55「昔話」
夜の作業小屋はランプの灯りに照らされ、外の虫の声がかすかに響いていた。
カイルは寝台に横たわり、目を開いたまま天井を見つめている。生気のない瞳は、まるで遠いどこかを映しているかのようだった。
シュウは椅子に腰かけ、水差しと布を手元に置いたまま、ぽつりと口を開く。
「……なあ、覚えてるか? 最初にお前が俺に声をかけてきたときのこと」
返事はない。だが、静かな沈黙が逆にシュウをしゃべらせた。
「“その酒、売る気はあるか?”って、あの妙に芝居がかった口調。忘れられないよ」
小さく笑いながらも、すぐに真剣な表情に戻る。
「結局お前がいなかったら、ヤミシラも黒ヤミも世に出なかった。ネリィの酒場だって今ほど賑わってなかったろうしな」
カイルの視線は変わらない。ただ天井を見続けている。
シュウはため息をつき、少し声を落とした。
「お前、よく言ってただろ。『シュウの酒はこの国の未来を変える』って。大げさだと思ってたけど……今は、なんとなく信じてる」
沈黙の中、シュウはしばらく天井を見上げるカイルと同じ方向を見つめた。
「……だから帰ってこいよ、カイル。お前がいないと、販路拡大もできやしない」
言葉に応じるように、カイルの指がかすかに動いた気がした。だが、それ以上の反応はない。
シュウはそのわずかな動きに希望を見いだし、絞るように声をかける。
「大丈夫だ。湖水が戻ってきたら、きっと……元のお前に戻れる」
夜は更け、シュウの語りかける声だけが、小屋に静かに響いていた。
翌朝。
まだ靄の残るバリスタの空気の中、作業小屋の扉が控えめに叩かれた。
「……シュウ、起きているか?」
扉の向こうから聞こえたのは、レオニードの低い声だった。
シュウは椅子に座ったまま浅い眠りから目を覚まし、カイルの寝顔を確認してから扉を開ける。
「どうだった?」
レオニードは深刻な面持ちで入ってきた。
「――牧師を除いた教会員どもは、すべて捕縛した。今、仲間たちが取り調べを進めている」
言葉の一つひとつに緊張が走る。
「それで、なにかわかったのか」
シュウが身を乗り出すと、レオニードは首を横に振った。
「……奴らの口は固い。だが、ひとつだけ確かな情報がある。カイルに盛られたのは、ただの睡眠薬や毒ではない。精神に直接作用する調合薬らしい」
「……やっぱりな」シュウは奥歯を噛みしめる。
「成分の一部はわかったが、解毒法も、ましてや洗脳を解く方法も……今のところは見つかっていない」
部屋の奥で眠るカイルの顔を見やりながら、レオニードは言葉を続けた。
「過激派は、この薬を“鍵”と呼んでいたそうだ。だが、その“鍵”がどう作用し、どう外すのか……まだ何も掴めていない」
シュウは額を押さえ、深く息を吐いた。
「つまり……今のカイルを解放できる手がかりは、まだないってことか」
レオニードは黙って頷く。
重苦しい空気の中、ただ外の鳥のさえずりだけが妙に明るく響いていた。




