終話 塵も積もらぬ花畑
私は、広い花畑の中にいた。秋に彼と登った先にある、あの花畑。日記に書いてあった、彼が夢でも見たというあの頂。暖かく心地良い風が頬を掠め、肌を撫でた。視線を遠くに向ければ、真っ青な海が見えるはずだ。
もうすぐ天の迎えが来る頃だろうか。身体は節々が軋み、自由などない。辛うじて車椅子があれば移動もできるが、もう長くないことなど、本能で分かる。だからこそ、最期にはここに来たかったんだ。今回は海は覗かない。覗きたくない。
「ふぅ……大変だったけど、やっと完成したよ。間に合って良かった。私は君と違って、文才がないからね。本当に苦労したんだ。……ふふ、とても読めたものじゃないんだけどさ」
私の膝の上には、彼の日記ともう一つ、私が書き上げた小説があった。それが決して汚れないよう、大切に、大切に握り締める。一人でただ呟いているだけなのに、まるですぐ隣に、彼がいるような、そんな錯覚。
なぜそんな感覚なのか、問われても答えはない。強いて言うならば、彼と共にここへ来た記憶が、私には未だに鮮明にだからだろうか。
「君が生きてたら今も私の隣にいてくれたのかな……。仕事を無理に休んででも、最期まで支えてくれたのかな」
思えば君は、途中までしか私について来てはくれなかった。約束と違うじゃんか。私は君さえいればまだ楽だったかもしれないのに……どうにも上手くいかないもんだな。世の中っていうのはひどく理不尽なのだから、今更喚いたって仕方ない。
でも君を責めるつもりはない。あの場で誰かが死ななきゃいけなかったんだ。それがたまたま君だったってだけで……。そこには確かに、君が助けた命もあった。それもまた事実。
「でもやっぱり、君の未来は長かったはずだもんなぁ……」
弱々しく微笑みながら、私の頬を一雫の熱が伝った。思い返すほどに胸の奥が強い力で潰されていく。この傷は決して癒えることはない。癒えてはいけない傷なんだ。
叶うことならば、こんな傷は負いたくなかったよ。でも私が負わなかったとしたら、その役目は君のものだったのかな。それでも良いんじゃないかって、それは性格が悪いのかな。でも私が早く死ぬのは決まった未来なのだから……。そんな堂々巡りを繰り返す。
「そうだ、私があげた万年筆。アレ、使わせてもらったよ。元々未来を生きてくれる君に、証として使って欲しかったんだもん。……あ、でも安心してね。今はもう凛ちゃんに渡したからさ」
皮肉なものだ。君の未来に残るものをと、それが私に渡ったのだから。せめて凛ちゃんには、古澤くんには、私の家族、君の家族には天寿を全うして欲しい。なんて、どの口が言ってるんだか。
ふと振り返ると、そこには彼の墓標があった。こんなところにあったっけな。最近はどうにも記憶力が怪しい。それが何よりも恐ろしく、頭の中が泣き出してしまう。
「……それでも私達の思い出はこの本が未来に紡いでくれるもんね。君が約束を破った分、私がなんとかしてあげたんだ。感謝してよね」
恩着せがましく、そんなことを言う。思えば私は、寿命の代わりに色んなものを持っていた。昔はどれだけ不幸だと感じていたか、どれだけ普通の人になりたいと思ったか。そんな私を責め、他人を羨んだ日も少なくはなかった。
でも、私が普通だったなら、特別な君には会えなかったんだろうな。優しくて、勇敢で……馬鹿な君には。私はどこまでも幸せ者だ。何もかも……幸せだった。今は心の底からそう思える。
私は海が嫌いだ。
たくさんの子ども達があの波に飲まれてしまった。数えきれないほどの命が、あの青い怪物に奪われた。それまで積み上げてきたものを、何の脈絡もなく、そして無慈悲に連れ去ってしまった。ただ突然に、ただ残酷に。
君の判断を褒めることはしない。むしろ責めたいくらいだ。君にはもっと、ずっと生きていてほしかったから。それでも……それでもあの日、君のおかげで助かった命もある。それも事実だから、私は君のことを誇りにも思う。
私は花畑が好きだ。
その風景は色褪せることがない。その風景は人を殺すことがない。人が美しさを求めるために、花畑には塵も積もらない。何も積もらない。そこにあるのは思い出と、ただ美しい風景だけだ。汚れ、汚されることはない。
私は久しく、大きく息を吸った。甘い香りが肺いっぱいに流れてきた。太陽の香りが肌に沁みた。久しぶりに君の匂いが私に届いた。ほとんど枯れてしまったと思っていた涙も……私の瞳は存外、命を残していたらしい。
そのときにはすでに、私はどこまでも香る広い花畑に君と二人で立っていた。いや、違う。少し離れた影の向こうに、私が君を見つけたんだ。
「矢田くん! お待たせ!」
「……待ってないよ。僕が先に着いたってだけだから。……ありがとう」
その日、朝倉春奈は静かに息を引き取った。彼女は静かな病室で、そして長い夢の中でいつの間にか最期のときを迎えていた。手元には2つの冊子を、それは大切そうに抱えていた。
彼女の最期の表情はどこまでも穏やかだった。悲しそうに、瞼には涙を浮かべていたが、それでも満足したように微笑んでいた。その微笑みは確かだった。
彼女の死を悲しむ者も、彼の死を悲しんだ者も、決して多いとは言えなかった。けれど確実に悲しみ、傷ついている者はいた。彼らにとってはそれで良かった。わずかでも彼らのことを強く想ってくれる人がいたから。
残された者達は毎日彼らのことを思い出す。時が経てばいずれ薄まる痛みだが、この記録がある限り忘れることは決してない。それでいい。それならばきっと、彼らの墓に塵は積もらない。




