9話「決行」
今日出発する。少々荒業だが、これしか手はない。一発勝負。あいつらには同じ手は通用しない。あの時、君の事を抱きしめたのはなぜだか分からない。君も驚いてたろうし。君がそのまま固まって、どうしたの?って言った時、俺は何があっても君を守りたいと思った。照れくさいからここに書いておく。
行く前に、これを読み返したいからさ。どのみち、俺の最後になるから。
廃病院に戻った。君は寝返りをうったようで、寝床に異常はないようだ。自分の部屋に戻り、日記を書いた。しまった。日記が濡れてしまった。情けないや。俺の覚悟を信じてくれる君がいるってのにさ。
今更戻れやしない。今日、決行だ。
荷物をまとめていると、君が起きた。
「行くのね?」
「あぁ。……起こしてごめん」
「いいの。夜に出るの?」
「決めてない。今日、出る。それだけだ」
「……分かった」
俺は荷物をまとめるのをやめた。
「散歩しよう」
「散歩……?」
「夜に散歩するんだ!」
「外に出ちゃダメなんでしょ?」
「俺らは壁の外に出るんだ。ここの外に出るなんて、大した事じゃないだろ?」
君の顔が分かりやすく明るくなる。
「行く」
「よし。行こう。楽しいよ」
俺は手を差し出す。手を繋ぎ、閑静な『世界』を駆けた。この『世界』で、俺らは細やかな旅行をした。場所は、この『世界』。夜は新しい姿を君に見せた。
お金が余ったんだ。査定してもらってさ。ほんの少しだけど。そのお金を、俺のパーカーで包んで隠したんだ。ロビーの長椅子の下にね。君へのサプライズ。君がほとんど見た事ない色の、青い花束を買おうと思ってさ。結局、それも置いてきてしまった。花束を買いそびれたってのはそういう事だよ。
覚えてる?まあ、壁に話しても意味ないか。そろそろ魚にも飽きてきたし、君の作る料理を食べたいな。ごめん。話を続けるよ。
俺らは貯水槽にやって来た。君が気に入るかなって。ハップルが書いた地図に載ってたんだ。水が光を反射してゆらゆらと揺らめく。青い光は俺たちの顔に纏わりつく。君はその青さに心を躍らせている。
「綺麗......青」
「青だね」
「青」
「青」
俺らは笑い合う。その会話に意味なんかない。意味なんて、求めてない。この貯水槽の近くに浄水場がある。そこに隣接した工事現場が、出口だ。俺は貯水槽の縁に座る。君は俺の肩に頭を預け、この殺風景な楽園を眺めていた。
「プールみたいだね」
「ああ。ここよりプールの方が良かった?」
「公共施設でしょ。保安官がいるわ」
「それもそうか」
ぽつりぽつりと話してはそこでのんびりしていた。何故か俺は静かに泣いていた。
「花屋、どうなってるかな」
「もういいよ。別に。外に、花って咲いてるのかな?」
「どうだろ。もし咲いてたら花言葉、教えて欲しいな」
「それは朝食になったらね」
「そうだね」
「……泣いてるの?」
「え?ああ、何でかな。綺麗だからさ」
「君の涙も綺麗だよ。青くて」
「青かなぁ……」
「青だよ」
「青」
水の音がかすかに聞こえ、その音色が君の眠気を誘った。君は疲れてた。でも、幸せそうだ。俺の罪は、この幸せを奪ったから最低なんだ。
俺は君を抱き、廃病院に帰り、荷物を持った。伊達に屑売りはやってない。力には自信があるんだ。人生の大事な瞬間だからかもしれない。力が湧いてくる。君をおぶり、荷物と共にあの電柱に向かった。電柱が前より高く見える。不思議と疲れはない。
俺は登った。一つ、一つ、電柱の出っ張りを握り、重い体を上に引っ張る。力み、息が漏れる。君の寝息と混ざり、一定のリズムが生まれるようだ。塀はゆっくりと低くなる。俺は電柱を登り終えた。塀の裏側に行き、金網に足を掛け降りようとしたその時、電柱にメモが貼ってある事に気付いた。俺はメモに目をやる。
ここに来た者へ
これを見ているという事は君は外に出たいと思っているはずだ。
私はガリレオ。世界の全てを知り、世界の何も知らなかったただの犯罪者だ。
外は美しい。それは保証しよう。ただ、外に出ない彼らの事を、もう疲れてしまった私を、
忘れないでくれ。
迫る空に一撃を。
知らない者に平穏を。
知る者に永遠を。
もう戻らないお前に、ラベンダーを。
ガリレオ。あいつのメモか。あいつは、これを読ませる為に方法を自分で考えさせたのか?分からないが、これは俺に向けられたメッセージとして受け取って良さそうだ。ガリレオは忘れるのは簡単だと言った。俺は忘れないと言った。だから忘れないよ。あいつらの事も、ガリレオの事も、この『世界』も、保安官も、この電柱も、君も。ラベンダーの花言葉は、期待だ。これから外に出る俺に対するものとも取れる。だが、それともう一つある。
私に答えてください。
忘れないと言ったガリレオは誰かに忘れられたのか。忘れられても、自分は忘れないという心の表れ。ガリレオは完璧に見える。だが、このラベンダーはガリレオの弱さの象徴かもしれない。ラベンダーは『迷い』を表す言葉が多いから。天才というものは孤独な生き物なのだ。俺は、荷物からペンを取り出す。そのメモにメッセージを残す事にした。ただ、君の事もあるから短く書く事にしたよ。
ありがとう。忘れないよ。
俺は、ある意味欲望で突き進んでいる。美しさを求める獣なんだ。ガリレオはそれを見透かしていた。今ならガリレオが外を知っていた理由が何となく分かる気がする。ガリレオは、外から来たんだ。多分。世界の全てを知っているんだ。それはこの『世界』じゃない。外の世界なんだ。俺は金網を使って慎重に降りる。一息つき、歩みを進める。中は暗く、静まり返っている。俺は、恐れない。迫る空に一撃を加える為に、この足は動かなくてはならない。
目の前に、巨大なエスカレーターが現れた。これが、空に迫る為の装置。エスカレーターに乗ろうとする。エスカレーターの前に誰かいる。
ああ、終わりだ。エスカレーターの前には真黒の姿をした保安官が立っていた。
日記に書いたんだ。
君を死なせはしない。もし俺が死んでも、いつか美しい君に、いつか花束を贈りたい。あの時俺が涙を流したような綺麗な青色の花束を。
ってさ。だから、死んでも俺は君に花束を届けるよ。ほら、花屋はもうすぐで完成だ。花束は、無理かな。
君を死なせはしない。もし俺が死んでも、いつも美しい君に、いつか花束を贈りたい。あの時俺が涙を流したような綺麗な青色の花束を。




