37「古代麦と湖水」
谷の奥は思った以上に広く、雪解け水が小さなせせらぎとなって縫うように流れていた。
《風裂の牙》の四人は前衛と後衛に分かれ、周囲の安全を確保しながら進む。
「古代麦ってのは、どんな見た目なんだ?」
フィンが歩きながら尋ねる。
「穂の形はレアト麦に似てるけど、穂先が青銀色で、光にかざすと淡く輝くらしい」
カイルが答えると、ザクがうなずく。
「谷の中央部、湿地帯に生えるって古い記録にあった。問題は、その湿地が今も存在してるかどうかだ」
やがて木々が途切れ、開けた地形が現れた。そこはまるで谷の底を大きくえぐったような広い盆地で、その中央には鏡のように澄んだ湖が静かに広がっていた。
雪解けの水をたたえるその湖は、風が吹いてもほとんど波立たず、空を映す鏡面のようだ。
「……妙だな」
シュウが湖の方をじっと見つめ、眉をひそめる。
胸の奥に、微かな振動のようなものを感じた。
「湖から……魔力を感じる」
ライラが剣に手をかけ、警戒する。
「魔物の気配じゃないの?」
「いや、もっと静かな……生き物じゃない感じだ」
そう言いながら、シュウは湖畔まで歩み寄り、しゃがみこんで水面に手を触れた。冷たさの奥に、微弱な脈動のようなものが確かにあった。
「これは……水そのものが魔力を帯びてるのかもしれない」
シュウは腰の水筒を取り出し、慎重に湖水を汲む。
「戻ったら調べてみよう。ひょっとしたら古代麦を育てる手掛かりになるかもしれない」
カイルが湖の向こうを指差す。
「見ろ、あっちの浅瀬……あれ、麦じゃないか?」
水辺近くの小さな湿地に、青銀色の穂がわずかに揺れていた。
「……間違いない、古代麦だ」
ザクが小声で告げ、一行は足音を殺して近づく――。
ザクが先頭に立ち、足場を確かめながら湿地へと進む。
足元はふかふかと沈み込み、油断すれば泥に足を取られそうだ。だが《風裂の牙》は熟練の冒険者、動きには一切の無駄がない。
カイルは背負い袋から小さな鎌を取り出し、シュウに手渡す。
「根から抜くより、穂だけを切って持ち帰った方がいい。こういう希少な植物は環境が大事だからな」
シュウはうなずき、青銀色に輝く穂を一つ一つ丁寧に刈り取った。
光を受けて淡く光る穂は、手に取るとほんのりと温かく、そしてわずかに甘い香りを放っている。
「……これが古代麦か。確かに普通のレアト麦とは全然違う」
収穫は慎重に進み、束ねられた古代麦はわずか二十穂ほど。だが種としては十分だ。
湖を後にし、谷の出口へ向かう道すがら、誰も言葉を発しなかった。
雪を頂く北山脈の稜線が遠くに見え、その向こうに帰路のバリスタの町が待っている。
山を下りる頃には、夕暮れが谷を赤く染めていた。
フィンが最後に周囲を見回し、危険がないことを確認すると、ザクが一言だけ告げる。
「よし、帰るぞ」
その声に、皆が小さくうなずき、足を速めた。




