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32「頼み事と脱出」

会場の空気は一瞬だけ凍りついたが、審査員の権限という言葉が効いたのか、役人も過激派も足を止めた。

 無言の男は壇上に上がり、審査員証を高く掲げる。

 「この黒ヤミは、品評会の規約に則り正式に審査を通過した酒だ。本選の優勝酒に手を出せば、港町カランサの評議会全体を敵に回すことになる」


 役人たちは顔を見合わせ、小声で何やら相談を始めた。過激派の連中も一歩引く。

 ただ、その視線は依然としてシュウを刺すように追っていた。


 ネリィが小声で囁く。

 「シュウ、ここは一度港の外に出たほうがいい。奴ら、規約があるから会場じゃ手を出せないだけよ」

 カイルも頷く。

 「オレが馬車を回しておく。黒ヤミは俺の積荷として運ぶ」


 そんな中、無言の男がゆっくりとシュウに近づいてきた。

 低い声で、しかしはっきりとした口調で告げる。

 「……私はカランサ評議会の酒造部門顧問、レヴァン・グラウス。君の黒ヤミには、商業的価値がある。免許取得の斡旋もできるが——その代わりに一つ頼みを聞いてもらう」


 シュウは眉をひそめた。

 「頼み……?」

 レヴァンは微かに口角を上げ、群衆に聞こえないよう囁く。

 「北の山脈で発見された“古代麦”の調査に同行してほしい。あれは、この世界の酒造の常識を変えるかもしれない」


 その言葉に、シュウの胸はざわついた。

 免許と引き換えに、新たな原料探索の旅——しかし、北の山脈はアクル信教の拠点が点在する危険地帯でもある。

 遠くで過激派の視線がまだ自分を追っているのを感じながら、シュウは返答を飲み込んだ。 



 港町カランサの喧騒を背に、シュウたちはレヴァンの案内で港外れの古びた倉庫に身を潜めていた。

 窓の外では、アクル信教の過激派がまだ港の通りを行き来している。


 レヴァンは大きな羊皮紙を広げ、そこに北の山脈周辺の地図を描き込む。

 「古代麦は、この〈雲海の谷〉で発見された。今は封鎖されていて、許可証がなければ近づけない」

 カイルが腕を組み、地図を覗き込む。

 「つまり、あんたの許可証で俺たちをそこまで通すってわけだな」

 「そうだ。その代わり、そこで見つかった麦の権利の一部を評議会に譲渡してもらう」


 シュウは一瞬だけ逡巡したが、黒ヤミで免許を得るチャンスと新たな酒の原料探索を天秤にかけ、決意を固めた。

 「わかった。俺も行く。ただし、見つけた麦の一部は俺の好きに使わせてもらう」

 「交渉成立だ」


 その瞬間、倉庫の外から小さな石が転がり込んできた。

 パリン——と薄いガラスが割れる音がし、刺激臭の煙が立ち込める。

 カイルが即座に窓を閉め、レヴァンは扉に向けて短剣を構える。

 「来やがったか……!」


 外から響く怒号——アクル信教の過激派が倉庫を包囲していた。

 ネリィがシュウを振り返り、にやりと笑う。

 「いいじゃない、免許も古代麦も、まとめて奪い取ってやろうよ」


煙が倉庫いっぱいに広がり、目がしみる。

 カイルはすぐに樽の影に隠れ、短く息を吐く。

 「数は……十人以上だな。外から足音が四方を囲んでる」

 レヴァンが頷き、短剣を指先で回す。

 「正面突破は自殺行為だ。裏口から港の路地に抜けるぞ。ただし——時間稼ぎが必要だ」


 シュウはその言葉に反応し、腰の袋からヤミシラの粉末を取り出した。

 「これ、火花に反応して煙と匂いが強くなる。……使えるかも」

 ネリィは口元を吊り上げ、樽の栓を抜く。

 「じゃあ、煙と匂いで混乱させて、私とカイルが正面から暴れる。あんたとレヴァンは裏口から抜けるのよ」


 外では過激派の一人が扉を蹴破ろうとしている音が響く。

 「——来るぞ!」

 カラン、と金具が外れ、扉が弾け飛んだ瞬間、ネリィが樽を蹴り倒す。

 濃い黒煙とヤミシラの強烈な香りが一気に外へ広がり、咳き込みながら後退する過激派。

 その隙にカイルが木箱を蹴飛ばして二人ほど吹き飛ばし、レヴァンはシュウの腕を掴んだ。

 「今だ、走れ!」


 裏口から飛び出した二人は、狭い路地を抜けて港の石畳を駆け抜ける。

 後ろからは怒号と、鉄を叩くような音が響く。

 レヴァンが素早く角を曲がり、古びた漁船の影に身を潜めた。

 「ここから船で北の入り江まで行く。仲間はあとで合流する」


 港の沖合では、ネリィとカイルがまだ派手に暴れていた。樽や木箱が飛び、過激派が次々と海に落ちていく。

 シュウは思わず呟く。

 「……あの二人、戦闘向きすぎだろ」

 レヴァンは苦笑しつつ、漁船の舵を握った。

 「だからこそ、俺たちは生き延びられるんだ」

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