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第5話 村長の苦悩

 村の中央に位置する、一際大きな木造建築。その奥にある村長室で、ガンツ村の長であるガンツは、机の上に山積みされた報告書を前に深く頭を抱えていた。

 ガンツはかつて、世界中を旅した凄腕の魔獣使い勇者であった。伝説の聖獣ファルサーと死闘を繰り広げ、己のスキル『万獣の覇道(ビースト・ドミナント)』で屈服させたほどの圧倒的な実力者である。白髪交じりの頭に歴戦の傷跡が刻まれたその厳めしい顔つきは、いかなる凶悪な魔獣を前にしても決して揺らぐことはなかった。

 しかし今、彼の顔には深い疲労と絶望が色濃く表れていた。


(……いやはや。今日もまた、第三農区の収穫がストップしている)


 ガンツは震える手で一枚の羊皮紙を手に取った。そこには、「農業勇者三名、ボンタの『ありがとう』を浴びて半日間の意識不明。よって本日の作業は中止」と書かれている。

 別の報告書をめくれば、「鍛冶勇者、ボンタに褒められたい一心で実用性のない巨大な鉄の雲梯うんていを乱造。鉄鉱石の在庫が枯渇」「建築勇者、ボンタの散歩道に無駄な屋根付き遊歩道を建設中。本来の橋の修繕は放置」といった、頭の痛くなるような事案ばかりが記されていた。


 開拓から三十年、この村は勇者たちの無償の善意と強力な職能によって、完璧なインフラを維持してきた。だが、ボンタが放つプライド消費コストゼロの百パーセント純粋な『無垢なる感謝ノー・プライド・サンクス』は、すでに大人たちの許容量を完全に超えていたのだ。


 この世界の勇者にとって、他者に感謝されたいという承認欲求は四大欲求の一つであり抑えられない。普段はプライドが邪魔をして真顔でしか微感謝を交わせない大人たちにとって、一切の嫌味なく純粋な感謝をぶつけてくるボンタは、歩く極上の麻薬のようなものだった。

 村の大人たちは全員がボンタの感謝ジャンキー(依存症)に陥っており、もはや毎日の仕事や生活が麻痺寸前の限界を迎えていた。


「このままでは……村が滅びてしまう」


 ガンツは呻くように呟いた。悪魔に襲撃されたわけでも、魔王軍が攻めてきたわけでもない。ただ一人の青年の、あまりにも純粋すぎる「ありがとう」によって、村の機能が完全に崩壊しようとしているのだ。

 村人たちは皆、ボンタから感謝の言葉を引き出すことだけを生きがいにしてしまい、本来の使命であるはずの生活基盤の維持を放棄し始めている。

 ガンツ自身も例外ではない。先日、ボンタから「村長、いつも村をまとめてくれてありがとう!」と笑顔で言われた際、目の前が真っ白になり、白目を剥いて失神してその後の記憶を無くしたばかりだった。


「ボンタは良い子だ。誰よりも心優しく、この村を愛してくれている。だが……ピュアすぎる。奴の光は、ワシたち勇者の脳には刺激が強すぎるんだ……!」


 どうすれば穏便に、この問題を解決できるか。ガンツがギリギリと胃を痛めながら解決策を練っていた、まさにその時だった。


 コンコン、と控えめなノックの音が村長室に響いた。


「村長、ボンタです。入ってもいいですか?」


 噂をすれば何とやら。ガンツはビクッと肩を震わせた後、慌てて咳払いをして姿勢を正した。顔の筋肉を強引に引き締め、勇者としての威厳を保った「真顔」を作り上げる。


「あ、ああ。構わん、入りなさい」


 扉が開き、柔らかい笑顔を浮かべたボンタが部屋に入ってきた。その手には、道端で摘んできたであろう小さな花飾りが握られている。


「村長、いつも難しいお仕事、本当にお疲れ様です。これ、村のみんなが平和に暮らせるように頑張ってくれている村長に、感謝の気持ちです!」


 ボンタが無邪気な笑顔と共に花飾りを差し出した瞬間、ガンツの脳内に強烈な快感が雷のように直撃した。


「お、おおぉぉぉぉ……っ」


 ガンツは危うく椅子から転げ落ちそうになったが、机の端を両手で力一杯握りしめ、ギリギリのところで自我を保った。額からは滝のように冷や汗が流れ落ち、呼吸が不自然に荒くなる。


「そ、そうか……。わざわざ、すまないな……(危ねえ!今完全に脳味噌が溶けかかったぞ!これ以上浴びたら、俺も道端で痙攣している連中の仲間入りだ!)」


 ガンツが必死に深呼吸を繰り返していると、ボンタは真剣な眼差しになり、真っ直ぐにガンツの目を見つめた。


「村長、今日は大切なお話があって来ました。僕、決めたんです」

「決めた……? 何をだ?」

「能力を持たない平凡な僕だけど、これまでたくさんの勇者たちの善意に支えられて生きてきました。もらいっぱなしじゃ申し訳ないから、恩返しがしたいんです」


 ボンタは外での惨状――大人たちが自分へ無償で施してくれて絶頂して倒れている光景――を、「みんなが平凡な僕でも温かく迎えてくれている」というハッピーな解釈に変換し、心からの使命感をみなぎらせていた。


「だから僕、世界中の頑張っている勇者様に、直接『ありがとう』を届けに世界感謝行脚(あんぎゃ)の旅に出るよ!」


 その宣言が部屋に響き渡った瞬間。

 ガンツの時間がピタリと止まった。


(……え?)


 ボンタの言葉を脳内で反芻する。

 旅に出る。

 つまり、この村から出ていく。

 しかも、自発的に。


(キ、キタァァァーーー!!!自主的に出ていってくれる最高のチャンス!!!)


 ガンツの内心で、万雷の拍手と歓声が巻き起こった。大歓喜の祝砲が上がり、心のなかで小さな自分たち全員が肩を組んで踊り狂っている。

 まさか、一番頭を悩ませていた問題が、向こうから勝手に解決策を持ってやってくるとは。これ以上の奇跡はない。


 しかし、ここで歓喜の表情を表に出してはならない。万が一にもボンタが「僕って邪魔者だったのですね」などと言い出したら、気分を損ねて旅を中止しかねない。それこそ村は完全に終わるのだ。


 ガンツは全身の筋肉を総動員して、震える頬を引き締めた。限界を迎えた「真顔」を作り上げ、まるで愛弟子を送り出すかのような厳粛なトーンで口を開く。


「そうか……。とうとう、お前も外の世界へ羽ばたく時が来たのだな」

「はい!僕の感謝が、少しでも外で戦う勇者たちの癒やしになればと思って」


(癒やしどころか劇薬だがな! 頼む、そのままの勢いで今すぐ村から出て行ってくれ!)


 ガンツは立ち上がり、ゆっくりとボンタに近づくと、その肩に重々しく手を置いた。


「よく言った、ボンタ……! お前のその大いなる感謝は、もっと外の、世界中で心が擦り切れている勇者たちのために使うべきだ」

「村長……!」


 ボンタの瞳が、感動でキラキラと潤み始めた。自分の突拍子もない提案を、尊敬する村長が真顔で、しかもこんなにも真剣に背中を押してくれている。

 その事実に胸を打たれたボンタは、胸の奥底から込み上げる最大火力の感情を乗せて、至近距離から言葉を放った。


「僕の気持ちを分かってくれるんだね!村長、僕の決意を肯定してくれて本当にありがとう!」


「おほあああーーーっ!!」


 至近距離からの爆裂感謝。

 限界まで耐えていたガンツの精神の堤防が、轟音を立てて決壊した。

 ガンツは凄まじい奇声を上げながら白目を剥き、そのまま後ろへ勢いよくのけぞって絶頂失神してしまった。


 ドサァッ!という鈍い音を立てて床に倒れ伏し、口から泡を吹きながらガクガクと痙攣を始める村長。


「そ、村長!? またお仕事のしすぎで倒れちゃったの!? 誰か、誰か来てー!」


 自らの感謝が引き起こした惨状に全く気づいていないボンタは、慌てふためきながら村長室を飛び出していく。

 床で痙攣しながらも、ガンツの口元には、村の平和を確信した安堵の笑みが微かに浮かんでいたのだった。

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