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第44話 君に向け

「続いてのニュースです。先日、白端漁港で起こった——」


 階下から、知らない声が聞こえてくる。この頃は毎日、どこへ行ってもそんな話題だ。だれも彼を知らないくせに、軽々しく、偉そうに口を開いて……。


 あれから何日が経っただろう。いつまでも布団にうずくまり、出るのは手洗いと風呂、それからご飯のときだけだ。母さんは心配そうに覗きに来たり、父さんも声をかけにくる。それに一体、なんの意味があるのだろう。


 シーツも枕も、汗と涙に汚れていた。それが時の経過を静かに物語る。いつまでもこんなでは、彼に叱られてしまうだろう。過去は変わらないのだから、立ち上がらなければ。そんなこと、誰に言われなくても私が一番理解している。私が一番、彼を知っていたのだから。分かっているからと、ここを抜け出せるわけじゃないんだ。


「……春奈、学校から……」


「……置いといて」


 目を通すつもりもなければ、受け取る気力も湧かない。新学期が始まった。それだけで、何日も経ったことが確かに分かる。試しにスマホを開いてみると、いくつもの通知が入っている。やはり、心配の声が多い。中には古澤くんと凛ちゃんからのメッセージもあった。2人は矢田くんとも仲良くしていたため、ショックもあり、私の傷も分かるのだろう。


「げほっ、げほっ……」


 思わず、汚れた空気が肺から絞り出された。不思議なのは、あれから体調も優れないこと。彼が私の支えになっていたことなど、疑うこともなかったが。こんな身体を見ては、想像以上に依存していたのだと思い知らされる。そう自覚しただけで、また、瞳が熱く震える。


「うぅ……ぅっ」


 彼を止める方法はあったのだろうか。いや、あの場にいたら、関係なしに彼はああしただろう。海に行かせた時点で、こうなる他なかったのだ。どうしようもなかった、今更どうしようもない。胸が壊れるほど痛く、目は焼けるほどに熱い。


 あの日、何が起こったか。思い返すだけで苦しい。救助隊が来てから、少年は引き上げられた。顔を崩し、全身傷だらけで。後からやって来た母親も、泣きながら彼を抱き抱えて。「生きててありがとう」と、そう繰り返した。少年から一通り説明を受けてからは、私に対する感謝とそれ以上の謝罪。中身はあれど、意味のない。それで何が返ってくるのか。


 残された私に、何ができるだろう。死人に対して、できることなんて自己満足でしかない。死んだしまえば、そこには魂も何も、誇りも塵さえもないのだから。


 深く息を吸い込み、そして吐く。私は生きている。あの日、私もこの身を投げてやろうかとも思ったけれど、そしたら私は死んでしまうから。せっかく彼が残したものを捨ててしまうから。生きてる私には、まだ多く残されている。できることも、いくらでもある。


「はぁ……ふぅ。切り替えよう。いつまでもウジウジしてちゃダメだ、私」


 頬をパチンと叩く。ダメだ、このままでは。まずはちゃんと会わなければ。矢田くんのご両親に。……息子を失って、悲しいなんて言葉で片付けられる感情ではない。私が一番傷ついていると思っているし、私が彼を一番愛していたとも思っている。けれど彼の親は私よりずっと前から、ずっと深く愛していたのだ。比べるものではないが、被害者面はできない。できるわけがない。


「母さん、父さん。今までごめん。ありがとう」


「……あら、起きてきたの」


 目元を腫らしながら、私はリビングに降りた。今もなお、死んだような顔を浮かべた2人。申し訳なさと、やはりそれでも拭えない虚無感。これは消し去ることなどできないだろう。


「私、できるだけ生きるよ。まだ、私はまだ生きなきゃいけない」


「っ……! うん、うん。そうだよ、ありがとう……」


 私の宣言に、母さんは泣き崩れながら頷いた。父さんはといえば、素っ気ないように見せているけれど、頬が濡れているのは見間違わない。


「私、やりたいことができた。……ううん、やらなきゃいけないことが。それまで頑張って生きなきゃいけなくて、だから……」


「うん、私達が支えてあげるから。娘だもん。ちゃんと、支えてあげるから」


「そうだぞ、春奈。……つらかっただろうし、つらいだろうけど、父さん達はお前の味方だよ」


 掠れた声が耳に入った。病気の娘……我が子が自分達よりも先に死ぬなんて、どれだけつらいことだろう。今まではなんとなくでしか考えていなかったが、今の私ならよく分かる。……つらいなんてものじゃない。


「うん、うん。……ありがとう」


 流れたのは何の涙だろうか。感動か、悲しみか。あるいは恐怖か何か。答えは一つではないだろう。どれもが混ざり合い、一つの現象として外に出る。改めて思えば、私はなんて親不孝者だろうか。なんて幸せな人間だろうか。


 時間をかけて、寝巻きを脱ぐ。時間をかけて顔を洗い、整える。ドアを一歩、外に出てみれば、あまりの眩しさに目を細める。鋭い日光が網膜を狂わせる。熱い、痛い、苦しい。そんな感覚とも、ちゃんと向き合い、戦わなくては。でなければ私は、彼に向ける顔がない。

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