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相棒はカンフー童女  作者: ユーカリの木
きわめて人工的で人間的なあなた
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一章:命は羽のように軽い 5

 部屋を用意され、スマホを新調され、その日の食料まで渡されたノアは、感謝が終わらないあまりオライオンを祈りそうになった。金銭が信仰を超える瀬戸際だった。


 なにより、物価が全然安かった。いままでどれだけ巻き上げられていたのだろうか。まさかいまの所持金で一か月は暮らせるとは思いもよらなかった。


 やはり神はいたのだ。絶えない祈りを捧げる者には、いつだって救いの手が差し伸べられる。


 善意は甘い蜜だ。一度味わってしまえばもう一度と手を伸ばさずにはいられない。だが、それは許されざる怠惰だ。罰せられるべき罪だ。無限の要求は、必ず人を堕落させる。


 役に立たねばならない。どん底から救い上げてくれた彼らのためにならなければならない。そうでなくば、なにが人か。隣人を愛することが人の本懐なのだから。


 だから、ノアは新しい住処、1LDKのリビングの中心で両膝をついて祈った。


「神よ、今日は良き訪れがありました。私はまだ、生きていて良いのですね」


 罪の意識が心の内から身体を蝕んでいく。正しくあることが、ノアにとっては贖罪だった。これが続く限り、きっと罪科が生み出した結果に、ほんのわずかであれ救いがあるのならば、祈ることをやめない。


 祈りを終え、少し早い夕食を取る。人族ではよくあるというカツ丼だ。学生時代、ノアはこれを食べて料理の極致だと感じた記憶がある。いまはもう戻れない、失った場所だ。


「すべての食材に、料理人に、この世すべてに感謝を。ああ神よ、この世界はきっと、美しい」


 カツ丼を食べる。食事が今日ほど美味しいと思った日はないだろう。全身が与えられた栄養に喜んでいる。時間を掛けて味わって、食べ終わっても余韻を楽しんだ。人間的な生活は人を穏やかにする。食事は人を笑顔にする。きっと、食事には神意が宿っている。そう思えば、ノアは今日も生きていける。


 ノアにとって、神はよすがだ。寄る辺のないこの街で、罪に溺れるこの身を、ただ黙って肯定してくれる存在だからだ。


 お風呂で身を綺麗にし、布団に潜ってまぶたを閉じた。安堵と共に眠りに落ちる。


 悪夢を見ずに朝をむかえ、ノアは神に祈る。久しぶりに朝の時間をのんびりと過ごした。やることが思い出せなくて、ただただネットで情報を貪った。


 昨日買った服に着替え、時間になるまでまた祈った。


 時間ぴったりに家のチャイムが鳴った。久しぶりの感覚を思い出しつつ、荷物を持って玄関の扉を開く。竜の刺繍が施された服を着た童女が、両手に腰を当ててのけぞっていた。


「我はフェン。汝の教育者である。ひれ伏し崇め奉れ!」


 ぽかん、としているノアの前で、フェンの頭上にげんこつが落とされる。暴力の主は赤毛の男――オライオンだった。


「すまん、いまのは全部忘れてくれていい。いい朝だな、調子はどうだ?」


 頭を押さえてしゃがんだフェンが、恨みがましい表情でオライオンを見上げる。


「オライオンよ、ぬしはいつから我を殴れるほどに偉くなった?」


「俺が代表だ。そしてフェンは……平社員だ」


「我、偉くないの⁉」


「いつから偉いと勘違いしてたんだ?」


「な、ナーガよ! 我の威厳ってどこにあるのだ!」


 童女が左手に突如湧いて出た男の足に縋りつく。ナーガは背を丸めると、困ったようにフェンの頭を撫でた。


「せやなぁ。たぶん、どこかで落っことしてきてもうたんやぁ。今度一緒に探そうなぁ」


「我の威厳は落ちるのかぇ? 物だったのかぇ? 威厳は存在に宿るはずよ! なれば、我の威厳はここにあり!」


「そっかぁ、なら一緒に黙っとこうかぁ。強者は黙ってても威厳がバシバシでとるんよぉ」


「うむ、そうしよう! ではオライオン、先を続けよ」


 こほん、とオライオンが間を取る。


「まあ、あれだ。このちっこいのがフェンで、こっちの細長いのがナーガだ。以上、全員車に乗れ! 奈落に行くぞ!」


 ノアの常識がどこかへ吹っ飛ぶ。それくらいのインパクトがある一幕だ。思わず心中で祈った。


 ――神よ、これはなんなのでしょう?


 神は答えを齎さない。オライオンに後部座席に押し込まれたノアは、発信する車に身を任せることしかできない。


 運転席には異様に存在感が薄いナーガ、助手席には黙してなお胸を張るフェン。


「フェンはん、のけぞるのやめやぁ。シートベルトしっかりせぇへんと頭から飛び出るでぇ?」


「うむ」


 威厳たっぷりに頷いたフェンが座席に深く座る。ノアの隣にいるオライオンは両手で頭を抱えていた。


「人選間違えた。絶対間違えた。ファーストコンタクトがコントってなんだよ」


 たぶん、何か声を掛けた方がいいのだろう。ノアは必死に頭を振り絞る。


「あの、素敵な方々ですね?」


 オライオンが絶望の顔をした。


「……いいとこひとつも見つからなかったときに言われる言葉だそれ」


「オライオンはんも苦労しとるんやなぁ」


「安全圏の奴が羨ましいぞおい」


「役、変わってみるぅ?」


「悪かった。絶対に特別手当は出す」


「おおきにぃ」


 ノアは人間関係の力学に疎い。いま何が行われているのかが理解できない。


「あれ、もしかしていま、我バカにされてる?」


「フェンはん、強者は黙して語るんやでぇ。ビンビンに伝わって来とるでぇ、威厳」


「そうだった! うむ、黙る!」


 なにが伝わって来たのだろう。念力?


「ノア、いま感じているそれはたぶん間違っていない。先達としてひとつだけ言っておく。じきに慣れる」


 オライオンは真面目な顔をしていた。ひとまず、ノアはこれはそういうものだと受け取ることとした。たぶん、思考では超えられない壁なのだ。時に神は難解な試練を人へ与える。


「分かりました。慣れます」


「常識人が来てくれて俺は嬉しいよ……」


 この事務所に常識人はいないのだろうか。少し不安を覚える。


「オライオンはん、言葉は選んだほうがええでぇ? ノアはんを不安にさせとるよぉ」


「タンマ! ノア、逃げないでくれ。本当に、大丈夫だ。なにが大丈夫かは後で考えるけどきっと、たぶん問題ない!」


 大丈夫の根拠が微塵もない。ただ、大の大人がまだ子どもである自分に頭を下げる姿が、少しおかしかった。


「ええんやないオライオンはん。こっち来ぃやぁ。道化になった方がノアはんが笑いよるでぇ?」


「俺、代表。威厳、大事」


「なら黙るかぁ? そしたら威厳たっぷりやぁ」


 そのとき、ぴくん、とフェンが動いた。


「黙るのは我の威厳を示すため! オライオンは喋って威厳を下げぃ!」


「こいつら無茶苦茶だ……」


 このときたぶん、久しぶりにノアは笑った。学生時代に消えた笑みが、時を超えて戻って来た。


「ほら、えらいべっぴんさんやぁ。代表が地に落ちた甲斐があるなぁ」


「え、このやり取りだけで俺の地位って落ちたのか? そんなに代表って弱いのか?」


 久しぶりの笑いは、しばらく止まりそうになかった。



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