運営は止められない
深層に電話はない。
手紙もない。メールもない。LINEもない。
あるのは土と水と、頭上を旋回するドローンだけだ。
だからドローンの画面に文字が浮かんだとき、俺はしばらくの間、それが「通信」であることを理解できなかった。
久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。
深層DASH村は今日も回っている。濾過層が、ぽた、ぽた。蒸留装置が、ぽた。水路が細く光って流れている。干し根が乾き、発酵壺が温かい。貯蔵穴の下に未来が眠っている。
ムクは土塁の外に座っている。低い呼吸。重い呼吸。安定した音。
俺は朝起きて、まず水を確かめた。
「水が先」
声に出すと、腹の底の恐怖が黙る。
次に畑。根菜区画。葉物区画。実験区画。
光る根を一本抜く。断面が淡く光る。甘い匂い。回復(微)。解毒(微)。
胸が少しだけ軽くなる。
この軽さに慣れてきた自分が少し怖い。深層の恩恵に慣れるのは、深層に馴染むことだ。馴染むというのは、地上から遠くなることだ。
遠くなっているのか。
分からない。分からないことは後回しにする。
干し根を土塁の外へ一本置く。蒸留水を少し。
ムクは鼻先を動かし、匂いを確かめ、食った。尻尾の毛が僅かに揺れた。
日課だ。日課があると暮らしが回る。暮らしが回ると人間は壊れにくい。
コメントが流れている。
いつもなら見ない。見れば手順が崩れる。
だが今日は、コメントの量がおかしかった。
流れが速い。速すぎる。
文字が読めないほどの速度で、画面の端を流れていく。
読まなくても、刺さる単語だけ分かる。荒れている。
「停止しろ」
「配信続けるな」
「運営何やってんだ」
「止めたら殺すのと同じだろ」
「止めるな」
「止めろ」
止めろと止めるなが同時に流れている。
人間は、いつも同時に反対のことを言う。それを民主主義と呼ぶ。
民主主義は、たいてい騒がしい。
俺は手順を止めない。
止めたら土が負ける。土が負けたら俺が負ける。
俺は畑の土を起こし、堆肥の温度を確かめ、発酵壺の蓋を開けて匂いを嗅いだ。
酸い。だが腐ってはいない。
腐っていないものは未来に届く。
――そのとき、ドローンが低く降りてきた。
いつもの「顔を映す」降り方ではない。
俺の目の前で静止し、レンズが正面を向いた。
そしてレンズの横に、小さなランプが点いた。
赤ではない。青だ。
配信のランプは赤だ。赤は「映している」。
青は見たことがない。
次の瞬間、視界の隅に文字が浮かんだ。
通信:受信
通信。
通信とは、誰かが俺に向けて何かを送ったということだ。
配信は一方通行だ。俺が映り、外が見る。
通信は双方向だ。外が、こちらに何かを伝えようとしている。
文字が表示された。
配信プラットフォーム運営より通達
運営。
運営というのは、この配信を管理している側の人間だ。
管理している側が、管理されている側に通達を送る。
通達というのは、だいたい嫌な知らせだ。退去通知。契約解除。サービス終了。
嫌な知らせばかり届く世界は、地上も深層も変わらない。
俺は手を止めた。
止めるべきではないが、止めた。
文字を読むには、手が止まる。手が止まると恐怖が喋り出す。
恐怖は「止まるぞ」と言っている。配信が止まるぞ。回線が切れるぞ。お前はまた闇の中で一人になるぞ。
恐怖は提案だけして責任を取らない。高木玄真と同じだ。
文字は短かった。
本配信は、運営の監視対象として保護措置の適用を決定しました。
回線の維持および補強を行います。
配信者の安全確保を最優先とします。
本措置に関するお問い合わせには応じかねます。
配信は維持します。
短い。
短いが、全部入っている。
「配信は維持します」
この一文が、全てだ。
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
見つめても消えない。消えないということは、本物だということだ。
本物の通達は消えない。嘘の約束は消える。高木玄真の「俺が背負う」は消えた。「配信は維持します」は消えていない。
配信が止まらない。
回線が切れない。
俺の映像は流れ続ける。
それが何を意味するか、俺には分かる。
配信が続くなら、俺の生活は証拠であり続ける。
証拠が消えないなら、嘘は崩れ続ける。
崩れ続ける嘘は、最後に持ち主を殺す。
だが、俺はそれを望んでいるわけではない。
俺が望んでいるのは、畑を続けることだ。
畑を続けるには、生きていなければならない。
生きるには、水が必要で、土が必要で、手順が必要だ。
手順を回すには――回線が必要だ。
回線があるから、視聴者がいる。視聴者がいるから、世界が見ている。世界が見ているから、俺を消すのが難しくなる。
消すのが難しい。
それは防衛だ。
土塁よりも、粘土よりも、ムクの圧よりも確実な防衛だ。
「見られている」ことは、深層で最も頑丈な壁になる。
俺は文字を読み終え、土に手を当てた。
温かい。堆肥の熱が効いている。
温かいものは、今日も味方だ。
嬉しいのか。
嬉しいのか、と自分に訊いた。
分からなかった。
嬉しいというのは、誰かに見せたいときに感じる感情だ。
ここには誰もいない。ムクはいるが、ムクに「嬉しい」は通じない。通じたとしても尻尾が揺れるだけだ。
だが、通達を読んだとき、手のひらが少しだけ震えた。
震えたのは寒さではない。恐怖でもない。
安堵だ。
安堵は、失うかもしれなかったものが残ったときに来る。
失うかもしれなかったのは配信ではない。回線でもない。
「見られている」ということだ。
見られていることが嬉しいと思う自分を、俺は知らなかった。
セイバーズにいた頃、俺は透明人間だった。
荷物を持て。足場を作れ。邪魔。
三種類の言葉が、俺への全ての通信だった。
それ以外は、見られていなかった。
見られていないことに慣れていた。慣れているから平気だと思っていた。
平気じゃなかった。
その事実が、手のひらの震えで分かった。
深層に来て、土を触って、水を落として、畑を作って、配信が始まって、コメントが流れて、「生きてる?」と訊かれて、「生きてる」と答えて。
その一連の出来事が、俺の中の何かを動かした。
動いたものが何かは分からない。分からないものは後回しにする。
だが手のひらは震えていた。
震えたまま、土を触る。
土は震えない。土は温かい。温かいものに手を当てていると、震えは止まる。
感傷だ。
感傷は土に混ぜる。混ぜて堆肥にする。堆肥は畑を肥やす。
感情の最も生産的な処理方法は、堆肥にすることだ。
俺は立ち上がり、手順に戻った。
畑を起こす。水を確かめる。干し根を裏返す。発酵壺の温度を測る。
手順が回ると恐怖が黙る。安堵も黙る。感傷も黙る。
全部黙ると、世界が静かになる。
静かな世界で、俺は土を触る。
それだけで十分だ。
コメントの流れが少しだけ落ち着いた。
「運営きた」
「保護措置だと」
「止まらないのか」
「止まらないなら安心」
「運営が守ったってことか」
「いや守ったっていうか、止めたら殺人幇助になるからだろ」
「結果的に守ってるならいいだろ」
守ったのか、守らざるを得なかったのか。
どちらでもいい。結果が同じなら、動機は後回しだ。
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同じ頃。配信プラットフォーム運営、危機対応室。
篠宮玲奈は送信完了の画面を見ていた。
「通達、届きました」
スタッフが言った。
「反応は」
「ありません。無言です」
「そうでしょうね」
玲奈は画面を切り替えた。左に深層の配信映像。右に数値のダッシュボード。
「中継、噛ませました」
スタッフが言った。
「止められない状態に?」
「はい。“保護”に入れました。維持が義務になります」
玲奈は頷いた。
「セイバーズ側から、配信停止の正式要請が来ています」
「却下してください」
「根拠は」
「保護措置の適用対象です。停止は配信者の安全を損なう可能性があります。運営の判断として、維持します」
スタッフが頷いた。
「もう一件。法務から」
「犬飼が動いた?」
「はい。早いです」
玲奈は少しだけ目を細めた。犬飼慧。法務部。あの人が動くということは、契約の刃が研がれ始めたということだ。
「ログは全て残していますか」
「配信映像、コメント、掲示板、弁明配信、声明の時刻、全て保全済みです」
「良いです。対応は手順です」
玲奈は左の画面を見た。
泥の男が土を起こしている。顔は見えない。手が見える。傷が見える。癖が見える。
点は嘘をつかない。
「あの人は手順で生きています」
玲奈は小さく言った。誰に聞かせるでもなく。
「手順で生きている人を、手順で守るのが運営の仕事です」
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【探索者掲示板】深層で畑やってる配信 Part.8
402:名無しの探索者
運営から保護措置の通達出た
407:名無しの探索者
配信止まらないのか
411:名無しの探索者
止めたら「運営が見殺しにした」になるもんな
415:名無しの探索者
セイバーズの停止要請蹴ったらしい
421:名無しの探索者
蹴ったの草
428:望月◆LOG/0v
整理する。
・配信は維持(運営が保護措置)
・セイバーズの停止要請は却下
・弁明配信の矛盾は拡散中
・「戦死」が嘘だった可能性がほぼ確定
で、次に来るのは何だ。
435:名無しの探索者
スポンサーが逃げる
441:名無しの探索者
もう逃げ始めてるぞ
448:名無しの探索者
逃げるのはえーよ
453:望月◆LOG/0v
スポンサーは逃げる。それは当然。
問題は、追い詰められた英雄が何をするか。
配信止められない。弁明燃えた。嘘バレた。
逃げ道がない人間は、だいたい二つのことをする。
土下座か、口封じ。
459:名無しの探索者
口封じ……
463:名無しの探索者
深層にいる人間をどうやって口封じするんだよ
467:望月◆LOG/0v
送り込む。
470:名無しの探索者
は?
473:名無しの探索者
いやいやいや
477:望月◆LOG/0v
可能性の話。
だが追い詰められた人間は可能性で動く。
ログは残す。
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深層。
俺は知らない。
地上で何が蹴られたか。誰が逃げているか。誰が追い詰められているか。
知っているのは手順だけだ。
水が落ちている。
芽が増えている。
干し根が乾いている。
発酵壺が温かい。
貯蔵穴に未来がある。
ムクが外周で闇を見ている。
配信は維持されている。
視界の隅で、通達の文字はもう消えていた。
だが消えても、残っている。
「配信は維持します」の一文は、俺の中に残っている。
手のひらの震えは止まった。
止まったが、震えた事実は消えない。
俺は見られていることが嬉しかったのだ。
嬉しかったという事実を、土に混ぜた。
混ぜたものは堆肥になる。堆肥は畑を肥やす。
感情は循環する。循環するなら、無駄ではない。
ムクが、ふっと鼻先を上げた。
匂いが変わったのだ。
深層の匂いじゃない。
金属。油。汗。人間。
まだ遠い。
だが遠い匂いは、いつか近くなる。
ムクの毛が僅かに逆立った。
尻尾が止まった。呼吸が一段だけ重くなった。
警戒だ。
俺は骨の鍬を握り直した。
戦うためじゃない。手順を崩さないためだ。
「……静かに」
自分に言う。ムクにも言う。
騒ぐと枯れる。花も、人も。
ムクが低く息を吐いた。
了解、という呼吸に聞こえた。
俺は畑の土に手を当てた。
温かい。
温かいものは今日も味方だ。
「……まあ、やる」
久遠洋、享年なし。
戦死扱い。ただし配信は保護された。
運営が守った。守ったのか、守らざるを得なかったのか。どちらでもいい。結果が同じなら、動機は後回しだ。
だが匂いが変わった。ムクが警戒している。
遠い匂いが、少しだけ近づいた。
面倒が、また来る。
次の客は、善意か。悪意か。
どちらにしても、俺の手順は変わらない。




