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第9話 限界勇者の浄化

 フラフラになりながらも、虚ろな目で土に魔力を注ぎ続ける農業勇者。限界を超えたその身体は、今にも糸が切れた操り人形のように崩れ落ちそうだった。


「勇者様、ストップ!もうやめて!」


 ボンタは駆け寄ると、男の前に立ちはだかり、その肩をガシッと掴んだ。

 急な乱入者に驚いたのは、木陰で寝そべっていた獣人たちの方だった。彼らは慌てて立ち上がった。


「なんだい、そこの小僧。邪魔をしないでくれないか」

「俺たちは今、この素晴らしい勇者様に心からの感謝を伝えている最中なんだ。他所者はすっこんでな!」


 獣人たちは口々に文句を言いながら、ボンタの前に立ちはだかった。その目は、都合の良い働き手を失うまいとする打算と苛立ちに満ちている。

 彼らはボンタを一瞥し、鼻で笑った。この世界の人間が放つ特有の勇者のオーラが、ボンタからは微塵も感じられなかったからだ。


「なんだ、めずらしいな。ただの無能か。おい、痛い目を見ないうちにさっさと消えな。俺たちの『感謝』の時間を邪魔する気なら、容赦はしねえぞ」


 獣人たちはそう凄むと、力ずくで排除しようと武器を構えた。彼らにとって、能力を持たない丸腰の人間など、ただの小石にすぎない。


 しかし、彼らがボンタに刃を向けようとしたその瞬間だった。


「――我が主に気安く触れるな、下賤の者ども」


 静かだが、大気を震わせるような重低音が響き渡った。

 いつの間にかボンタの前に出ていた巨大な白い狼――伝説の聖獣ファルサーが、黄金色の瞳を細めて獣人たちを見下ろしていた。


「ひ、ヒィッ……!?」


 獣人たちの足が、完全に大地に縫い付けられたように止まった。

 ファルサーの白く美しい毛並みが、神々しい光を放ち始める。次の瞬間、ファルサーの口から『聖吼の裁定(カタストロフ・レイ)』が放たれた。

 本来ならば地形そのものを更地にするほどの出力を誇る神聖な魔力の咆哮だが、ファルサーは威力を極限までセーブし、純粋なプレッシャーとして叩きつけた。


 ズゴゴゴゴゴゴッ!!


 桁違いの威圧感が、物理的な重さとなって獣人たちにのしかかる。

 彼らの手に握られていた武器は恐怖で震え、次々と地面に滑り落とした。カラン、カチンと乾いた音が響く中、獣人たちはあまりの恐ろしさに完全に腰を抜かし、その場にへたり込んだ。先ほどまでの威勢の良さは完全に消え失せ、誰一人として声すら出せないまま一瞬で沈黙するのであった。


 +++


 獣人たちを意に介さず、ボンタの視線はただ一人、目の前で限界を迎えている農業勇者だけに注がれていた。


「勇者様、大丈夫ですか?こんなに手が冷たくなっちゃって……!」


 ボンタは、泥だらけになっている農業勇者の両手を、自分の両手でしっかりと握りしめた。

 その温かく柔らかな感触に、農業勇者はビクッと肩を震わせた。外の社会では真顔で首を傾げ合うことしかしない大人たちにとって、見ず知らずの他人に真っ直ぐ目を見つめられ、こんなにも優しく手を握られることなどあり得ないことだったからだ。


「あ……あ……?君、は……?」


 焦点の定まらない目でボンタを見つめ返す農業勇者。彼の心は、獣人たちの与える薄っぺらい言葉のせいで、果てしない砂漠のように乾ききっていた。もっと感謝をくれという承認欲求の亡霊に取り憑かれ、自我すら失いかけている。


 そんな限界の魂に向かって、世界で唯一の凡人は、涙を浮かべながら微笑みかけた。


「他種族の方々にこれだけ喜んでもらえる美味しい野菜を、身を削ってまで毎日作り続けてくれて……本当に、本当にありがとうございます!!」


 ドチュンッ!!


 ボンタの口から放たれた、最大火力の『無垢なる感謝ノー・プライド・サンクス』。

 それは、獣人たちが何百回、何千回と連呼したビジネス感謝など足元にも及ばない、純度百パーセントの「本物」の直撃だった。


 農業勇者の脳内で、何かが決定的に弾ける音がした。

 獣人たちがいくら大声で連発しても満たされなかった底なしの心の渇きが、ボンタのプライド消費ゼロの感謝大砲によって一瞬にして満ち溢れていく。

 枯渇していた脳細胞に、莫大な量の快楽物質――圧倒的な脳汁がダムの決壊のごとく押し寄せた。


「おほあああああァァァーーーッ!!本物ッ!これが本物の感謝ッッ!生きててよかったァァァーーー!!」


 農業勇者は、これまで出したこともないような凄まじい奇声を上げて天を仰いだ。

 獣人族から受けていた上っ面の言葉とは比較にならない、数万倍の濃度の至福。

 男の全身から、眩いばかりの光が立ち昇る。

 その光は、彼を縛り付けていた感謝依存症という呪いを完全に洗い流す浄化の光だった。男は歓喜の涙を滝のように流しながら、至福の絶頂へと達し、そのままガクンと膝を折って白目を剥いた。

 完全なる絶頂失神。

 泥だらけの畑の中に倒れ込んだ男の顔からは、先ほどまでの疲れ切った奴隷の顔や、承認欲求に狂った悲哀は完全に消え去っていた。そこにあるのは、憑き物が落ちたように穏やかで、自らの職能に対するプライドを取り戻した、本物の勇者の顔だった。魂の底まで完璧に浄化された証である。


 その光景を目の当たりにした獣人たちは、焦燥と絶望で顔を青ざめさせた。


「マ、マズい……洗脳が解けやがった……!」

「あんな本物の感謝を味わっちまったら、もう俺たちの安い言葉じゃ、ピクリとも動かなくなっちまう……!」


 彼らは、自分たちの都合の良い労働力を永遠に失ったことを悟った。

 薄っぺらいビジネス感謝による搾取のシステムは、たった一人の凡人が放つ無垢な言葉の前に、粉々に打ち砕かれたのである。


「まったく。これだから人間の勇者というやつは世話が焼ける」


 ファルサーが呆れたように鼻を鳴らす横で、ボンタはスヤスヤと安らかな寝息を立てる農業勇者の顔を見て、ホッと安堵の息を吐いた。


「よかった、勇者様。やっとゆっくり眠ってくれたみたい。これでまた、元気においしいお野菜が作れるね!」


 相変わらず自分の感謝が引き起こした惨状を、単なる癒やしの休息だと激しく勘違いしているボンタ。

 かくして、サクション村のいびつな光景は、世界で唯一の凡人によって、あまりにも規格外な形でぶち壊されたのだった。

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