第六十五話 折れた忠誠
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魔法学院の入学式から、二ヶ月ほどが過ぎた頃――。
初夏の陽気は、少しずつ湿り気を帯び始めていた。
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ヴァルグレイ伯爵家の庭。
青々とした芝の上で、ディルクは強く拳を握りしめていた。
目の前には、兄ハルトが立っている。
「ハルト兄さん」
低く、押し殺した声だった。
「どうして、魔法学院で女の子と仲良くしているなんて噂が流れているんだ」
ハルトは一瞬だけ目を細めた。
「……理由がある」
「理由があってもダメだろう!」
ディルクは一歩踏み出す。
「婚約者がいるんだぞ!」
「聞け!」
ハルトの声が強くなる。
ディルクは思わず言葉を止めた。
「……何だよ」
ハルトはゆっくりと息を吐いた。
「辺境伯家の関係者だ」
短く言う。
「無碍にはできない」
ディルクは顔を歪めた。
「だったら、僕が代わる」
真っ直ぐに兄を見る。
「僕には婚約者がいない」
ハルトは呆れたように笑った。
「バカだな
学園に入れないだろう?」
ディルクは十二歳。魔法学院入学まで二年ある。
それでも、食い下がる。
「……それでも」
声が震える。
「ハルト兄さんの婚約者――イリス嬢を傷つけないでくれ」
ハルトはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「お前は分かっていない」
その目は、疲れていた。
「今の辺境伯を孤立させることが、どれだけ危険か」
ゆっくりと続ける。
「頭を冷やしてこい」
それだけ言うと、背を向けた。
ディルクは何も言えなかった。
ただ、歯を食いしばる。
やがて――
踵を返した。
説得は、できないと分かったからだ。
⸻
そのまま。
ディルクは、先触れも出さずに馬車へ乗り込んだ。
向かう先は――
グラディウス宰相家だった。
⸻
初夏の空。
ぽつり、と雨が落ちた。
やがて、それは静かな雨へと変わっていく。
⸻
グラディウス宰相家、応接間。
突然の来訪にも関わらず、カイゼルはディルクを迎え入れていた。
室内には、ロゼッタもいる。
その傍らには、セリアが立っていた。
セリアは、ディルクの顔を見て――
ふと思い出していた。
(ディルク様のバッドエンド……)
『折れた忠誠』エンド。
守るべき国を裏切り、少女を抱きしめたまま崩れ落ちる。
学院の屋上から、二人で落ちていく結末。
(あれ、大変だったなあ……)
内心で苦笑する。
(抱き合いながら落ちるのに、幸せそうにしろって……リテイク何回も)
ちらりと現実のディルクを見る。
(……こっちのディルク様は、自殺なんてしそうにないけど)
現実は、ゲームよりずっと重い。
カイゼルが口を開いた。
「よく来たな、ディルク」
ロゼッタも微笑む。
「お久しぶりです、ディルク様」
ディルクは軽く頭を下げた。
「迎え入れてくれてありがとう」
一度息を吐く。
「……カイゼル、頼みがある」
カイゼルは眉をひそめた。
「どうした」
ディルクは言った。
「兄のハルトに、辺境伯家がまとわりついている」
拳を握る。
「何とかならないか」
カイゼルはすぐに理解した。
「……王国最高裁判所の件か」
小さく頷く。
「辺境伯家の自治権の侵害にあたる」
視線を落とす。
「中立派の雄であるヴァルグレイ家に、影響力を及ぼそうとしているな」
そのとき。
扉がノックされた。
執事が静かに入ってくる。
「アルベルト様がいらしております」
カイゼルは短く答えた。
「通してくれ」
⸻
すぐに、アルベルトが入ってきた。
「やあ」
軽い調子で手を挙げる。
「ディルクもいるのか。なんだか秘密会議みたいだね」
カイゼルがため息をつく。
「ちょうどいい。話がある」
ロゼッタを見る。
「顔は知っているな」
アルベルトはにやりと笑った。
「もちろん」
ロゼッタを見て言う。
「豚骨ラーメンの子だよね」
ロゼッタはにっこりと笑い返した。
「背脂マシマシの方ですわね。忘れていませんよ」
一瞬だけ、空気が緩む。
だがすぐに、アルベルトは本題に入った。
「辺境伯が王国最高裁判所に反対してるの、知ってる?」
カイゼルは頷いた。
「今、その話をしていた」
アルベルトは肩をすくめる。
「じゃあ、これも知ってるかな」
少し身を乗り出す。
「反対していた港湾伯爵が、賛成に回るって話」
「なに?」
カイゼルの声が低くなる。
アルベルトは続けた。
「中央派の商人が、港の大規模改修をしたがっていただろ?
港湾伯爵の権力が増すからって、ずっと止められてた」
少し笑う。
「その許可と引き換えに、賛成に回る」
カイゼルは顔をしかめた。
「……何故、そんな許可が出た
港湾伯爵の戦力が上がる。内戦を考えれば、抑えるべきだったはずだ」
アルベルトはあっさりと言った。
「カルメリア海商共和国に、置いていかれてるからさ
大きな船がつけない港は、いずれ滅びる」
視線を細める。
「国王派も、折れたんだよ」
カイゼルは目を閉じた。
「……そうなれば」
静かに言う。
「最高裁判所設立の反対派は、辺境伯のみになる」
ディルクが息を呑む。
「通る……のか」
カイゼルは小さく頷いた。
「元々、貴族の揉め事は国王決裁だった
だが商人は違う。領地ごとに法律が違うことに反発している
貴族も商人を無視できない」
ゆっくりと言う。
「港湾貴族が賛成にまわれば……賛成が、わずかに上回るはず」
ディルクは俯いた。
「……なるほどな」
そして、ぽつりと呟く。
「俺は……誰に忠誠を誓えばいいんだ」
その言葉に。
部屋が静まった。
セリアは少しだけ考えて――
静かに言った。
「今は、まだ子供でいましょう」
皆がセリアを見る。
セリアは続けた。
「知ったところで、何もできません」
その言葉は、軽くはなかった。
むしろ――
重かった。
誰も、否定できなかった。
⸻
外では、雨が降り続いていた。
静かに。
だが確実に。
世界を濡らしていくように。
そして――
少年たちの上にも、同じように。
見えない何かが、降り始めていた。
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