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第20話 透明なパン屋

 森での出会いを経て、新たな凡人の仲間パンピーナを加えた一行は、新たな街である「パルタ」に到着した。

 門をくぐった途端、香ばしい小麦とバターの焼ける匂いが鼻をくすぐり、食欲を強く刺激してくる。


「わあ、すっごくいい匂い! この街には美味しいパン屋さんがあるみたいだね!」

 ボンタが目を輝かせると、パンピーナも「本当、いい匂い。お腹空いてきちゃったわね」と口元を綻ばせた。


 だが、街の中心部へ進むにつれて、奇妙な光景が目に入ってきた。

 石畳の広場の一角。信じられないほど美味しい匂いが漂っているにもかかわらず、街の住人たちが全員、ぽっかりと空いた「とある空間」を避けて歩いているのだ。まるでそこに、見えない障害物があるかのように、誰一人としてその空間に視線を向けようともしない。


「……ちょっと、なんなのあれ。みんな、なんであそこだけ避けてるのよ?」

 パンピーナが訝しげに目を細めると、巨大な白狼ファルサーが黄金色の瞳でその空間を射抜き、鼻を鳴らした。


「なるほどな。複数の勇者どもが、無意識のうちに結界魔法を重ね掛けしているらしい。『存在隠蔽(ミュート・ブロック)』……対象を誰からも見えず、声も届かない透明な存在にする陰湿な結界だ」


 ファルサーの言う通り、その透明な結界の内側には、一軒の立派なパン屋が存在していた。

 しかし、外からは全く見えず、どれだけ大声で叫んでも外を歩く人々の耳には届かない。

 店内では、うらぶれた様子のベーカリー勇者が、焼き上がったばかりのパンを前にして、虚ろな目で床に座り込んでいた。


 彼はかつて、街で一番人気のある腕利きのパン職人だった。だが、たった一度の「寝坊」が彼の運命を狂わせたのだ。

(……俺はただ、街の子供たちを喜ばせたくて、徹夜で新作の甘いパンを開発していただけなのに……!)


 その新作作りに没頭するあまり、翌朝の開店時間に遅れてしまった。ただそれだけのことだった。

 しかし、この承認欲求に狂ったギスギスした勇者社会において、完璧なインフラ(無償の善意)を時間通りに提供し続けることこそが勇者の強烈なプライドである。

「いつもの時間に美味しいパンがない」という事実が、無意識のうちに住人たちのプライドを損ね、期待を裏切る形となってしまったのだ。

 結果として、失望した他の勇者たちから無意識のうちに少しずつ結界魔法をかけられてしまった。


 多くの勇者のささやかな魔法が重なり合った結果、強固な『存在隠蔽』の結界が完成し、しまいには誰からも見えず、声も届かない透明な存在にされてしまったのである。

「誰か……俺のパンを食べてくれ……」

 誰にも認識されず、勇者としての承認欲求を満たすこともできない孤独の中、パン職人の心は完全に折れかけていた。


「よし、ちょっと見てくるよ!」

「あ、ちょっとボンタ!結界があるって言ってるじゃない!魔力で弾き飛ばされるわよ!」


 パンピーナの制止も聞かず、ボンタは無邪気にその「何もない空間」へと歩みを進めた。

 ポンッ、という軽い音を立てて、ボンタの体が空間に吸い込まれる。

 魔法のシステムなど知る由もないボンタは、魔力を一切持たない「職業:凡人」である。そのため、勇者の結界が全く効かず、普通にすり抜けて店に入ってしまったのだ。


 カランコロン、とドアベルの音が店内に響く。

「えっ……?」

 誰も来るはずのない店内で、ベーカリー勇者が弾かれたように顔を上げた。そこには、素朴な笑顔を浮かべた青年が立っていた。


「わあ、すっごく美味しそうなパンがいっぱい! これ、いただきますね」

 ボンタは返事も待たずに、籠に盛られていた新作の甘いパンを手に取り、モグモグと頬張った。


「……っ!?」


 ベーカリー勇者は目を見開いた。自分の存在を認識し、あまつさえ自分のパンを食べている人間がいる。

 ボンタはパッと顔を輝かせ、ベーカリー勇者の目の前まで歩み寄ると、最大火力の感謝を直撃させた。


「美味しい! こんなおいしいパンは食べたことない! いつも美味しいパンをありがとう!」


 ギュバァァァンッ!!


 プライド消費コストゼロの純度百パーセント、『無垢なる感謝ノー・プライド・サンクス』が、孤独で干からびていたベーカリー勇者の脳髄を貫いた。


「おほあああァァァーーーッ!?」


 ベーカリー勇者の体がビクンと大きく跳ね上がる。極限まで乾ききっていた心に、ダムが決壊したような莫大な至福が流れ込み、正気に戻っていく。

「ほ、本物の感謝ッ!俺のパンが、届いたァァァーーーッ!! パンパカパーーン!!」

 彼は歓喜の涙を滝のように流し、白目を剥いて奇声を上げながら、その場に卒倒して痙攣し始めた。


 その一部始終を結界の外(開いたドアの隙間)から見ていたパンピーナは、あまりの光景に顔を引き攣らせた。

「……えっ、嘘でしょ? 『ありがとう』って言われただけで、あんな屈強そうな勇者が白目剥いて痙攣してるんだけど!? なによあれ、まるで精神破壊兵器じゃない!!」

 ボンタの規格外の感謝の威力を初めて客観的に目の当たりにしたパンピーナが、ドン引きしながら震え声でツッコミを入れる。


 そこへ、ファルサーが悠然と結界の中に足を踏み入れてきた。高貴な聖獣もまた、人間の結界など意に介さない。

 ファルサーは並んだパンを一つ咥え、咀嚼して鼻を鳴らした。

「ほう、なかなかに悪くない味だ。厚揚げ好きの我の舌を唸らせるとは、大した腕だ」

 そう言うと、ファルサーはおもむろに自分の背負い袋から極上の『厚揚げ』を取り出し、パンの間にドスッと挟み込んだ。

「だが、これなら完璧だ。名付けて『厚揚げサンド』。サクサクの小麦と、大豆の旨味の奇跡の融合だな」

「ファルサー、それパンのサクサク感とお豆腐の水分で、すごく不思議なことになってない!?」


 パンピーナのツッコミが響く中、ボンタは倒れているベーカリー勇者を見下ろし、ウンウンと頷いていた。

「勇者様、美味しいパンを作りすぎて疲れちゃったんだね。でも、こんなにおいしいパンをみんな無視するなんてもったいないや!」


 純粋な善意とハッピーな勘違いに満ちた凡人が、なにやら行動に移すようだ。

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