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第26話 海と花畑

 空はすっかり高くなり、次第に冷気が流れてきた。そんな中、私達が訪れているのは白端よりずっと北にある小さな山だった。頂上には花畑が広がっているのだとか、なんとか。


 口から吐かれる息は白くなっていた。冬も差し掛かる正午前、もう少し運動しておけばと後悔が押し寄せる。


「はぁ、はぁ……」


「朝倉さん、大丈夫……?」


「ん? あぁ、ちょっと疲れるだけだよ。私が行くって言ったんだから、頑張るんだ」


 ふんすと息を立てながら、彼女は一生懸命に足を進めていた。身体の自由が効きづらくなっているだろうが、まさに一生懸命に。その危うさと儚さについ手を差し伸ばそうとしてしまうが、たぶんそれは彼女のためじゃない。


「……ちょっと、そこで休憩しようか」


「はぁ、はぁ……そうだね。そうしよ」


 少し開けた山道、そこの岩に腰を下ろした。高い山ではない……というか、ほんの岡のようなところだ。それなのに息が上がってしまって……私もだが。


「いやぁ、疲れるね。登るのはさ。テニスやってた頃なら、これくらいなんてことなかったろうに」


「どうだろうね。登るのって走ったりするのとは違う筋肉使うだろうから」


「あ、それもそっか」


 水を流し、少し脚を休ませた。プラプラと揺らすと疲れが中から抜けていく気がする。私はずいぶん休めたか。


「どう? 朝倉さん。急ぐ必要はないけど……」


「……うんっ! 行こ! もう大丈夫!」


「そっか、じゃあ行こうか」


 本当のことを言うならば、私はまだ脚が痛んでいた。筋肉が絶妙に苦しいが、至って健康の範囲だ。あくまで私は、だが。


「はぁ、はぁ……ねぇ、矢田くん。上に行ったらどうしよっか。結構広い花畑になってるらしくてね、そこでお昼食べて……」


「ははっ、そんな焦らなくてもいいよ。何が逃げるでもない」


「……そうだね。到着してから考えよっか」


 ピクニック、ってところかな。景色を眺めて、お昼を食べて、特に何をするでもない。言うなれば、ただ言葉を交わし、時間を共有する、ただそれだけ。


「……あっ! 見えてきたんじゃない!?」


「おぉ、本当だ」


 木々の隙間から覗いた一筋の光、その先は確かに開けて見えた。一歩、一歩と進めてもなかなか辿りつかない。見えていても、意外にも遠かった。


「あはぁー……! やっと着いた!」


「おぉ! なかなか」


 脚が重いなと思いつつ、目の前の景色に息を忘れた。疲労が足の裏から大地に流れ、そのまま解消されていくような……それほどにその景色は素晴らしかった。


「さ! ちょっと休も! 休んだらご飯に……持って来てるよね?」


「ちゃんとあるから、安心して」


 草むらの中、私の朝倉さんは並んで倒れ込んだ。チクチクとするのが心地よくもある。赤、白、黄色……色とりどりな花のカーペット。これが人に管理されたものではなく、天然のものだというのだから面白い話だ。


 甘い蜜のような香りが鼻に優しい。甘ったるいのは好きでもないが、太陽の香りと混ざっていい具合だった。空気は冷たいが日は暖かい。


「はぁー……疲れたね」


「本当、でもいい経験だよ」


 できればあと何回でもこうして、彼女と並んで来てみたい。でもそれも、なかなか叶わないだろうな。朝倉さんも、来年の今頃は病室かもしれない。……。


「気持ちいいね」


「ははっ、確かにね。お日様が包み込んでくれるみたいだ」


「……なんかそれっぽいこと言うじゃん」


 確かに背の低い草が肌を撫で、それが私を包んでいるようにも思える。それをお日様が包み込むと表現するなんて素直な人だ。


「はぁあ。でも疲れた。ねぇ、お昼は何持ってきたの?」


「サンドイッチだよ。ピクニックって言ったらサンドイッチじゃない?」


「おぉ、それはそうだ」


 朝倉さんはやる気を出したのか、勢いよく身体を跳ね起こした。背中を叩き起こし、視界を伸ばした。


「……おっ、ねぇ矢田くん。アレさ、海だよ。白端の海かな」


「ん? 見えるの?」


 彼女のそんな言葉に私も身体を起こした。花畑の途切れた先、家やマンションが蟻のような大きさに見えるさらにその先、水平線が小さく見えた。視線を下せば見えないけれど、上がれば確かに見える程度。けれど、鮮やかな花畑とのコントラストでその海は目立ってはいた。


「そうっぽいね。漁港じゃないけど……」


 だからこそか、なかなか綺麗に見える。この距離ではゴミも見えないだろうということも相まって、重く清らかな青い海に。


「ま、とりあえずお昼にしよっか」


「そうだね! 私もお腹空いちゃってるし!」


 花畑の隅の、ちょっとした岩場に座り込み、荷物を開いた。揺れて不恰好になったサンドイッチも、味は変わらない……いや、少しだけ味が深かっただろうか。

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