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ラグナロク・アガスティア  作者: ピナっこ
第一部 王都陥落

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4話:黒豹

王都への移送は、軍用列車で行われた。


アガスティアの鉄道は、ここ十数年で東西を貫いて延びた、国の背骨のような路線だった。東部戦線への兵員と物資は、長らくこの鉄路が運んできた。アリア自身、何度この列車で東へ運ばれ、何人の部下をこの車輪に乗せて前線へ送り出してきたか分からない。その同じ列車に、今、彼女は武器を取り上げられた囚われ人として乗せられている。


護送用に仕立てられた車両は、窓に鉄格子こそないものの、扉の外には第一師団の兵が立ち、通路の両端を固めていた。座席は向かい合わせの四人掛け。アリアはその窓際に座らされ、外の景色が後ろへ流れていくのを、ぼんやりと眺めていた。夕暮れの東部の荒野が、しだいに闇に沈んでいく。


体は鉛のように重かった。三日三晩の死闘の疲労が、緊張の糸が切れたとたんに全身へなだれ込んでいる。眠ってしまえたら楽だろう。だが、眠れなかった。王璽の押された解任状。塗り替えられた自分の戦功。糸を引いている、ここにはいない男。それらが、暗い車窓に映る自分の顔の上に、いくつも重なっては消えた。


列車が走り出してしばらく、向かいの座席に誰かが座った。


視界の端に重剣の鞘が映り、アリアは最初それを護送の将校だろうと思って、顔を上げる気力もなく、車窓を見たままでいた。

だが、その気配は妙だった。護送の人間が放つ、緊張した、職務的な気配ではない。もっと、くつろいだ——まるで、自分の屋敷の長椅子に深く腰を下ろすような、ゆったりとした重み。


不意に、品の良い匂いが鼻先をくすぐった。


香水だ。この三日間、アリアの鼻にこびりついていた戦場のどの匂いとも違う。よく手入れされた、洗練された男の匂い。


護送列車の中にあるはずのないその匂いに、アリアはゆっくりと顔を上げた。


向かいに、黒豹を思わせる大男が座っていた。


鍛え上げられて隆々とした体躯が、座っていてなお他を圧している。見るからに上等な黒衣に整えた黒髪、左目には意匠を凝らした上等な眼帯。

アリアはその男をよく知っていた。戦場での砂塵まみれの姿とは似ても似つかないが、見間違えようもない。空のように青い瞳。その隻眼が、面白くてたまらないという色を浮かべて、まっすぐにアリアを見ていた。


「バッカス・ヴァナヘイム」


アリアの口から、その名がこぼれた。


「久しぶり、というほどでもないか」男は、喉の奥で低く笑った。「つい三日前まで、お互いの兵を削り合ってたんだからな」


トランの辺境伯。ヴァナランドの主。東部国境であまたの兵をぶつけ合ってきた、アリアの宿敵「トランの黒豹」。

その男が、武装も解かれず、拘束もされず、アガスティアの軍用列車の中で、長椅子にくつろいで座っている。


アリアの頭が、急速に醒めた。疲労が一瞬で吹き飛び、冷たい警戒が全身を満たしていく。彼女は素早く、しかし悟られぬように、状況を測った。武器はない。体は疲れきっている。通路の両端には第一師団の兵。その兵たちは——バッカスがそこにいることに、何の反応も示していない。咎めもしなければ、驚きもしない。


それが、何より雄弁だった。この男がここにいることは、第一師団にとって、最初から織り込み済みなのだ。


「……どういうことだ」アリアは、声を低く保った。動揺を見せれば負けだ、と本能が告げていた。「トランの辺境伯が、なぜアガスティアの列車に座ってる。それも、第一師団の兵に守られて」


「守られて、か」バッカスは、その言い回しが気に入ったように、片眉を上げた。「悪くない見立てだ。だが半分は外れてる。俺はお前と違って、囚われちゃいない」


「質問に答えろ。なぜここにいる」


バッカスは、すぐには答えなかった。彼は外套の懐から、何でもない仕草で銀製のスキットルを取り出し、蓋を開けて一口あおった。それから、アリアに向かって、わずかに掲げてみせた。要るか、という仕草。アリアが応じないのを見て、彼は肩をすくめ、自分でもう一口飲んだ。


その一連の動作の、何もかもが余裕に満ちていた。敵地のただ中にいるという緊張が微塵もない。むしろ、この状況そのものを楽しんでいる。


「なぜここにいるか、だったな」バッカスは、ようやく口を開いた。「お前の友人に招かれてな」


アリアの背筋を、冷たいものが走った。


友人。アガスティアにいて、トランの辺境伯を招く力を持ち、第一師団を動かせる人間。考えるまでもなかった。


「レオナルド」


「さすが、東の女傑だ」バッカスは笑った。「あいつとは、ちょっとした取り決めがあってな。中身までは言わんよ。お前の友人の口から聞くか、自分で気づくか、好きにすればいい」


頭の中で、ばらばらだった破片が、いくつか音を立てて動いた。


あの中途半端なトランの攻勢。第七師団を東に縛りつけるためだったのなら、すべて説明がつく。トランと第一師団。敵国の軍と、国を奪った男の手勢。この男が平然とこの座席にいる、それだけでこと足りた。


「……お前たちは、組んでいるのか」アリアの声が、わずかにかすれた。「トランと、レオナルドが。あの攻勢は、私を東に縛るための」


「どうかな」バッカスは、否定も肯定もしなかった。ただ、口の端を上げただけだった。


アリアは、奥歯を噛んだ。


この男は答えを与えない。アリアがどこまでたどり着くか、面白がって眺めている。出来のいい狩りを見物するように。


「ひとつ言っておく」バッカスは、スキットルの蓋を閉めながら言った。「お前が王都で見るものは、お前の想像よりずっと面白いぞ」


「面白い、か」アリアは、その言葉を冷たく押し返した。「私の国が乗っ取られて、私が罠にかけられて、それのどこが面白い」


「ああ、面白い」バッカスは、悪びれもしなかった。空色の瞳が、暗い車内で猛禽のように光った。「お前にとっては悪夢だろうな。だが俺にとっては、ここ数年で一番の見ものだ。国が割れ、お前みたいな佳い女がその渦中に放り込まれる。——退屈しのぎには、上等すぎる」


アリアは、その言葉に、ぞっとするものを感じた。


何百の兵も、何千の民も関係ない。善悪でも忠誠でも国の興亡でもない。この男の物差しは面白いか面白くないか、それしかない。


恐ろしい男だと思った。同時に、その嘘のなさが僅かにアリアの神経をほどいた。中央に裏切られ、旧友に罠にかけられ、王の印にすら見捨てられたあとで、はっきりと「敵」だと分かる相手の隠し立てのなさは、皮肉なほど清々しかった。


それでも、警戒は解かない。


「眠っておけ」バッカスが、ふいに言った。意外なほど、静かな声だった。「顔色が死人みたいだ。どうせろくに眠れてはいまい。王都までまだある」


「お前がいるのに、眠れるわけがないだろう」


「賢明だ」バッカスは、低く笑った。「だが、覚えておけ。俺は寝込みを襲うような真似はしない。戦場でならまだしも、こんな鉄の箱の中で無防備な相手を、ってのは趣味じゃない。——奪うときは真正面から奪う主義でね」


その言葉に、アリアは、ふと顔を上げて男を見た。


獣のような外見の下に、奇妙に頑なな一線がある。戦狂いの粗野な辺境伯、という先入観が軋んだ。


アリアは、それ以上何も言わなかった。窓の外へ、視線を戻す。


闇の中を、列車は王都へと走り続けていた。眠れはしない。だが、明確な敵が目の前にいるという単純さだけが、裏切られ続けた三日間のあとで、奇妙な手応えをアリアに残していた。この男が何者かだけは、はっきりしている。今はそれだけが、確かなことだった。


やがて、東の空がしらじらと明けはじめる頃、列車の速度が落ちた。


車窓の向こうに、王都ナディアの城壁が、朝靄の中から姿を現しはじめていた。


バッカスが、座席で身を起こした。眼帯の下、空色の瞳が城壁を見上げ、いっそう深く笑う。

王都の朝が始まろうとしていた。

トラン国境の酒場女将の噂話 バッカス・ヴァナヘイム①


黒豹様は女好きかって?そりゃ好きだろうさ。あれだけ体も気も大きい男が、女を知らない顔してたらその方が嘘だよ。けどね、安い男じゃない。雑に抱くことはあっても、雑に捨てたりしないよ。


妻が三人いる?違うね。妻だった女が三人いるのさ。ひとりは政略。ひとりは戦の後始末。ひとりは……まあ、酒場から上がった女だよ。誰のことかは聞くんじゃないよ。…ほらそこ!ぴいぴい騒ぐ暇があったらもっと飲んで金落としな!


話がそれたね。あの男はね、欲しいものを正面から奪いに行くし、金と名前出して守る。逆に相手が出て行きたいってんなら支援だけして手を離す。腹立つだろ?もっと悪い男なら、こっちも遠慮なく嫌えるのにねえ。


え?今度はどんな女を口説いてるのかって?さあねえ。ただ、黒豹様が本気で欲しがる女なら、きっと誰よりも自由な女さ。


おや、もう出るのかい商人さん。お会計はあっちの台で頼むよ。

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