第23話 欲望渦巻く野営地
王国の王都から遠く離れた、空が常に澱んだ紫色に染まる最果ての地。
魔王討伐の最前線となる巨大な野営地に到着したクレメンスは、そこで息を呑むような光景を目の当たりにしていた。
彼女が想像していた「最前線」とは、強大な魔物たちから世界を守るため、誇り高き騎士たちが悲壮な決意を胸に肩を寄せ合い、死線を越える準備をしている崇高な場所のはずだった。
しかし、目の前に広がる野営地を支配していたのは、純粋な正義の戦いなどではなく、どす黒い欲望が渦巻く狂気の空間であった。
「おい! 俺の武器にふれるんじゃねぇ! 今回は絶対に俺がトドメを刺すんだ!」
「ふざけるな、前回の魔将戦で出遅れた分、今回は俺が一番槍で突っ込むに決まってるだろうが!」
野営地にひしめき合っていたのは、国から派遣された正規の騎士だけではない。世界中から集まった無数の勇者たちが、互いを牽制し合い、血走った目でギラギラと獲物を狙う野獣のように殺気立っていた。
彼らの目的は一つ。魔王に「トドメを刺す」ことである。
この世界において、魔王を討伐したという事実は、全人類の脳内に神託として直接響き渡る。その瞬間、トドメを刺した者や前線で活躍し貢献した勇者には、全人類数十億人からの莫大な「感謝のパッシブ効果」が還元されるのだ。
それは、大人の勇者同士が真顔で交わし合う微感謝などとは次元が違う。一度浴びれば、一生遊んで暮らせるほどの圧倒的な至福――脳汁の津波である。
彼らは、その極上の快楽を独り占めし、「感謝長者(億万長者)」になろうとする、一獲千金狙いのギャンブラー・エリート勇者たちだった。
「次こそは……ハァ、ハァ……次こそは俺が魔王にトドメを刺して、絶頂してやる……!」
長年の戦闘でアドレナリンを分泌しすぎ、完全に「ガンギマリ」の目をした悲しきストライカー勇者たち。彼らは剣を砥石にこすりつけながら、虚ろな笑みを浮かべてブツブツと独り言を呟いている。
純粋にボンタのいる平和な村を守りたいという一心で過酷な訓練を耐え抜いてきた新人のクレメンスは、そのあまりにも異様で狂気じみた姿に完全に圧倒され、激しい戸惑いと嫌悪感を覚えていた。
(何なの、この人たちは……。世界を、みんなを守るために戦うんじゃないの……?)
誰も背中など預け合わない。隣にいるのは戦友ではなく、トドメという名の手柄を奪い合う商敵にすぎない。
これが、勇者たちが到達した果て、承認欲求が極限まで肥大化した地獄の最前線であった。
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数日後。ついに十年に一度現れるとされる魔王、デビグロンガーが誕生した。
大地が割れ、巨大な瘴気の渦と共に現れた魔王デビグロンガーは、山のように巨大な体躯と漆黒の角を持ち、見る者を絶望させるほどの強大な魔力を放っていた。
本来ならば、人類の存亡をかけた壮絶な死闘が繰り広げられるはずの場面である。
「うおおおおおっ!魔王が出たぞォォォッ!!」
「退けぇっ!俺が、俺がトドメを刺すんだァァァッ!!」
魔王が完全に姿を現すや否や、野営地から数万人の勇者たちが、まるで飢えた蝗の大群のように地鳴りを上げて突撃を開始した。
恐怖など微塵もない。彼らの脳内を支配しているのは、「魔王を倒せば全人類から莫大な感謝がもらえる」という、システムに刷り込まれた強烈な報酬への渇望だけである。
「ま、待て!貴様ら、話を聞け!!」
あまりの勢いと狂気を孕んだ勇者たちの波に、巨大な魔王デビグロンガーは思わず後ずさりし、悲痛な声を張り上げた。
「我々はただ辺境で静かに暮らしていただけだ! 人間たちの領域を侵した覚えはない! なぜお前たちは、そこまで狂ったように襲ってくるのだ!?」
魔王の口から放たれたのは、あまりにも哀れで、そして圧倒的な正論であった。
実際の所、ほとんどの魔族たちは温厚であり、ごくまれに悪意のある魔王が生まれる。その時だけ討伐すればいいものの、人間が勝手に「魔王を倒せば感謝される」というマッチポンプのギミックを維持するために、毎回彼らを人類の敵として仕立て上げられているに過ぎなかったのだ。
しかし、至福の脳汁に完全に飢えきった勇者たちの耳に、魔王の切実な命乞いなど届くはずもなかった。
「うるせえ!理屈はどうでもいい、俺にトドメを刺させろ!!」
「邪魔だどけ!俺の『聖絶の爆炎』でまとめて焼き尽くしてやる!」
「ふざけるな、俺の『神魔一閃』が先だ!」
数万人のエリート勇者たちが、我先にと最高火力の規格外スキルを魔王に向かって乱れ撃つ。
魔王自身は確かに強大な力を持っていた。しかし、感謝という名の麻薬に狂わされ、常軌を逸した欲望で押し寄せる数万の「承認欲求の奴隷」たちによる物理的な物量作戦の前では、いかなる魔法障壁も無意味だった。
「ぎゃあああああっ!? やめろ、やめてくれェェェッ!」
産まれたての魔王デビグロンガーは悲鳴を上げながら、あっという間に勇者たちの群れに飲み込まれ、理不尽なまでにタコ殴りにされていく。魔王が反撃の呪文を詠唱する暇すら与えられず、四方八方から容赦のない暴力が降り注いだ。
その阿鼻叫喚の狂乱の波の最後尾で、新人のクレメンスは呆然と立ち尽くしていた。
彼女は白銀の大剣を引き抜き、前に出ようと何度も足を踏み出した。だが、血走った目で前のめりに突っ込んでいく数万の勇者たちの凄まじい熱量と、狂気じみた活躍の奪い合いに完全に気圧され、どうしても波に入っていくことができなかったのだ。
「どけ新入り! ボヤボヤしてると踏み潰すぞ!」
後ろから来た巨漢の勇者に肩を突き飛ばされ、クレメンスは泥濘に足を取られて倒れ込んだ。
顔を上げると、すでに魔王の巨体は勇者たちの放つ光のスキルの海に沈み、断末魔の叫びすら上げられなくなっていた。
「あ……」
クレメンスは、泥だらけになった自分の手と、一度も振るわれることのなかった白銀の剣を見つめた。
激しい緊張と不安を抱えながら、愛するボンタを守るために最前線へ来たというのに。
結局、彼女は後方で剣を振るう機会すらほとんど得られないまま、狂乱する他の勇者たちの手によって、あっけなく魔王は討伐されてしまったのである。
(こんなの……私の守りたかった世界じゃない。私が命を懸ける戦いじゃない……)
純粋な信念が、欲望の濁流に無惨に飲み込まれた瞬間だった。
そしてこの無力感が、やがて彼女の精神を歪め、取り返しのつかない悲劇へと導くトリガーとなっていくのであった。




