episode.0
私が白端に越してきたのは、確か4歳の春。そして下見にと両親に連れてきてもらったのが、その少し前のことだった。
「あ、あれ……? ママ? パパ?」
駅の構内だったか。人混みの中、私は両親とはぐれてしまっていた。見知らぬ土地で舞い上がってしまっていたのだ。最初は待っていればすぐに見つかるだろうと安心していた。しかしどれだけ待っても、大好きな親の顔は見えない。次第に不安の波は大きく揺れた。
実際には、ほんの数分のことだったろう。それでも幼い私にとっては、それは恐ろしく長い時間だった。通り過ぎるのはどれも知らない顔。あるいは顔も見えないほど大きな大人。見知らぬ土地であるからこそ、右も左も分からずにただ静かにきょろきょろと瞳を揺らしていた。
「どこ……どこにいるの……?」
恐ろしさに拍車をかけたのはその日の寒さだった。それは冬に入る前、人肌離れればすぐに震えてしまうような、そんな寒さ。先ほどまで手を繋いで温めてくれた母の体温も、どこにも見当たらない。
次第に声も心も弱くなり、ただ震え、視界を滲ませただけだ。人の流れは私の焦燥に合わせるように加速し、一歩踏み出すこともできなかった。下手に動けば蹴飛ばされてしまう、けれど動かなければ、もう二度と両親とは会えないんじゃないかという恐怖。
「ねぇ、ママ……パパ……」
自分でも驚くほど、その声は小さかった。もはや目の前に相手がいても届かないような声。私がどれだけ寂しさを感じているか。それを知らぬ存ぜぬと、道行く人々は冷たく通過する。孤立する私はひどく冷え、じりじりと削っていった。
「お願い……」
行かないで。誰に向けた言葉だろうか。私を置いて離れてしまう両親に? それとも私を見て見ぬフリをしてどこかへ行ってしまう知らない人に? 分からないけれど、私は何かを懇願していた。
「ねぇ」
「……っ!」
かけられた声に、私はすぐに振り向いた。ひどい顔をしているだろうに、そんなことを気にする余裕もなく。視線の先には、一人の男の子が立っていた。背丈は私と同じくらい。声も、私と同じくらいの高さ。それなのに、私には彼が妙に逞しく見えた。
「どうしたの? 迷っちゃったの?」
「ママ……がねっ」
素朴な質問に、私は一生懸命に答えようとする。喉が引き攣り、思うように言葉を紡げないが、それでもなんとか声に出す。助けてほしい。見捨てないでほしい。両親に合わせてほしい。そんな我儘を、どうして同年代の彼が叶えてくれると思ったのか。今考えても分からない。
「そっか、一緒に探そう?」
「いいの?」
「うん! 僕この辺詳しいもん。どこまで一緒にいたの?」
「んっとね、確か……」
私の小さな手を引っ張ってくれる彼の手が、私には大きく見えて。彼の背中が大きく見えて。お兄ちゃんがいたら、こんな風に頼もしいのかなって。そんな考えが過ぎるたびに、私の顔からは涙が消えて、再び笑顔が戻ってきた。
それから何時間だろう。いや、本当は10分経たずだったはずだ。迷子になっていたことも忘れ、私はただ隣にいる兄のような新しい友人のことを、もっと知りたくなったんだ。
「僕は優希って言ってね、苗字は矢田なんだけど。花岡幼稚園ってところに行ってるんだ。家が近いから、この駅詳しいの!」
「私は今度、こっちの方に引っ越すんだけどね。それで今日はしたみ? っていうのに来てて……あっ!」
話の途中、私は思わず駆け出した。そしてやっと見えた母の懐に勢いよく飛び込む。引っ込んでいたはずの涙が、じわりと滲んで。やはりと言うかなんと言うか、結局母に抱かれるのが、私には一番安心できる。
「あらあら、どうしたの?」
「……ううん、何でもない」
涙に濡れた顔を擦りつけるようにしながらそう答える。私が右に左に遊びに行くのはいつものことだ。だからこそ母は私の寂しさを知らない。……いや、察した上で知らない風を装ってくれていた。
「あっ、そうだ! ……あ、あれ?」
振り向くとそこには、もう彼の姿はなかった。もう帰ってしまったのか、あるいはそもそも、出掛けている途中だったのか。まさかそんなにもせっかちだとは思わなかった。頬が緩みそうになるのを抑える。思い返せば、私は彼に名乗ってもいない気がする。
「……矢田、優希……」
何を意識したでもないが、彼の名前を繰り返した。最初はただ、なんとなく新しい土地を楽しみにしていただけだが。もしかしたらと、また別の楽しみが一つ増えた。
「ねぇ、マパパ」
「うん?」
「新しいお家、楽しみだね」
「はは、そうだな。ほら、行くよ。はぐれちゃダメだからな」
今度は父が私の手を引いてくれた。もう寒くはないが、私はその手をしっかりと握り返す。もう放さないように、しっかりと。
だから、私にとって、君はずっと特別な人なんだよ。中学から高校まで……それよりずっと前から、普通な私を照らしてくれた、特別な人。私は意外と奥手だからさ、なかなかお話する機会も作れなくて。……やっと、それっぽいタイミングができたんだ。それなのに、何を寝ちゃってるんだよ。いや、寝ちゃってるから、だけどさ。
「おーい。おーい、矢田くん。……あ、起きた」
「ん……?」
私の呼び声に、机に突っ伏していた彼は身体を起こした。お疲れだったかな。でも、次は美術の移動教室、このまま放っておけば先生に怒られちゃうかもしれないから。
「わざわざ起こしてくれたんですか。ありがとうございます」
「んん? いや、筆箱を忘れちゃってね。取りに来たら矢田くんが寝てるからさ、声をかけただけだよ」
もちろん、そんなのはただの建前だけれど。彼は覚えていないだろうな。私は名前も教えられなかったし、彼にとっては特別なわけでもなかったろうから。
「あ、そうだ。せっかくだし一緒に行こうよ。矢田くんとはこうやって話すのも……初めてではないか」
思い出したように、そう言った。のだが、元から私は君を求めて話しかけたのだから、滑稽にもほどがあるな。私の、いや、私と君の青春は、そんな始まりだったんだ。これは私が君と別れるまでの……2つの別れの物語。




