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ラグナロク・アガスティア  作者: ピナっこ
第一部 王都陥落

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5/7

5話:檻

王都の中央通りを、兵に囲まれて歩いた。


駅から中央司令部までは一本道だ。連行の経路は市場の端を抜けていくことになる。占拠されたはずの街にしては、その一角だけが奇妙に活気を保っていることに気づいた。見慣れない品々を並べた露店。精緻な時計、鮮やかな布、整然と箱詰めされた薬品。そして、その露店の上に立つ旗。


白地に、黄。


アリアの足が止まる。


みたことのある意匠だ。東部戦線で鹵獲したトランの武器の木箱。その蓋の隅に、同じ意匠が押されていた。「カルコサ通商連盟」。署名、E・ナコト。


兵が背を押す。アリアは旗から目を離した。意味はまだ分からない。だが、繋がったという感触だけが、胸の底に重く降りた。その問いを抱えたまま、彼女は司令部へ連れ込まれた。


連れていかれた先は、牢ではなかった。


司令部の最上階。重い扉の向こうは広い私室だった。厚い絨毯。磨かれた調度。隅には、上質な布を張った寝台まである。窓は大きく、王都の街並みを見下ろせた。囚人を放り込む場所ではない。客間、あるいは——飼い慣らした獣を、大事にしまっておく檻。


扉が背後で閉まった。


錠が下りる音がしてすぐ、アリアはすぐに部屋を検めはじめた。十数年戦場で身につけた習い性だ。窓——大きいが、嵌め殺し。下は数階分の落差。扉——分厚く、外に護衛の気配が二つ。寝台の脚、調度の影、暖炉の煙突。浴室の設備。武器になりそうなもの、抜け出せそうな隙間を、目だけで素早く拾っていく。結果。


逃げ道がない。


それも、ただ無いのではなかった。彼女が真っ先に窓を確かめること、次に扉の厚みを測ること、調度の裏を探ること——その順番までもが、まるで予見されていたかのように、ことごとく潰されている。窓は彼女の肩が通らぬ寸法に作られ、調度は重すぎて動かせず、暖炉は人ひとり通らぬ造り。アリアの手の内を知り尽くした誰かが、彼女の脱出の手順を一つずつ先回りして塞いでいた。


この部屋を設えた人間は、アリア・シュヴァルツァーという人間を知り尽くしている。

その事実が、ほかの何よりも彼女を不快にさせた。


ふいに背後で扉が開いた。


アリアは振り返った。予想はしていても、入ってきた男を見た瞬間、一瞬息が詰まる。


銀の髪。灼のような赤い瞳。軍服ではなく仕立ての良い私服を纏っている。見慣れ過ぎた——士官候補生の頃から、彼女の人生に当たり前のように居座っている男。


レオナルド・ヴァレンタイン。


「や。久しぶり」


レオナルドは軽く片手を上げた。まるで行きつけの酒場で落ち合うようななんでもない挨拶。口元には笑みが浮かんでいる。


だが、目が笑っていなかった。


赤い瞳の奥が、凪いだ湖のように静かだった。その落差が、アリアの背筋を冷たく撫でる。


アリアは考えるより先に動いていた。


二歩で間合いを詰め、拳を振り抜いた。レオナルドの頬を、骨の感触ごと打ち抜く。彼は避けなかった。彼の体術の腕前であれば、躱して反撃することだってできるのに。その証左に、全力を込めたその一撃に一歩下がりはしても、体幹は揺らがない。


彼はゆっくりと顔を戻した。切れた唇を、舌先で一度なめる。それから淡々と言った。


「三日だけ、俺にくれない?」


アリアは、二発目の拳を止めた。


「三日。それだけ、俺の話を聞いてくれればいい。そのあとのことは、君が決めていいから」


「……ふざけるな」アリアの声は、低く震えた。「お前が、何をしたか分かってるのか。国を、奪ったんだぞ。王を、議事堂を。私の——」


「分かってるよ」


レオナルドはやんわりと遮った。だが、その軽さの下に、揺るがない何かがある。


「全部、分かってやってる。君が怒るのも当然だと思ってる。だから避けなかった。一発くらい安いものだろ」


彼は、切れた唇に指を当て、血を確かめるように見た。それから、その指を無造作に拭った。


「座ってよ。長い話になるから」


彼が二人がけのテーブルに腰掛けるが、アリアは座らなかった。


「市場の旗は、何だ」


レオナルドの動きが、ぴたりと止まった。


ほんのわずか。彼の赤い瞳が初めて今までとは違う色を浮かべてアリアを見た。


「白地に、黄の紋章」アリアは、一語ずつ刻むように言った。「カルコサ通商連盟。あの刻印を、私は東でも見た。トランから奪った武器の木箱に同じ印が押されていた。同じ署名も。E・ナコト。——東の戦場と、この王都の市場に、同じ印が立っている。これはどういうことだ」


部屋が、静まり返った。


レオナルドはしばらくアリアを見つめていた。その表情から軽薄さが少しずつ剥がれ落ちていく。後に残ったのは、奇妙に静かな、ほとんど安堵に近い顔だ。


「……気づいた?」彼は、低く言った。「話が早いな。助かるよ。長い説明をしなくて済む」


彼は懐から一枚の書類を取り出してアリアの方へ滑らせた。アリアは手に取らなかった。だがレオナルドは構わず話しはじめた。


「君の言う通りだ。同じ印だ。同じ連中だ。トランに武器を売ってるのも、この王都の市場に旗を立ててるのも、同じ一つの相手だよ」


「相手?」


「海の向こうから来た連中だ」レオナルドの声からは一切の感情が排除されている。「南の海の向こうに、国とも商会とも教団ともつかない連中がいる。商業、軍、信仰、諜報。全部一つに束ねてる。カルコサ通商連盟ってのは、その先端だ。表向きはただの商会の集まりさ。安い薬を配る。精密な時計を売る。困窮した貴族に金を貸す。鉄道に投資する。——気づいたときには、内側から、こうなってる」


レオナルドは、窓の外へ目をやった。市場の方角だった。


「奴らはもう王都の市場に侵食してる。もう半分ほどかな。あそこで買い物をしている連中は、自分が何を買わされているのか分かっちゃいない。安くて、上等で、便利だ。それだけだ。貴族は奴らから金を借り、商人は奴らの品を売り、軍の一部は奴らの兵器を使い始めてる。——アガスティアはもう侵略されてるんだ、アリア。まだ、旗が立っていないだけで」


アリアは、寄越された書類を初めて見下ろした。


外大陸の地名。組織の名。聞いたこともない響きの羅列。海軍府。文書院。重工。艦隊。それぞれに、兵力の見積もりと、すでにアガスティア国内に入り込んだ人員、買収された貴族の名、流入した兵器の数が、几帳面に書き込まれていた。膨大な、そして、ぞっとするほど具体的な資料だった。


そして、その一枚の上部に、写真と署名があった。


公使。イライアス・ナコト。

E・ナコト。木箱の署名と、同じ名だった。


少し前、王都に休暇で戻った時の記憶がふと蘇る。


市場で気のいい紳士が煙草を勧めてきた。柔和な笑みを浮かべ、物腰柔らかく、「東の御方ですか。勇ましいことだ」——確か、そんなことを言った。名乗られたかどうかも覚えていない。ただ、人当たりのいい、どこにでもいそうな商人だと思った。すれ違って、忘れた。


あの男だ。


市場の紳士。木箱の署名。資料の中の、浸透工作の指揮官。三つが一つの顔に重なった。アリアの背を冷たいものが這い上がる。


「この、イライアス・ナコトという男」アリアは、掠れた声で言った。「私は、会ったことがある。出征の前に。市場で」


「だろうね」レオナルドは、驚かなかった。「奴はいろんなところにいる。目立たないから諜報向きだよね、全く」


アリアは資料から目を上げられなかった。


東で見た刻印が、これを裏づけている。守っていた戦線の、そのさらに後ろから、もう一つの敵が静かに国の臓腑へ手を伸ばしていたのだ。


「お前はこいつらの排除のために——」


その時、ふいに——アリアの脳裏を、まったく場違いな光景が、よぎった。


実家の、いつもの食卓の光景。

出征の前の晩、エイリークはいつもアリアの好物のシチューを出してくれる。シュヴァルツァー家の狭いキッチンに鍋から立つ湯気と香草の匂いがふんわりと漂う。「無茶しないでよ」と眉を下げる弟の隣で、当たり前みたいな顔で酒瓶を傾けて、「相変わらず美味しいね」「俺ここん家の子になりたーい」などと笑うレオナルド。


なんでもない夜だった。


戦場へ向かう前の、ありふれた最後の夜。あの食卓にこの男はいた。弟の作ったシチューを食べ、軽口を叩き、当たり前のようにアリアの日常の中にいた。


その同じ男が今、その食卓ごと、国を奪っている。


一瞬だけ目を閉じ、感傷を押し込める。


「そのカルコサ通商連盟とやらが危険だということは分かった。だから軍政か。指揮権の統一と、軍内部の掃除。違うか?」

「そう。第三師団のルフト・マグスなんかはずぶずぶだ。邪魔者を排除し、最短経路で奴らを締め出す」

「…」


理屈は分かった。恐らくレオナルドの方が脅威への解像度が高く、より焦っているであろうことも分かる。


「協力してくれるよね、アリア。」

「…そのための手段が王都の占拠か。弟は」


アリアの声に剃刀のような鋭さが混じる。


「エイリはどこだ。無事なのか」


レオナルドの表情がわずかに変わる。一瞬、言葉を選ぶような間があった。


「無事だよ」彼は言った。「ちゃんと守ってる」

「守ってる?」

「俺の目の届くところに置いてる」レオナルドの声は穏やかだった。「君が東で戦ってる間も、ずっとそうしてきた。あの子に、危ないことは何もさせない。これからもだ。俺がそばに置いて守る。だから心配いらない」


先ほどまでの、資料に対する戦慄とは、まったく違う感情が、腹の底からカッと噴き上がった。


「そばに置いて、守る」

アリアは、ゆっくりと繰り返した。「目の届くところに、置いてある」

「ああ」


「——それを、人質と言うんじゃないのか」


レオナルドの顔から、表情が消えた。


「人質じゃない」彼は、静かに言った。「守ってるんだ。言葉が悪いだけで、やってることは——」


「同じだ」アリアは、遮った。声が怒りで震えた。「自由を奪って、囲い込んで、それを守ると呼ぶ。私をこの部屋に閉じ込めたのと同じだ。弟を、お前の手の内に握って、それで私がお前に賛同せざるを得ない状況を作ったのか。それの、どこが守るだって?」


「それは」


「じゃあ、なぜなんの相談もしなかった。1人で抱えて、挙げ句の果てに私から東部の指揮権まで奪って!」

アリアは一歩踏み出した。

「なぜ弟に聞かない。あの子が、お前に守られたいと言ったか。私がこの部屋に入りたいと頼んだか。お前は、誰の意思も聞かずに、勝手に囲い込んで、それを愛情みたいな顔で語る。——それは守ることじゃない。支配だ」


レオナルドは答えなかった。


赤い瞳が、アリアを見ていた。悪意ではなかった。大事なものを失わないために囲い込む、その思想を疑いもしない目だった。


恐ろしい、と思った。剣を向けられるよりも。


長い沈黙のあとアリアは口を開く。声はもう震えていなかった。冷たく据わっていた。


「お前のやりたいことは概ね理解した。」


レオナルドが顔を上げる。

アリアは、一歩も引かずに、男を見据えた。


「だが、その手段が檻に閉じ込めて支配することなのであれば、拒絶する」


レオナルドは答えなかった。ただ、机に肘をついていた腕がわずかに動いて、端に置いてあった資料が静かに床へ滑り落ちた。


重い沈黙の中で、レオナルドはしばらくアリアを見ていた。やがて、彼は切れた唇の端だけで笑った。


「そう言うと思った」

ある慈善団体の若者の噂話:エイリーク・シュヴァルツァー①


うちは下町でバザーや炊き出しを行っているんです。貧富の差はここ数十年で大きく改善されたとはいえ、未だに貴族と平民では生活水準に大きな差がありますから。王都みたいな大きい都市だとどうしても全員が腹一杯に食べられる訳じゃないので、こうやってたまに。


最近王立図書館の司書さんがたまに手伝いに来てくれるんですよ。赤毛でひょろっとした…そうそう、賢そうな眼鏡のお兄さん。最初はインテリお坊ちゃんだとか内心僻んでたんですが、テキパキしてるし飯も旨いし、あっという間に下町の子供達にも懐かれていました。


最近忙しいらしく、あんまり来ないんですが……そういえば、王様がたまに閉架後に勉強に来るそうで。夢ありますよね、平民が王様と友達になるなんて。


まあ彼はお姉さんが軍のお偉いさんらしくて、下町で生まれ育った俺たちには遠い存在っちゃそうなんですが。ああいう恵まれた人で、何の衒いもなく炊き出しの手伝いしてくれる人は中々いないんじゃないですか?


いつもありがとうございます、イライアスさん。おかげで今週も皆に美味い飯を振る舞えますよ。

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