第29話 暴走する剣聖
旅を続けるボンタ、パンピーナ、そして伝説の聖獣ファルサーの一行が、次なる目的地である「ヒメラン」の街に足を踏み入れた時のことである。
活気に満ちているはずの巨大な石造りの街は、異様な土煙と絶望的な悲鳴に包まれていた。
綺麗に舗装されていたはずの街道は無残にひび割れ、建物の石壁がいくつも崩れ落ちている。逃げ惑う人々の波を掻き分けながら、一行が街の中央広場へと駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。
広場の中心に、一人の女剣士が立っていた。
彼女が纏う白銀の鎧は泥と乾いた血で汚れ、本来の気高い輝きを完全に失っている。長く伸びた銀色の長髪は乱れ、ボロボロに刃こぼれした大剣を引きずりながら、彼女は亡者のように虚ろな目で周囲を睨みつけていた。
「私を……感謝しろ……!」
血を吐くような悲痛な叫び声が、広場に響き渡る。
彼女が渾身の力で大剣を振り上げる。ただそれだけで空間が軋み、凄まじい剣圧が巻き起こった。絶界覇剣の余波が広場の屋台を木っ端微塵に吹き飛ばし、石畳を大きくめくり上げる。
「ひぃぃっ!」
街の大人たちは、彼女の圧倒的な武力の前に為す術もなく、地面に這いつくばって恐怖に顔を引き攣らせていた。
この世界において、大人の勇者同士が言葉にして他者に感謝を述べることは、己の敗北と劣等性を認める最大の屈辱である。だが、一歩間違えれば命を奪われかねない絶望的な状況下で、彼らは勇者としてのプライドを投げ打ち、なりふり構わず言葉を紡いだ。
「あ、ありがとう! 君がいてくれて助かってる! だから頼む、もう剣を収めてくれ!」
「素晴らしい剣技だ! 俺たちは心から感謝しているぞ!」
震える声で並べ立てられた、命乞いと同義の感謝の言葉。
しかし、その言葉を浴びた女剣士の顔は、満たされるどころか、さらに深く、絶望に歪んだ。
「違う……! 違う、違う違うっ! そんな上っ面の言葉なんかじゃない……!」
彼女の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
魔王討伐の最前線という地獄で、彼女はただ一つの平和な世界を守るために、泥に塗れて戦い抜いてきた。だが、システム上の貢献とみなされず、誰からも感謝されることはなかった。
極限の感謝飢餓状態に陥り、心が完全に壊れてしまった彼女の脳は、恐怖から絞り出された薄っぺらい「ありがとう」では一滴の脳汁も分泌されない。彼女の魂は果てしない砂漠のように乾ききっており、本物の、心からの承認を求めて泣き叫んでいた。
脳裏に微かに浮かぶのは、遠い昔に交わした、ある一つの約束。
誰かに背中を預け、誰かを守ると誓った、温かい記憶の残滓。
だが、今の彼女にはそれが誰との約束だったのか、何を求めていたのかすら、狂気と渇望の濁流に飲み込まれて分からなくなっていた。
「私は世界を守っているんだ! もっと、心から私に感謝しろォォォッ!!」
狂乱した彼女が再び大剣を振り下ろす。放たれた真空の刃が、広場にそびえ立つ時計塔を真っ二つに両断した。轟音と共に崩れ落ちる瓦礫に、人々の悲痛な悲鳴が重なる。
その凄惨な光景を広場の入り口で目の当たりにしたパンピーナは、顔面を蒼白にして一歩後ずさった。
「な、なんなのよあれ……。あんなデタラメな強さ、ただの勇者じゃないわ。それに、あの異常な執着……」
「末期の承認欲求ゾンビだ」
ファルサーが黄金色の瞳を細め、冷ややかに告げた。
「過酷な環境で心が完全に壊れ、感謝という名の麻薬を無理やり強奪しても自我を保てない哀れな亡者。もはや狂気に飲まれて、自分が本当に求めているものが何なのかすら分かっておらんのだろう」
ファルサーの言葉通り、女剣士はただひたすらに剣を振り回し、圧倒的な暴力で街を破壊することで無理やり人々の注目を集め、感謝を強要していた。その姿は、狂気に満ちていると同時に、あまりにも孤独で、痛々しかった。
だが、ボンタの目は、破壊された街並みでも、彼女の放つ恐ろしい剣気でもなく、ただその泥だらけの横顔に釘付けになっていた。
ボロボロの鎧。乱れた銀髪。そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔立ちの面影。
「……嘘だろ」
ボンタの口から、震える声が漏れた。
能力を持たない世界唯一の凡人である彼にとって、あの背中は誰よりも大きく、頼もしく、そして優しいものだったはずだ。
「クレメンス……?」
その名前を口にした瞬間、ボンタの胸が締め付けられるように痛んだ。
村を出る日、「大人になったら、私が絶対にボンタを守るから!」と泣きながら誓ってくれた、最愛の幼馴染。
誰よりも誇り高く、誰よりも優しかった彼女が、なぜあんなボロボロの姿で、人々に剣を向けて泣いているのか。
「おい、主。知っているのか」
ファルサーが怪訝そうに尋ねるが、ボンタは答えない。ただ呆然と、広場で泣き叫びながら暴れるクレメンスを見つめていた。
「私を、認めてよ……っ! 私は、頑張ったのに……っ!」
クレメンスは地面に膝をつき、大剣を杖のようにして体を支えながら、子供のように泣きじゃくった。
その痛ましい姿を見たファルサーは、忌々しげに舌打ちをした。
「……重傷で手遅れだな。あのままでは、己の渇きに耐えきれず、いずれ周囲を巻き込んで自滅するだけだ」
ファルサーの白く美しい毛並みが、神々しい光を帯び始める。
「高貴なる我の慈悲だ。聖吼の裁定で、塵も残さず楽に逝かせてやろう」
大気を震わせる膨大な魔力が、ファルサーの口元に収束していく。白銀の狼がその裁きの光を解き放とうと大きく息を吸い込んだ。




