第45話 春先一歩
「はぁ、はぁ……」
一歩、地面を踏み締めるたびに、それ以上の力で胸がキツく締め上げられる。悲鳴にもならない掠れた空気が絞り出され、どこか鉄の味が広がるような錯覚にも陥った。
精神的にも相当に追い込まれた影響か、身体の調子はすこぶる悪い。外の空気を吸ってみると、それを分かりやすく感じることができた。
見慣れた風景、けれど私は、無意識に海辺を避けてそこに向かった。トラウマにも似た嫌悪感と恐怖心。私の決意が揺らいでしまいそうで、それが一番怖かった。
「すぅ……えっと……」
やって来たのは矢田くんの家の前。彼が私を家まで送ることはあっても、私が彼を送ることなどなかった。ここに来るのは初めてとは言わないけれど、私にはとても新鮮で、居心地も悪く感じてしまう。
「すぅー……よし、よし……」
インターホンを鳴らそうにも、あと一歩で躊躇ってしまっていた。何が怖いのだろうか。彼の両親に会うこと? いや、違う。これを鳴らせば、どうしようもなく、現実を受け入れなければならなそうだという、そんな臆病な理由。
「……どちら様……あら?」
「あ、えっと……」
意を決してボタンを押そうとしたそのとき、ガチャリと。まるで私に心の準備をさせまいというようなタイミングでドアが開いた。出てきたのは、鼻筋と目元が彼に似た、隈を浮かべた女性。幾度か顔を見たことのある、矢田くんの母親だった。
「あの、私……朝倉……」
言葉が喉に張りついて、思うように出てこなかった。緊張と混乱。恐ろしさと不甲斐なさに、またしても瞳が揺らぎ、堰き止めていた熱がこぼれそうになった。
「あぁ、春奈ちゃんね。……良かった。ほら上がって」
「あ、えっと……失礼します」
思いの外、柔らかい声に安堵する。もちろん、安堵したところで穏やかになる心持ちではないのだが。それでもどこか、安心してしまって。……目の前の景色に、再び現実に引き落とされる。
「お茶、出すからね。座って待っててくれる?」
「あ、はい。……すみません」
いやに寂しく、いやに静かな仏壇が視界の席を奪った。彼の自然な笑顔が、そこにはあって……まだ抜けていない線香の香りもある。それがどうしようもなく現実的で、私に夢を見せてくれない。
「……あらあら、良かったらさ。後で線香上げてってあげて」
「はい……もちろんです」
出された麦茶はひどく家庭的で、私は口をつける前に顔を拭った。涙が枯れるまで泣いたとしても、枯れることなどないのだろう。それが良いのか悪いのか、今の私には分からない。
「あの……」
「うん?」
「どうして上げてくださったんですか? 急に来ちゃって……申し訳なくて……」
お茶を一口飲み、尋ねた。確かに私は上がれればいいなと思って来たのだが。あまりの流れの良さに少しの申し訳なさと違和感があった。
「……本当はね、あなたが来なかったら私の方から訪ねようと思ってたの」
「矢田さんの方から……どうして?」
「これ……。ごめんなさいね、少し覗いちゃって。あなたも大変……なんて言葉では片付けられないだろうけど。色々背負わされて……」
「あっ……」
矢田くんの母親が今にも崩れそうな笑みで渡してくれたのは、『僕達の思い出』と表紙に書かれた、大切にされていただろう綺麗なノートだった。一つ、ページを捲ってみると……思わず私の涙が落ちた。
「あの子がこんなにマメに日記を取るなんて……初めて知ったわ。あなたとの出会いが、あの子を強くしてくれたのかしら」
「うっ……そんな……」
そんなことない、と、そう言おうとしてまた詰まる。だってそこに書かれていたのは、紛れもなく私と彼の記憶だったから。彼が私と紡いできてくれた、忘れるわけもない記憶。言葉も発せない。ただずっと、後悔のような、けれどどこか違うような雫が落ち続けた。
それから私が矢田さんに話したことは一つや二つではなかった。今まで矢田くんと過ごした日々、私の弱さ、私の病気。彼の最期……助けられたこと。ニュースなんかでは報じられない、彼の話。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝らないで。あなたは悪くないじゃない。あなたがそんなに泣いていては……あの子が報われないわ」
「っ……、はい。……そうですよね……はいっ!」
謝って許される話じゃない。許す許されるという話じゃない。それを改めて胸に刻んだ。私と彼の過去は確かなもので、それは現実。彼が死んでしまったことも、また現実。
「……矢田さん。私、これからやることを決めたんです」
「あら、何をするの?」
「私、——」
「っ! ……えぇ、えぇ。応援するわ。……私も、あの子も……きっと」
初めて、矢田さんが涙を流しているところを見た。それはまるで矢田くんが泣いているようにも見えたし、やはりそうでないようにも見えた。
その後は語るほどでもない。何度か断ったものの、結局その日記は私が譲り受けた。「あの子とあなたのものなんだから、私が持っていては勿体無い」と、そう言われては断れない。そうして約束通り、線香を上げて彼とお別れをした。苦い香りが胸いっぱいを覆った。帰りの景色は、常に歪んでいた。




