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第30話 幼馴染との再会

「ダメだ、ファルサー!」

 ボンタは弾かれたように飛び出すと、魔力を練り上げていたファルサーの鼻先に両手を広げて立ち塞がった。


「どけ、主。あやつはもはや狂った化け物だ」

「化け物なんかじゃない! あの子は……クレメンスは、僕の大切な幼馴染だ!」


 ボンタはファルサーの制止を振り切り、土煙が舞う広場の中央へと歩き出した。

「ちょっとボンタ! 殺されるわよ!」

 パンピーナの悲痛な叫びも、今の彼には届かない。


 ゆっくりと近づいてくる丸腰の青年の足音に、クレメンスが虚ろな目を向けた。

 極度の感謝飢餓と錯乱状態にある彼女の脳は、目の前にいるのが最愛の幼馴染であることすら認識できていなかった。


「お前も……私に感謝しろ……! 私を、認めろ……!」


 クレメンスは血走った目でボンタを睨みつけ、刃こぼれだらけの大剣を彼の首元に突きつけた。

 ギリッと刃が肌に触れ、一筋の赤い血が滲む。それでもボンタは、一歩も引かなかった。怯えるどころか、彼はその場に立ち尽くし、クレメンスの姿をじっと見つめていた。


 かつて美しかった白銀の鎧には、魔物たちの鋭い爪痕や、どす黒い瘴気を浴びて焼け焦げた生々しい傷跡が無数に刻まれていた。柄を握る彼女の手はマメが潰れて血が滲み、過酷な激戦の連続で限界を超えていることは誰の目にも明らかだった。


(こんなになるまで……一人で戦ってくれてたんだ)


 ボンタの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 恐怖からではない。彼女がどれほどの地獄をたった一人で耐え抜き、この世界を守るために身を削ってきたのかを悟った、痛切なまでの敬意と悲しみの涙だった。


「……なんで、泣いている……。私を……感謝しろと言っているんだ……っ!」

 混乱するクレメンスに対し、ボンタは首元の刃を両手でそっと包み込むように握りしめた。


「ごめんね、クレメンス。僕たちがこうしてのんびりと旅をして、平和に笑い合っていられるのも……君が最前線で、こんなに傷だらけになって戦ってくれたからなんだね」

 ボンタの声は、どこまでも優しく、そして震えていた。

「一人で辛い思いをさせて、こんなになるまで気づけなくて……本当にごめんなさい」


 その声の響きに、クレメンスの双眸が見開かれた。

 錯乱していた彼女の脳裏に、かつての遠い記憶が雷のようにフラッシュバックする。


 ――茜色に染まった、ガンツ村の広場。

 手頃な木の枝を剣に見立てて、無邪気に笑い合っていたあの日の夕暮れ。

『いくぞ、魔王軍!前線は任せろ!』と無邪気に笑う少年の背中に向かって、彼女は誇らしく宣言したのだ。

『えぇ、そしてアタチがあなたの背後を守りますわ』と。


(ああ……そうか)

 時間が止まったかのような感覚の中で、クレメンスの心に静かな光が差し込んだ。

 私は、世界中から称賛されたかったわけじゃない。

 全人類からのパッシブな脳汁なんて、本当はどうでもよかったんだ。

 ただ、あの日誓った通り、この世界で一番大好きな、ただ一人の凡人の笑顔を守りたかった。そして彼から、「ありがとう」と笑いかけてほしかっただけなのだ。


 記憶の奔流が駆け巡る中、ボンタは満面の涙顔で笑い、胸の奥底から湧き上がる最大火力の感情を乗せて、その言葉を放った。


「クレメンス、僕たちの世界を守ってくれて……本当に、本当にありがとう……!!」


 ピキィィィン…ッ!!


 ボンタの口から、プライド消費コストゼロの純度百パーセント、『無垢なる感謝ノー・プライド・サンクス』が放たれた。

 それは、恐怖に駆られた街の大人たちが口にする薄っぺらい命乞いなどとは次元が違う。魂の最も深い部分を直接貫く、究極の高濃度な感謝の波動であった。


「……ッ!!」


 クレメンスの身体が、雷に打たれたように激しく跳ね上がった。

 最前線で誰からも感謝されず、枯渇し、干からびてひび割れていた彼女の魂に、システムの上限を遥かに突破した極上の快楽物質(脳汁)がダムの決壊のごとく押し寄せる。


「これだ……」

 大剣が手からズルリと滑り落ち、石畳に甲高い音を立てて転がった。

 彼女の虚ろだった瞳に、かつての気高い光が戻り、そして歓喜の涙が滝のように溢れ出した。


「これだ……っ! 私が欲しかったのは……これだったんだァァァーーーッ!!」


 クレメンスは凄まじい奇声を上げて天を仰いだ。

 たった一人の幼馴染からもらった本物の感謝が、彼女を蝕んでいた承認欲求ゾンビの呪いを完全に浄化していく。

「生きてて……よかったぁぁぁーーーっ!!」

 彼女はだらしない至福の笑顔を浮かべたまま、その場にドサリと崩れ落ちた。そして白目を剥き、ビクンビクンと激しく痙攣しながら、完全なる至福の絶頂失神を迎えたのである。


 嵐が過ぎ去ったかのように、ヒメランの街の中央広場に静寂が訪れた。

 至福の絶頂で気絶し、スヤスヤと安らかな寝息を立て始めたクレメンスの顔からは、先ほどまでの狂気は完全に消え去っていた。そこにあるのは、憑き物が落ちたような、無防備で美しい少女の寝顔だった。


 ボンタがその場にしゃがみ込み、彼女の泥だらけの頬を優しくハンカチで拭っていると、遠巻きに逃げていた街の大人たちが、恐る恐る広場へと戻ってきた。

 彼らは、倒れているクレメンスを囲むように立ち止まり、その白銀の鎧をまじまじと見つめた。


「おい……見ろよ。あの鎧の焼け焦げた痕……あれは、高位の魔族が放つ特有の瘴気だぞ」

「こんな辺境の街じゃ絶対にお目にかかれない傷だ……。じゃあ、彼女がさっき叫んでいた言葉は……」

「ああ。彼女は本当に、最前線の地獄で……俺たちの見えないところで、世界を守り抜いてくれたんだ……!」


 街の勇者たちは息を呑んだ。

 彼らは悟ったのだ。自分たちが日々インフラを回して平和に生きていられるのは、彼女のような存在が泥に塗れて戦ってくれたおかげなのだと。

 彼らの中で、彼女に対する深い敬意と恩義が溢れ出した。

 しかし、彼らは大人の勇者である。言葉にして心から感謝を述べることは、敗北宣言になってしまう。


 だからこそ、彼らは一斉に姿勢を正し、限界まで顔の筋肉を引き攣らせた冷ややかな「真顔」を作り上げた。

 そして、倒れているクレメンスに向かって、全員が深く、かつ高速で首を横に傾けた。


 ビュンッ、ビュンッ、ビュンッ!


 街中の大人たちが、真顔で首を高速振動させる、最大限の微感謝の嵐。

 それは彼らなりの、世界を救った不器用な剣聖への、最大級の賛辞と敬意の表現であった。


「みんな、みんな、クレメンスのこと歓迎してくれてるよ」

 相変わらずこの世界のシュールなシステムをハッピーに勘違いしているボンタが、無邪気に笑う。

 呆れたように鼻を鳴らすファルサーの横で、ボンタは眠る幼馴染の手を強く握りしめた。


「おかえり、クレメンス」


 ようやく出会えた大切な幼馴染。彼女の心の傷を癒やすための、新たな凸凹な旅がここから始まろうとしていた。

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