第43話 咲き乱れる花嵐(3)
春の嵐は底知らずに寒い。つい先ほどまでは暖かな気候だったというのに、今では暖房の効いた店内がたまらなく心地良いほどに。外に出ればすっかり冬を思い出し、雨に濡れてしまえば、それは氷点下をも下回る気分になるだろう。
「うぅー、寒っ!」
店を出て、自動ドアが開く。吹き込む風雨が突き刺さる。寒い、寒い。それはそうだ。朝からずっと、春の陽気を楽しみにしてきてこの落差。突然に冬に突き落とされたら、身体も驚くなんてものではない。
「上着、貸そうか?」
「え、でも矢田くんも寒くない?」
「別に、今着てるのを脱ぐわけじゃないから」
荷物の奥に仕舞っていた冬用の上着を取り出し、それを彼女に羽織らせた。寒くないとは言わないが、私は健康体だ。すでに色白に、そして身体を震わせている朝倉さんの方を優先するのは、なんら不思議なことでもなかろう。
「どうしてこうも……天気予報は外れるのかって……前も話したっけ」
「ははっ、何回も話してるよ。気持ちは分かるけどね」
彼女はそう言って、楽しそうに笑った。どうやらすっかり機嫌が治ったようだ。……私がそんなにも天気について話していたということは、それだけ残念だったのだろう。せっかくの予定を、天気予報が外れるだけでこうも理不尽に壊されてしまう。彼女の時間は限られているというのに……もっとも、当の本人はこれもこれで楽しんでいるのだが。だからこの握る拳は、行き場のない怒りのようなものだ。
「あ、そうだ……」
ふと、少し前の記憶が蘇る。「荒れた波を見てみたい」、そんなおかしな望み。命の灯火が小さいからこその怖いもの見たさ、あるいは生の実感。
「……帰ろうか、今日も朝倉さんの家まで送るよ。……いや、今日だからこそ、みたいなところもあるけど」
「……そうね、じゃあ……」
「回り道していこう。海が荒れてそうだから」
そう言った理由は2つ。まずは彼女に荒れた波を見せるため。もう一つは波に攫われないように。住宅街の隙間から、かろうじて激しく暴れる波が見えた。ただ私達には、音と潮の香りしか届かない。彼女の望みと、安全を両立するように。海に対する意味では、この場は危険は一切無かった。
だからこそ、こればかりはあえて、分かりやすく言っておこうと思う。私達は危険を冒そうとはしていなかった。それはもちろん、こんな気候で海に近寄ることは危険だと、分かっていたからだ。私達は子供じゃない、危険な場所になどわざわざ近づかない。そう、私達は。
折り畳み傘を差しながら、そんな景色を眺める。荒々しくも、確かにどこか、美しさも感じるような……。気のせいか。
「——!」
「……? なんか、今……」
「どうしたの、矢田くん?」
瞬間、甲高い……いや、あるいは低いような。叫び声のような音が私の耳に届いた。朝倉さんには聞こえなかったのか。空耳だろうか? ……いや、もしかしたら……そうだ、その可能性もある。
「ちょっと、これ預かってて……」
「え、ちょっ……矢田くん!?」
彼女の声を置き去りに、私は急いで駆け出した。傘も荷物も失い、身軽な身体に雨が重く張り付く。息が上がる。こんなことなら、もっと運動をしておくべきだった。なんて、こんなことを思うのは何度目だろうか。後悔先に立たずとは言うが……。
「げほっ……あぁっ、ごぽっ……がっ!」
「っ……! おい!」
白端の古い漁港。その先に一人、少年が波に飲まれていた。両手をばたつかせ、飲まれ浮かれを繰り返している。ここは岸壁、すぐ近くに見えても、足が付かないほどに深い。どうしてこんな……。
「そうだ、救急……」
「がっ、だずげ……っ、だっ!」
急いで私はスマートフォンを取り出した。110……は違うよな。119だろうか? いや、悩む時間なんてない。電話さえすればどうにかなるはずだ。私はそう思いながら、視線を右に左に動かした。幸い、とでも言うべきか。浮きやロープはありそうだ。
「はっ、ごほっ……だず……っ」
「おい、持ち堪えろ!」
電話を取りながら、私は少年に声を投げ続ける。マズい……私でも分かる。少年は今、混乱状態だ。それに海の寒さと荒さに、体力も著しく削がれている。長くない。あと数分か……むしろ私が姿を見せてしまったせいで、緊張が無意識下に緩和してしまったようで、それでいて混乱には拍車がかかっている。
「——場所を——時間は——」
もはや、スマートフォンの奥から聞こえる声には意識が向かなかった。ここに来るまで、およそ20分。あるいはそれより早いかもしれないが、そんなに待っていたらあの少年は……間違いなく死ぬ。
「くそっ!」
ロープと浮きを硬く結び、係留柱にも結びつける。こんなものが役に立つのか、分からないが無いよりはマシだ。加えてこうもボロボロだと多少の傷は負いかねないが、それも仕方ないと割り切ろう。
「はぁっ、はぁっ……や、矢田くん!」
「朝倉さん……来たのか」
遅れてやってきたのは、傘も荷物も乱しながら、一生懸命に走ってきた朝倉さんだった。彼女は息を切らしながらも、目の前の光景に息を呑む。目の前で人が死ぬ、そんな景色を目の前に、誰も落ち着いてなどいられない。
「朝倉さん、一応、これは縛ってるんだけど、押さえておいてくれる? 体重かけておいてくれればいいから」
「え、え?」
彼女は困惑しながらも、私の願いを聞いてくれた。身体の弱い彼女にとって、このロープを引っ張ることは難しいだろう。だから岸から離れないように、それだけでいい。私は恐れを感じながらも、それ以上の別の恐怖に動かされ、上着をそこに脱ぎ捨てた。浮きを持ち、中に飛び込む。
ダメだとは分かっている。救助のために己も飛び込むなんてタブーだと。だが、ここでそうしなかったら、彼はどうなる? 間違いなく死ぬ。それは確かだった。それだけは、この場において確かな未来だった。
「ちょっ……矢田くん!」
「おい! ……えっと、君! 落ち着け、大丈夫だ! お兄さんが助けに来たからな!」
「あぷっ……はっ、はぁっ!」
なんて声をかけたらいいのか。分からないが、まずは安心させる必要があるだろう。私は少年を抱きしめ、強く、強く呼びかけた。
「分かるな? 返事をしろ。落ち着け、溺れないからな」
「あっ、はっ……はいっ、はい……」
少年はパニックになりながらも、なんとか浮きにしがみついた。様子を見て、少し頬が緩んだ。その瞬間、背筋が凍った。
考えてみれば当然、この漁港は古いのだ。ならばもちろん、そこにあるものも古い。この浮きは人2人を浮かべるほどの大層な浮力はなく、ただのガラクタにも近しい代物だった。
「……っ、くそっ!」
可能性を考える。論理的に、順立てして。どちらかが、これを手放す必要がある。彼が手放せば? 結局、ゼロに戻るだけだ。彼は死ぬ。私が手放せば? ……彼よりは可能性がある。彼よりよっぽど、私の方が泳げるのだから、考えるまでもなく……。
「っ! や、矢田くん、ダメ!」
「押さえて、朝倉さん! 大丈夫、僕は……大丈夫だから!」
そんなわけがないことは、私が一番理解していた。いや、理解せざるを得なかった。飛び込んだときか、あるいは波に揉まれたときか。いつの間にか、足をパックリと切ってしまっていたらしい。寒さによる麻痺だろうか? それとも興奮状態で気づかなかった? 冷静ならば、誰がこんな危険を冒すというのか……。
「はぁ、はぁ……ぁ……」
どれだけの時間が経ったろう。不思議な気分だ。身体がフワリと浮くような解放感。妙な温かさ、同時に寒さ。私は何をしていたのだっけか。……そうだ、花見だ。朝倉さんと花見をして、そう、まだ春は終わらないのだから、あと何回か、彼女が死ぬまでにと……。
「矢田く……優希! ダメ、返事して……ねぇ! 優希!!」
どこからか聞こえるのは、彼女の掠れた声。激しい嗚咽と、涙の落ちる音。私を引き上げようとするその声は、確かに朝倉さんのものだったけれど。私を引き摺り下ろそうとする力の方が強い。私の足を掴んで……いや、それも気のせいか。何にも掴まれてなどいない。
「いや……優希……っ!」
怖い思いをさせてしまったか。寂しい思いをさせしまったか。こんなにも彼女のことを考えず……私は何も、英雄でもないというのに。
……はぁ。ひどい声を出させてしまった。こんな寒い日に泣かせてしまって……。最後はせめて綺麗な声を聞きたかった……なんて、そんな贅沢は許されないか。
ゆっくりと、瞼を下ろす。妙に落ち着いていて、浮いていた。どうしてか、意外にも怖くないものだ。いや、私が怖くなくてもダメなのだが……それでも妙に落ち着いていて……。静かに、私は沈んでいった。
***
時間にしておよそ20分、救助隊は到着した。引き上げられた少年は一人、いくつかの傷を負っており、加えて凍傷と衰弱によりしばらくの入院をしたのだとか。
世間に報道されたのは2つ。一つ、嵐の日に6歳の少年が海に飛び出し、溺れたところを救出されたこと。そして一つ、白端高校に通う男子生徒が、少年を助けて命を落としたこと。
皮肉にも、注目されたのは親の監督問題だった。嵐という日にどうして、外に出られるようにしてしまったのか。子供は厳重に見守らなければならないと、それすらも一時期の話題のネタというだけだったが。あるいはそこから派生し、一部では6歳の少年なのだから、多少の自己管理もできなければとよく言われた。親の教育だの、個人の危機管理能力だの。
何はともあれ、本来語られるべきだった若い高校生の命は、あくまでネタを語るための要素として消費されることとなった。
……わざわざ記すほどのことでもないが、少年が嵐の日を狙って外に出た理由。それはなんでも荒れた波を見てみたい、なんて、そんな馬鹿馬鹿しい理由だったそうだ。それを聞いたときの私の怒りと呆れ、そして罪悪感と来たら……言うまでもないだろう。
その日、私が待ちに待った、楽しみにしていた日。私の春は終わった。




