臨む黒豹将軍のいでたちである。
「おはようさん」
物々しい雰囲気の割に挨拶が軽すぎる。アリアは立ち上がった。
「なぜここにいる」
「レオナルドに通してもらった」バッカスは部屋を見渡し、床の資料に目を留めた。それから、アリアを見てひとこと。「話が拗れたか」
「関係ない」
「あるだろ」彼は窓際の椅子を引いて、断りもなく腰を下ろした。「俺が来たのはそのためだ」
アリアは答えなかった。意図を測りかねていたためだ。
「トランの南の沿岸で」バッカスは足を組み、話しはじめた。「外大陸の艦隊と一度やり合った。こちらの木造船が、艦砲一発で腹を割られた。あっという間だった」
アリアは黙って聞いた。
「奴らは戦場で勝つ前に港を押さえる。倉庫を押さえる。銀行を押さえる。議会を押さえる。トランの中枢はもう奴らの金で湿ってる。俺の軍だけが自由に動ける。それも、いつまで保つかは分からない」
言いながら、バッカスの口元から笑みが消えた。
それは怒りというより、もっと乾いた嫌悪に近かった。自分の国の腐り方を、誰よりよく知っている男の顔だった。
「情けない話だろ。俺が国境で血を流してる間に、王都の連中は帳簿の上で国を売っていたってわけだ」
「それ……レオナルドに言わなかったのか」
「言った」バッカスの声は平坦だった。「信じたさ。だが、自分の計画が間に合う方に賭けた」
「侵攻はいつだ」
「早ければ、今日にでも」
アリアの背筋が伸びた。
「カルコサはレオナルドの計画に気づいてる。軍が統一される前に先制するつもりだ。奴らにとって一番まずいのは、アガスティアとトランが手を結ぶことだからな」
昨夜レオナルドが語った脅威の輪郭が、バッカスの言葉でもう一段、鮮明になった。レオナルドが焦っていた理由が分かる。だが彼は焦りながら、アリアを檻に入れた。その矛盾が、今もアリアの腹の底にある。
「お前はなぜそれを私に話す」
「お前が動けば、状況が変わるからだ」バッカスは空色の瞳をアリアに向けた。「レオナルドは頭がいい。だが奴は、大事なものを手の中に握って離さないタイプの男だ」
「……」
「檻の中に閉じ込めて、大事に大事に可愛がることを愛だと思ってるタイプだな」
アリアは何も言わなかった。だが、その言葉が胸の奥の何かに、正確に触れた。
「俺なら」バッカスは続けた。「お前を檻に入れたりしない。戦場で背中を預ける」
「口説いてるのか」
「口説いてんだよ。つれねえな」
アリアは短く鼻を鳴らした。鬱陶しい。揶揄うようでいて、嘘がないから無視もできない。
「条件を聞く」アリアは言った。「あんたはただで話してくれるほど気前のいい男じゃないだろ」
バッカスは口の端を上げた。
「分かってるじゃないか」
そこから先は、交渉だった。
「条件は三つだ」バッカスは指を折った。「お前を逃がす。情報を渡す。俺の兵は王都を狙わない」
「……見返りは」
「まず、俺をここで斬るな。次に、外敵を排除するまでは俺を敵として扱わないこと。外敵排除後にトランとの停戦交渉の場を作ること」
「なんだ、安い条件だな」
「お前が言うと、まったく安く聞こえん」
アリアは加えて、停戦交渉の際に東部領の割譲は要求しないことを約束させた。
「とはいえ停戦そのものは約束できない。私は今、解任された身だ」
「なら場を作るだけでいい。お前が席に着けば、話は動く」
「この条件でいいなら、それで。」
「ああ、それで構わない。だがもう一つ条件を追加しろ」
バッカスの厚い唇がにんまりと吊り上がる。
「戦後に、お前が俺に一騎打ちを申し入れるか、相当の『貸し』を用意すること」
「そんなことでいいのか。構わないし、貸しの回収は戦後でなくてもいい。タイミングはお前が決めろ」
バッカスの片眉が上がった。
「気前がいいな」
「余裕がないだけだ」
彼は愉快そうに低く笑った。
「は。俺は土地なんぞよりお前の方がずっと欲しいって言ってんだよ。そこんとこ分かってんのか」
アリアは少し間を置いた。
「……それも条件のうちか?」
「交渉とは別の話だ」
アリアはそれを適当に流して、交渉を締めくくった。心を開ききってはいけないと分かっていても、打てば響くテンポが心地よかった。
◇
脱出は夜明けの混乱に乗じて行われた。
バッカスには独自の経路があった。護衛の交代のタイミング、司令部の死角、裏口の錠の仕組み。レオナルドとは別のルートで、この建物を測っていた。
アリアは武器なしで動いた。廊下を走り、角を曲がり、バッカスの背中を追った。一度、護衛と鉢合わせしかけた。バッカスが壁の影に引き込んで、やり過ごした。その動きに無駄はない。一応辺境伯なんていう貴族の地位にありながら、似たような修羅場はそれなりに潜っているらしかった。
裏口を出ると、夜明けの空気が顔をひやりと撫でる。
アリアは立ち止まって一度だけ、司令部の建物を振り返った。レオナルドはまだあの中にいる。あの男はアリアが動くこと自体は望んでいる——だが、あくまでそれは自分の檻の中で、だ。檻の外へ出たと知れば、必ず手を伸ばしてくる。
「行くぞ」バッカスが言った。
アリアは前を向いた。
持っているのは、頭と、交わした密約と、昨夜得た情報だけ。それで十分だ。弟のいる場所は自分で探す。王を動かすための経路も、自分で作る。誰かの計画の中に収まるつもりはない。
アリアは走り出した。自分で選んだ戦場へ。
南方諸領の商人の噂話 ルフト・マグス①
マグス閣下のお屋敷に出入りするようになってもう十年になりますかねえ。南の港町で一番大きな屋敷で、お客さんも多くて、うちみたいな小さな商会にとっては有難いお得意様ですよ。
気前がいいんですよ、閣下は。値切ったりしない。「良いものを持ってきてくれ、金は出す」って方でね。どこから来たのか分からないような珍しい品も喜んで買ってくださる。最近は見慣れない商人が直接お屋敷に出入りするようになって、うちみたいな地元の業者は少し仕事が減っちゃいましたけど、まあ時代の流れですかね。
閣下の口癖はね、「賢い投資だ」ってやつ。どこの馬の骨とも分からない商人と組むのも、議会で顔を使うのも、全部「賢い投資」なんだそうで。悪い人じゃないんですよ、本当に。ただ、何というか……深く考えない方というか。都合の悪いことには目を瞑るのが上手い方というか。
まあ閣下は第三師団を率いるお偉い方ですからね。南の港の変化なんて、細かいことは気にしてらっしゃらないんでしょう。倉庫の持ち主が変わったり、見慣れない船が増えたりしてますけど、「問題ない」とおっしゃるんだから問題ないんでしょうねえ。
あんたみたいに良い品を持ってくる商人さんは、閣下も大好きだからね。またいい品が入ったら持ってきますよ、商人さん。




