30「新酒品評会へ」
林の中は朝露で地面がぬかるみ、枝が顔や肩を叩いていく。
後ろからは金属鎧のぶつかる音と、過激派の荒い息遣いが迫ってくる。
「くそっ……体力の消耗が早ぇ……!」
シュウは右手に小石を握り、振り向きざまに投げつけた。カランと兜に当たり、一瞬追っ手の足が鈍る。
その隙に、林の奥の獣道へと身を滑り込ませる。地元の猟師しか知らないような細道だ。
ここを抜ければ、川沿いに出られる——!
しかし、背後で声が飛ぶ。
「二手に分かれろ! 出口を押さえろ!」
しまったと思った瞬間、前方の茂みが揺れ、別の過激派が飛び出してきた。
「藤原修平! 観念しろ!」
「……悪いな、観念って言葉は辞書から消した」
足元の泥をすくい上げ、そのまま相手の顔にぶちまける。男が目を覆った隙に、横をすり抜けるシュウ。
やがて視界が開け、朝日に光る川面が見えた。
川には小さな渡し舟が一艘。
「おーい! 渡してくれ!」
船頭の老人が眉をひそめるが、追手の姿を見るや、無言で櫂を漕ぎ出す。舟は川の流れに乗って岸から離れ、対岸へ向かっていく。
岸辺に取り残された過激派たちの怒号が、だんだんと遠ざかっていった——。
昼過ぎ。
港町の喧騒が遠くに響くその隣町——交易の中継地として知られる市場広場の一角。
カイルは荷馬車の横で腕を組み、通りを行き交う人々を眺めていた。
荷台の上には、例の樽が二つ。表面は果物で覆われ、甘い香りが漂っている。
まさか、この下に黒ヤミが眠ってるとは誰も思わねぇだろうな
市場の検問は無事に通過した。役人が樽の蓋を少し開け、果物を確認して鼻をひくつかせただけで済んだ。
「この季節にこんな熟れたのを運ぶとは豪勢だな」などと言われ、軽く笑ってやり過ごしたのだ。
とはいえ、気を抜くわけにはいかない。アクル信教の過激派は、公式な検問をすり抜けてくることだってある。
カイルは市場の向かいにある安宿を見やり、つぶやいた。
「さて……シュウ、ちゃんと抜けられたかね」
その時、通りの向こうから埃まみれの男が足早に近づいてくる。
肩で息をし、上着の裾に泥がこびりついている。
「カイル……!」
「おお、間に合ったか。派手にやらかした顔だな」
シュウは軽く苦笑し、樽を指差した。
「黒ヤミ、無事だな?」
「ああ。お前が囮になったおかげで、港町はすんなり通れた。……あとは売り先だ」
カイルの目が商人らしい光を帯びる。
「この町には腕の立つ酒場主が二人いる。どっちも新しい酒には目がない……が、先に飲ませるなら——」
言葉を切って、にやりと笑う。
「シュウ、お前の口で売り込んでみるか?」
港町カランサの隣町——交易で栄えるこの場所には、知る人ぞ知る酒場《金色の樽》がある。
店主のバルドは、来月開かれる“新酒品評会”の審査会委員を務める人物だ。
酒の目利きとして名高く、彼の一言があれば新しい酒は一気に評判を取るとまで言われている。
カイルは荷馬車を店の裏口に回し、静かに声をかけた。
「バルド、いるか?」
中から現れたのは、樽のような胴回りをした髭面の男。
「おう、カイルじゃねぇか。お前さんが直々に来るなんざ珍しい」
「今日は特別な酒を持ってきた。……こいつだ」
カイルが樽の蓋を開けると、上に敷き詰められた果物の下から、漆黒の液体をたたえた瓶が現れる。
「名前は“黒ヤミ”。麦はレアト麦、香りづけにヤミシラを使ってる。ちょっと苦みが強いが、肉や塩気のあるツマミと抜群に合う」
バルドは目を細め、手ずから瓶を取り上げると、注ぎ口からグラスに黒い液体を落とす。
カウンター越しに漂うのは、麦の芳ばしさとほのかなハーブの香り。
ひと口含んだ瞬間、バルドの表情が変わった。
「……ほぉ。香りは濃いのに、喉越しは意外と軽いな」
「で、どうだ?」とカイル。
バルドは無言で二口、三口と飲み、グラスを置いた。
「俺はそこで審査委員をやる。……この黒ヤミ、出してみねぇか?」
その言葉に、シュウは思わず身を乗り出した。
「出せば……酒造免許の足掛かりになるんですか?」
バルドはニヤリと笑い、樽をぽんと叩く。
「優勝とまでは言わんが、話題になりゃ免許取得の後押しになるさ。」
黒ヤミを受け取ったバルドは、樽を奥へ運びながら言った。
「幸い、品評会の出品登録はまだ締め切ってねぇ。お前らが今ここにいるなら、そのまま出品の手続きを済ませちまえ」
カイルとシュウは顔を見合わせる。
「……やるしかないな」
「せっかくここまで港町まで来たんだ、かまそうぜ!」
真剣な顔をしてるシュウの横でカイルははしゃいでいた。
バルドの案内で、三人は港の一角にある「酒造組合本部」へ向かった。
高い天井に木の梁が走り、壁には歴代優勝酒のラベルが額縁に収められている。
受付の女性が書類を差し出し、淡々と説明する。
「出品には製造者名、酒の種類、特徴……そして審査用の瓶が三本必要です」
「三本か……」とカイルが小声でつぶやく。
「大丈夫だ、樽の中にまだある」シュウは胸を張った。
記入を終えると、女性はにこやかに言った。
「では、来週の一次審査でお会いしましょう。もし通過したら、その翌日が本選です」
その帰り道、カランサの港ではすでに品評会の準備が始まっていた。
大きなテントが張られ、香辛料や果実を売る屋台、楽器を抱えた吟遊詩人の姿まである。
海風に混じって、どこからか甘い酒の香りが漂ってきた。
「……思ってたより、でけぇイベントだな」シュウが圧倒されて呟く。
「ここで勝てば、一気に名が知れる。だが——」カイルは港の外れに目をやる。
そこには、ローブ姿の二人組が、出品酒らしき樽を検分している姿があった。
アクル信教の過激派か、それとも魔造管理庁の役人か。わからないまま
黒ヤミは港町カランサ“新酒品評会”の舞台へと乗り込むことになった——。




