第6話 家族の食卓
ガンツ村の夜は、静かに、そして奇妙な熱を孕んで更けていく。
昼間は一国を焦土に変えかねないほどの規格外な職能を振るい、外では一切の感情を殺した「真顔」で首を傾げ合っている大人たちも、ひとたび我が家の重い木扉を閉めれば、そこは世界で唯一の聖域へと様変わりするのだった。
ジョーウ・ジーン家のリビング。
つい先ほど、夕食の片付けを終えたばかりの室内で、十八歳になったばかりの少年、ジョーウ・ジーン・ボンタは、意を決して両親の前に向かい合って座った。
その素朴で親しみやすい顔立ちには、いつになく真剣な光が宿っている。
「父さん、母さん。僕、大切な話があるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、対面に座っていた父ヤマンと母メイが、いつになく真剣なボンタの声に目を見開いた。
「実はね、僕……明日、この村を出て、世界感謝行脚の旅に出ようと思うんだ」
ボンタの口から飛び出したあまりにも突飛な宣言に、両親の時間が一瞬だけ停止した。
旅に出る。それは、世界で唯一の「職業:凡人」であり、一切のスキルを持たない最愛の息子が、危険に満ちた外の世界へと一人で歩みを進めることを意味していた。
「外の世界はね、すごく広いんだって。でも、魔王討伐の最前線や過疎地では、たくさんの勇者様たちが無償で、ボロボロになりながら世界を支えてくれている。クレメンスも最前線で頑張っているし、何一つ能力を持たない平凡な僕をここまで育ててくれたこの世界に、どうしても恩返しがしたいんだ。もらいっぱなしじゃ申し訳ないから、僕の足で歩いて、たくさんの頑張っている人たちに直接『ありがとう』を届けたいんだよ」
ボンタは一点の邪心もない、あまりにもピュアな笑顔を両親に向けた。
そして、これまで自分を無償の愛で包み込んでくれた偉大な父と母の目を真っ直ぐに見つめ、胸の奥底から湧き上がる最大火力の感情を乗せて、その言葉を紡ぎ出した。
「父さん、母さん。僕を今までこんなに優しく、大切に育ててくれて……本当に、本当にありがとう!」
ドチュンッ!!
自らのプライドという消費コストが「ゼロ」であるボンタだからこそ放てる、純度百パーセントの特異点――『無垢なる感謝』が、至近距離から両親の脳天へと直撃した。
「おほあぁぁぁ……っ!?」
「ひぎぃぃぃぃ……っ!!」
ヤマンとメイの身体が、同時にビクンと大きく跳ね上がった。
大人の勇者たちが一生に一度、死の間際に口にするかどうかの超高純度な「本物の感謝」が、二人の脳髄の奥深くへと容赦なく流し込まれていく。脳内からはこれまでに経験したことのない規模の快楽物質――圧倒的な脳汁がダムの決壊のように噴き出した。
ヤマンは白目を剥き、あまりの至福にだらしない笑みを浮かべたままソファの後ろへとひっくり返った。メイは胸を強く押さえ、はあはあと荒い息を吐きながら床へと崩れ落ち、焦点の合わない目で宙を仰いで大号泣し始める。二人の魂は一瞬にして浄化され、完璧な至福の絶頂失神を迎えていた。
「父さん!?母さん!?やっぱり最近、働きすぎだよ!すぐに毛布を持ってくるからね!」
相変わらず自分の言葉が引き起こした大惨事に気づかないボンタは、慌てて二人に毛布をかけ、過労を心配しながら看病に追われるのだった。
一時間後、ようやく脳の狂乱から這い上がってきた両親は、まだ少し震える手足を押さえながらも、ボンタの旅立ちを快く――否、トランス状態のまま熱狂的に受け入れた。
「ボンタがそこまで言うなら、俺は止めないぞ……!おほっ、いや、応援する!」
「そうよ、ボンタ!外の世界の勇者たちに、その素晴らしい光を届けてやりなさい!」
すでに一生分の感謝をもらっていた両親は、ボンタの申し出を断る理由は無く、承諾するのであった。
+++
翌朝、ガンツ村の入り口にある広場は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
集まったのは、村長ガンツをはじめとする、村中の大人たち総勢数百名。彼らは全員、一糸乱れぬ「真顔」のまま、硬い表情でボンタの前に立ち並んでいた。
周囲から見れば、村の冷徹な大人たちが、能力を持たない凡人の少年を冷遇し、静かに追放しようとしているかのような、ひどくギスギスした光景に見えるだろう。
だが、その張り詰めた真顔の裏側にある彼らの本音は、全く違っていた。
(……やっとだ。やっと、あの歩く合法麻薬がこの村から出ていってくれる……!)
(神様お天道様神官様、ありがとうございます。今日から、今日からようやく、脳汁の出しすぎで白目を剥くことなく、普通のまともな生活に戻れるんですね……!)
村人たちの内心は、大歓喜の嵐が吹き荒れていた。ボンタの十八年間の純粋な「ありがとう」によって、重度の感謝ジャンキーにされ、インフラ機能すら麻痺しかけていた大人たちにとって、今日のこの日は「厄介払い」が成立する最高の記念日だったのだ。しかし、勇者としてのプライドがあるため、決して嬉しそうな顔を見せるわけにはいかない。必死に表情筋を固定し、冷ややかな真顔を保ち続けている。
ボンタはリュックを背負い、そんな村人たちの前に進み出た。
「みんな、今日は僕の出発のために、こんなにたくさん集まってくれて、あり……」
「それ以上は言うな! みんなそなたの気持ちはわかっておる」
村長のガンツがすかさずボンタの感謝の挨拶を制止した。
「は、はい。僕、この村に生まれて、みんなの優しいお仕事に支えられて、本当に幸せでした」
ボンタがペコリと深く頭を下げ、最後の挨拶を口にする。村人たちは、(よし、そのまま振り返らずに村の外へ一歩を踏み出すんだ……!)と、心の中で祈るようにその背中を見つめた。
しかし、村の境界線である木造の門を目の前にしたその瞬間、ボンタの足がピタリと止まった。
ボンタは急に不安そうな表情になり、オロオロと周囲を見回し始めたのだ。
「……あれ、僕、決意したのに。変だな。外の世界には僕の知らない、すごく怖い魔物がたくさんいるって聞いて……。僕には何のスキルもないし、戦うこともできない凡人だから、急に怖くなってきちゃった。みんなを救うなんて大それたことを言う前に、やっぱり、もう少しこの村で修行を積んで、大人としての経験を積んでから出発した方がいいのかな……」
ボンタが、出発を躊躇し始めた。
その言葉が広場に響き渡った瞬間、村人全員の心臓が恐怖で凍りついた。
大人たちの真顔が、一斉に怪しく引きつり始める。額からは滝のような冷や汗が流れ落ち、あまりの絶望感に目眩を起こしかける者まで現れた。
(嘘だろ……!?ここで残られたら、今度こそこの村は終わりだぞ!!)
(道の端で泡を吹いて倒れる生活が、またこれから何年も続くっていうのか!?勘弁してくれ、村が、俺たちの脳味噌が物理的に崩壊しちまう!!)
広場を支配したのは、悪魔の襲撃をも上回る、圧倒的な焦燥感と絶望の静寂だった。もしここでボンタが「やっぱり残ります!」と言い出せば、村の機能は完全に閾値を越えて破滅を迎える。
冷や汗で全身を濡らしながら、最前列に立つ村長ガンツは、限界を迎えた顔の筋肉をギリギリと震わせ、狂気的なまでの決意をその瞳に宿すのだった。




