54「兆し」
カイルは縛られたまま激しく身体をよじらせ、黒ヤミの香りに呼応するように祈りの言葉を繰り返していた。
「……酒は……罪……祈りで……清めよ……!」
その声は異様に低く、カイル自身のものではないかのようだった。
シュウとネリィは必死に押さえつける。だがその最中、ほんの一瞬だけ、祈りの言葉が途切れた。
「……シュ……ウ……」
小さな声。確かに、カイル自身の声だった。
シュウはその瞬間を逃さず耳を傾ける。
「カイル!? おい、俺だ! シュウだ!」
「……助……け……」
虚ろな瞳が、一瞬だけだがシュウの方をはっきりと見た。
それは、完全に飲み込まれたわけではない証拠だった。
「カイル! まだお前は戻れる! 絶対に助けるからな!」
必死に叫ぶシュウの声に、カイルは震える唇で何かを言いかける。
「……水……あの……湖の……」
そこまで言った瞬間、カイルはまた祈りの言葉を繰り返し始めた。
「……酒は……罪……祈りで……清めよ……!」
ネリィは息を呑み、シュウを見た。
暴れるカイルを必死に押さえつけながら、シュウの心には一つの仮説が芽生えていた。
——湖水には、この洗脳を解く手がかりがあるかもしれない。
暴れるカイルをようやく縛り直し、息を整えたシュウは深く息を吐いた。
「……湖水。やっぱりあの水が鍵なんだ」
「そうだね。魔力の質が違うって、前にネリィも言ってたじゃないか」
ネリィは心配そうにカイルを見やりながらも頷いた。
「でも、あそこは北山脈の奥。魔獣だってうようよしてる。今のあんたじゃ、ひとりで取りに行くのは無理だよ」
「わかってる。だから――」
シュウは拳を握りしめる。
「もう一度、《風裂の牙》に頼む。あいつらなら場所も危険も知ってるし、信用できる」
翌日、ネリィの酒場の裏で《風裂の牙》の四人が集められた。
長槍のリーダー、ザクが真剣な表情で話を聞く。
「……なるほど。カイルの状態を戻すために、湖水が必要ってわけか」
赤髪のライラが腕を組み、眉をひそめる。
「またあの谷に? ま、でもアンタらと一緒に古代麦を手に入れた仲だ。恩は返すよ」
弓使いのフィンが軽く笑い、
「報酬は……またヤミシラとツマミでいいのかい?」
シュウは苦笑して頷いた。
「もちろん。今回は特製の黒ヤミも用意する。……ただし、必ず無事で帰ってきてくれ」
ガタイのいい盾役トモアがドンと胸を叩いた。
「任せとけ。俺たちが全力で汲んでくる」
こうして、再び湖水を求める冒険が動き出した。
——カイルを救うために。




