第38話 大司教の改心
静寂と、だらしない至福の寝息だけが満ちる大礼拝堂。
祭壇の上で、白目を剥いて激しく痙攣していた教会の最高権威、『大司教勇者』ソウルンダーチョは、ゆっくりと意識を取り戻した。
重い瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、汚れなき素朴な笑顔を浮かべて自分を覗き込む少年、ボンタの顔だった。
「気がついた?大司教様」
「あ……、あぁ……」
ソウルンダーチョは、カサカサの唇を震わせた。脳髄の芯まで染み渡った、あの超高濃度の『無垢なる感謝』の余韻が、今なお彼の魂を優しく包み込んでいる。
彼はヨロヨロと上半身を起こすと、豪華な法衣の袖で目元を拭った。そこからは、いままで誰も流すことのなかった、本物の歓喜と救済の涙が止めどなく溢れていた。
「私は……20年前に先代の大司教からこの座を引き継ぎ、教会のトップになった。それ以来、この『理想郷』という名のシステムを維持するため、一日たりとも真顔の重圧を崩したことはなかった。誰よりも完璧に感謝を配り、誰よりも完璧に真顔を保たねばならぬと、己の心を殺し続けてきたのだ……」
ソウルンダーチョは自らの震える手を見つめ、声を詰まらせた。
「だが、そんなものはただの偽りの理想郷だった。張り詰めたプライドの檻の中で、私は飢えていたのだ。たった一言の、見返りを求めぬ純粋な『ありがとう』に……!」
大司教は祭壇に膝をつき、ボンタの前に深く頭を垂れた。
「ジョーウ・ジーン・ボンタよ。私が築き、守ってきた冷たい理想郷よりも……君がくれたような、温かい感謝があふれる世界のほうが、ずっと素晴らしい。私の負けだ。いや、私は救われたのだ。どうか、私に指示をくれ。この間違った世界を正すために、私がすべきことを」
その言葉に、背後で見守っていたクレメンスとパンピーナは驚きを隠せなかったが、ボンタはただ優しく微笑んだ。
「僕からの指示なんてないよ。ただ……みんなが無理をしないで、本当の笑顔になれる世界に戻そう。あの綺麗な水晶を全部壊して、昔の『純氷』での儀式に戻してほしいんだ」
「……分かった。このソウルンダーチョ、命に代えてもその願いを遂行しよう」
重圧から解放された大司教の顔には、もはや醜い自己暗示の兆候はなく、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
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ソウルンダーチョの案内により、一行は大聖堂の最奥にある『天啓の間』へと足を踏み入れた。そこには、王国全土、果ては世界の隅々にあるすべての教会へと同時に音声を届けることができる巨大な『通信魔道具』が設置されていた。
大司教は魔道具の前に立ち、深く息を吸い込むと、全人類に向けて語りかけ始めた。
「全世界の勇者たちよ、聞きなさい。我が名はソウルンダーチョ。教会の最高権威として、ここに重大な告白と、新たな通達を行う」
彼の声は、あらゆる街の広場、すべての村の教会に設置された魔道具を通じて、世界中へと響き渡った。
ソウルンダーチョは、百年前から教会がひた隠しにしてきた「水晶の呪い」の真実を、包み隠さずすべて打ち明けた。自分たちが神の恩寵だと信じ込んでいた勇者の力と、他者からの感謝に飢える異常な承認欲求が、たった一人の宝石職人の善意の暴走と教会の隠蔽工作によって生じたバグであったことを。
「我々は間違っていた。感謝とは強要するものではなく、プライドを削り合って奪い合うものでもない。人が人を思い、自然と湧き上がる感情。それこそが真実の感謝であり、理想とする感謝じゃ。よって、ここに命ずる! 全国の教会にある儀式用の水晶をすべて破壊し、古来の『純氷』による職業啓示へと戻しなさい! そして、もしも勇者であることをやめ、普通の人間として生きたいと願う者がいるならば、純氷による再啓示を認め、あらゆる職能の呪縛から解放するのだ!」
その厳かな通達が世界を駆け巡った瞬間、大聖堂の片隅で、パンピーナの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
十歳の儀式で「凡人」として啓示され、村の大人たちの承認欲求を満たすためだけに冷たい部屋に幽閉され、人間不信になっていた孤独な少女。彼女は自分の腕を抱きしめ、世界が「普通」へと巻き戻っていくであろう様を実感していた。
「……よかった。本当によかった……」
パンピーナは涙を拭い、フードを大きく後ろへ跳ね上げた。その顔には、これまで旅の中で見せていた警戒心や鋭いツッコミ役としての険しさはなく、長年の心の呪縛から完全に解き放たれた、年相応の、どこまでも無邪気で優しい「普通の女の子」としての笑顔が咲き誇っていた。
「これで、誰も私を特別な目でみない。普通が当たり前の、優しい世界になるんだね……。ありがとう、ボンタ」
彼女の心からの感謝の言葉に、ボンタは嬉しそうに何度も頷いた。
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それから数週間の時が流れた。
世界中の教会で水晶が破壊され、希望する多くの限界勇者たちが純氷による再啓示を受け、能力を持たない「普通の人間」へと戻っていった。
そんな新しい世界の風が吹く中、ボンタ、クレメンス、パンピーナ、そして聖獣ファルサーの一行は、すべての始まりの場所である故郷、ガンツ村へとついに帰ってきた。
村の入り口が見えると、前方から凄まじい勢いで走ってくる一人の初老の男の姿があった。この村を治める村長、ガンツである。
「おおお!ボンタ!クレメンス!よくぞ無事で帰ってきたな!」
村長ガンツは、涙目で両手を広げ、大感激した様子で一行を出迎えた。
「寂しかったぞ!お前たちが旅立ってからというもの、この村の活気が消え失せたようで、ワシの心はまるで不毛の地のようになっておったわ!」
そのあまりにも調子の良い大歓迎っぷりに、一行の先頭を歩いていた白銀の聖獣が、黄金色の瞳をジロリと向けた。
「ふん。ボンタを、厄介払いだと言わんばかりに伝説の聖獣をおまけにつけて体よく追い出しておいて、よく言うわ!」
ファルサーの容赦のない、そして極めて的確なツッコミが炸裂した。
「ぶふぉっ!?」
村長ガンツは図星を突かれ、盛大に変な声を上げて硬直した。世界を救った英雄(?)として、まさかこれほど逞しく、そして仲間や幼馴染を従えて戻ってくるとは夢にも思っていなかった村長の脳裏に、凄まじい誤算の冷や汗が流れ落ちるのだった。




