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10/18

凍結


人生には、静かすぎて逆に怖い瞬間がある。


台風の目の中にいるとき。

試験の答案が返却される直前の、あの教室。

そして――自分を殺したことにした連中の帝国が、音もなく崩れ始める朝だ。


---


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。職業、農業者。


深層DASH村の朝は、いつも四つの音で始まる。

濾過層が、ぽた。

蒸留装置が、ぽた。

ムクの鼻息が、ふす。

ドローンの羽音が、ジィ。


この四拍子が乱れない限り、世界は正常である。少なくとも、俺の世界は。


地上に「正常」が残っているかどうかは知らない。知る必要もない。水が先。畑が先。干し根の天地を返すのが先。感情は、堆肥に混ぜた。昨日も今日も明日も、手順が俺の骨格であり、恐怖を黙らせる唯一の処方箋である。


ムクが土塁の外で背中を丸めている。


巨大な四足獣が、深層の薄闇に溶けかけた姿勢で、鼻先だけを微かに動かしている。匂いを読んでいるのだ。俺が干し根を一本、土塁の外に置くと、ムクはゆっくりと首を伸ばし、匂いを嗅ぎ、三秒かけて口に含む。咀嚼は静かだ。犬のように音を立てない。猫のように急がない。ただ、噛む。飲む。鼻息が一つ、ふす、と漏れる。


これが外交である。


武器を持たない農学者が、言葉を話さない神獣と結んだ、根と沈黙の不可侵条約。


今日も条約は履行された。よろしい。


---


ドローンが低く旋回し、畑の全景を映している。


発酵壺の蓋を開けると、甘い酸味が立ち昇る。根の発酵は順調で、三日前に仕込んだ分は表面に白い膜が張り、匂いが丸くなっている。腐敗ではない。熟成だ。この違いを鼻で判別できるようになった時点で、俺の嗅覚は深層仕様に最適化されたと言ってよい。


乾燥棚の根を裏返す。

水路の流量を確認する。

貯蔵穴の温度を手のひらで測る。


すべて正常。

すべて手順通り。

すべて、昨日と同じ。


画面の隅に、数字が浮かんでいる。


視聴者:9,847。


――昨日は四千だった。


俺は数字を見て、一瞬だけ手を止めた。干し根を持った右手が、空中で静止した。九千。四桁の後半。明日には五桁に届くかもしれない。一万人が、この暗い穴の底で土を弄る男を見ている。あるいは見ようとしている。


なぜ?


分からない。分かる必要もない。


「……関係ない。水が先」


干し根を裏返す作業に戻った。ムクが耳だけをこちらに向けたが、すぐに戻した。正しい判断だ。数字は土を肥やさない。


---


コメントが流れている。


『今日も畑回してる』

『安定感がすごい』

『もう見るのが日課になってきた』

『セイバーズの公式、昨日から更新止まってない?』

『あっ ほんとだ 止まってる』


俺はコメントを読まない。読む暇があるなら水路の石を直す。だが、ドローンは律儀にすべてを映している。コメントも、畑も、俺の手の甲の傷も、ムクの尻尾の角度も。


古代の技術者は、よほど几帳面な性格だったのだろう。あるいは、よほどの寂しがりだったか。どちらにせよ、このドローンは止まらない。俺が止めない限り。そして俺は、止める理由を持たない。


---


高木玄真の朝は、通知音で始まった。


午前六時十二分。端末が震えた回数は、過去二十四時間で三百を超えていた。高木はベッドの上で端末を掴み、画面を見た。見て、一秒だけ目を閉じた。


「……由良」


隣室にいた三門由良が、ノックもなく入ってきた。眼鏡の奥の目が、いつもより二ミリほど細い。


「見ました。スポンサー四社から同時に連絡が来ています」


「内容は」


「要約すると、『説明を求める』です。四社とも同じ文面。法務経由」


高木は端末を枕元に置いた。ゆっくりと起き上がり、洗面台に向かい、顔を洗った。鏡に映る自分の顔を三秒見つめ、タオルで拭いた。


それから、声を変えた。


配信用の、あの声だ。深く、穏やかで、わずかに湿った声。百万人を安心させ、千万人を感動させた声。その声で、高木は言った。


「大丈夫だ。誤解だよ。俺から話す」


由良は答えなかった。答えない由良を、高木は見なかった。


---


午前八時。セイバーズ本部、会議室。


テーブルの上にノートパソコンが四台、端末が六台、紙の資料が一部もない。高木玄真が上座に座り、三門由良がその右に、実務担当の八雲慎吾が左に座っている。


壁面のモニターに、数字が並んでいる。


配信同時接続:12,400(深層DASH村・現在)

セイバーズ公式チャンネル登録者:9,870,000(前日比 -23,000)

スポンサー契約残存:8社中4社が「保留」通知

SNSトレンド1位:「#戦死扱い」


由良が数字を読み上げた。声は平坦だったが、いつもの「数字は味方」という確信が、語尾から消えていた。


「……視聴率は」


由良はそこで止めた。

口を閉じた。


高木が由良を見た。由良は画面を見ていた。画面には、暗い穴の底で干し根を裏返す男が映っていた。


「由良」


「……数字が、足りません」


「何が足りない」


「こちら側の数字が。足りません」


八雲慎吾が腕を組んだまま、低い声で言った。


「足りないんじゃない。向こうの数字が本物すぎるんだ。畑は嘘をつかない。俺たちの数字は――演出だった」


会議室が静まった。


高木玄真は、三秒間、沈黙した。それから口を開いた。声はまだ配信用の声だった。


「弁明配信を出す。俺が直接話す。誤解を解けばいい。久遠は生きている、それは喜ばしいことだと。俺たちも捜索を続けていたと。感動の再会を演出すれば――」


「高木さん」


八雲が遮った。遮ったのは、この男が初めてだった。


「捜索隊、出してないですよね」


沈黙。


「追悼配信のあと、追悼グッズを三種出しましたよね。売上は……由良さん」


「……四千二百万」


「四千二百万の追悼グッズを売った後に、『実は捜索してました』は通らない。ログが全部残ってる。運営が保全してる」


高木の目が、一瞬だけ変わった。


配信用の、穏やかな目ではなかった。暗く、冷たく、奥の見えない目だった。八雲は知っていた。この目を。現場で何度も見てきた。人前では絶対に出さない、指示を出すときの目だ。


「慎吾」


声が変わった。配信用ではない声。低く、短く、命令の声。


「消せるものを消せ。由良、配信スケジュールを全部止めろ。弁明は俺がやる。台本を三十分で作れ」


八雲慎吾は、黙って立ち上がり、会議室を出た。


廊下で、端末を取り出した。画面に映ったのは、暗い穴の底で水路の石を直す男だった。視聴者数が、五桁に変わっていた。

朝の作業の間に、数字がまた増えていた。


八雲は画面を閉じた。閉じて、壁に背をつけ、天井を見た。


「……遅いんだよ。全部」


---


午前十時。配信プラットフォーム運営本部。


篠宮玲奈は、モニターの前に座っていた。


端末が鳴った。セイバーズ法務部からの正式文書。


「配信ID:DL-0117(通称:深層DASH村)の即時停止を要請します。理由:当該配信に映り込む人物の肖像権侵害の疑い、および当社所属探索者の名誉毀損に該当する可能性のあるコメントの放置」


篠宮は文書を読み、日時を確認し、配信ログを開いた。


それから、犬飼慧を呼んだ。


犬飼慧は条文を返す。速い。感情がない。


「犬飼さん。セイバーズから停止要請が来ました」


「読みました」


「見解は」


「肖像権の主張には本人の申請が必要です。配信者はID-DL-0117の登録者、つまり久遠洋本人です。第三者による肖像権侵害の主張は、本人の委任状がない限り受理できません」


「名誉毀損は」


「コメントは利用者の責任範囲です。プラットフォームは削除要請に対し審査を行いますが、事実摘示に基づくコメントは削除対象外です。『戦死扱いなのに生きている』は、現時点では事実と見なせます」


篠宮は頷いた。


「では、停止要請は却下。理由は規約第12条3項、配信者本人の意思に基づく配信の保護。記録してください」


「記録しました」


「それから」


篠宮はモニターを見た。画面の中で、男が水路の石を直していた。視聴者数は10,243。


「セイバーズとの契約状況を確認してください。スポンサー枠、広告配置、チャンネル優遇措置、すべて」


犬飼の指が端末の上を走った。数秒後、顔色が変わらないまま、声だけが微かに硬くなった。


「……優遇措置の根拠となるパートナー契約第7条3項に、『重大な信用毀損行為があった場合、プラットフォームは契約の一時停止または解除を行うことができる』とあります」


「該当しますか」


「所属メンバーの死亡を虚偽報告し、追悼コンテンツで収益を得ていた場合、信用毀損に該当します」


「証拠は」


「配信ログ、追悼配信のアーカイブ、グッズ販売履歴、すべて保全済みです」


篠宮は、一度だけ目を閉じた。

それから、開いた。


「凍結してください」


犬飼慧は頷き、端末に四行を入力した。


---


通知:パートナー契約一時停止のお知らせ


宛先:セイバーズ運営事務局

対象:チャンネルID-SV-001(セイバーズ公式)

措置:パートナー契約第7条3項に基づく一時停止

理由:信用毀損行為の疑い(調査中)

発効:即時

広告収益:停止

チャンネル優遇表示:停止

スポンサー枠:凍結


---


犬飼は送信ボタンを押した。


音はしなかった。


通知は電子メールで届き、届いた瞬間に、セイバーズ公式チャンネルのトップページから優遇バナーが消えた。広告枠が灰色に変わった。おすすめ欄から名前が落ちた。


それだけだった。


爆発はなかった。叫びもなかった。ただ、数字が一つ、変わった。


帝国は、メール一通で止まる。


---


午前十時三十分。セイバーズ本部。


高木玄真の端末に通知が届いた。


由良が先に読んだ。読んで、眼鏡を外した。眼鏡を外した由良を、高木は初めて見た。


「……凍結、されました」


「何が」


「全部です。広告、優遇、スポンサー枠。パートナー契約が一時停止」


高木は立ち上がった。椅子が倒れた。倒れた椅子を起こさなかった。


「理由は」


「信用毀損。調査中、と」


「調査中? 何を調査する。俺たちは――」


高木は言いかけて、止めた。


止めたのは、由良の顔を見たからだ。由良の目が、初めて数字ではないものを見ていた。画面の中の、畑を耕す男を見ていた。


「由良。数字を出せ。対策の数字を」


「……出せません」


「出せない?」


「数字が、こちら側にありません。あの配信が一回更新されるたびに、こちらの数字が削れます。こちらが声明を出せば出すほど、あちらの視聴者が増えます。数字で勝てる構造ではありません」


高木玄真は、窓の外を見た。晴れていた。空は青く、街は動いていた。地上は正常に見えた。


だが、地上の正常は、地下の真実の上に載っている。


そして真実は、今、畑を耕している。


---


午後一時。


スポンサー八社のうち、三社が正式に契約解除を通知した。


一社目は、声明すら出さなかった。公式サイトからセイバーズのロゴが消えただけだった。


二社目は、広報担当の槙野亜里沙が一言だけ言った。


「降ります」


会議室を出るとき、亜里沙は振り返らなかった。


三社目は、法務部が書面で通知した。書面には数字が並んでいたが、要約すると「リスクが利益を超えた」とだけ書いてあった。


残る五社は「保留」のまま沈黙した。保留とは、逃げる準備が整っていないだけの状態を指す。


---


午後三時。掲示板。


384:名無しの探索者

セイバーズの公式ページ見てみ バナー消えてる


387:名無しの探索者

マジだ 広告枠ぜんぶグレーになってる


391:名無しの探索者

スポンサーのロゴも消えてない? 昨日まで右上にあったやつ


395:望月◆LOG/0v

確認しました。パートナー契約の一時停止が発効しています。

根拠は利用規約パートナー条項第7条3項「信用毀損行為」。

なお、深層DASH村(ID:DL-0117)の配信は保護措置継続中。停止要請は却下されています。


398:名無しの探索者

つまりセイバーズだけ止まって畑だけ動いてるってこと?


401:名無しの探索者


403:名無しの探索者

草じゃねえよ 人ひとり殺したことにして金稼いでたんだぞ


407:名無しの探索者

追悼グッズいくら売れたんだっけ


409:名無しの探索者

四千万超えって話


412:名無しの探索者

死人の名前で四千万か


415:望月◆LOG/0v

追悼配信アーカイブ、追悼グッズ販売ページ、いずれもまだ閲覧可能です。

運営が保全しているものと思われます。


418:名無しの探索者

保全ってことは証拠として残してるってことか


421:名無しの探索者

怖……


424:名無しの探索者

今、深層の配信見てるけど 普通に畑やってる


427:名無しの探索者

それがいちばん怖い


430:名無しの探索者

あの人自分が原因で帝国崩壊してるの知らないだろ


433:名無しの探索者

知ってても畑やってると思う


436:名無しの探索者

それはそう


---


俺は何も知らなかった。


凍結も、撤退も、数字の崩壊も、会議室で椅子が倒れたことも。


俺は畑にいた。水路の石を直していた。濾過層のフィルターを交換していた。干し根の天地を返していた。発酵壺の蓋を開けて匂いを確認し、蓋を閉じていた。蒸留装置の滴を数えていた。ムクの鼻息を聞いていた。


ドローンの画面に数字が浮かんでいた。


視聴者:10,002。


一万人。


俺は数字を見た。見て、三秒だけ止まった。


一万人が、俺を見ている。暗い穴の底で、骨の鍬で土を掘り、根を干し、水を濾す男を。見る理由は分からない。見られる理由も分からない。


だが、土は変わらない。水は変わらない。手順は変わらない。


一万人が見ていても、見ていなくても、やることは同じだ。


「……まあ、やる」


俺は鍬を振った。土が裂けた。裂けた土から、昨日植えた種の、白い根が見えた。


コメントが流れた。


『一万人おめ』

『本人たぶん興味ない』

『干し根裏返してて草』

『ムクの尻尾 今日ちょっと動いてない?』


ムクの尻尾は動いていなかった。だが、耳が微かに傾いていた。何かを聞いている。俺には聞こえない音を。遠くの、地上の、何かが崩れる音を。


俺には聞こえない。聞こえなくていい。


畑が先。


---


夜が来た。深層に夜はないが、俺の体が「夜だ」と言うので、夜である。


土塁に背を預け、蒸留水を一口飲む。干し根を齧る。苦い。だが、最初の日の苦さに比べれば、今の苦さは旨みに近い。舌が深層に最適化されたのか、あるいは苦さの中に栄養を読み取る能力が育ったのか。どちらにせよ、食えるものは食う。


ムクが土塁の外で丸くなっている。寝ているのか起きているのかは分からない。鼻息だけが規則的に聞こえる。ふす。ふす。ふす。


この音が止まったら、俺は起きる。ムクの鼻息は、深層の異常検知器だ。


ドローンが頭上でゆっくり旋回している。配信は続いている。俺が寝ても、ドローンは止まらない。古代の技術者は、眠りにも几帳面だったらしい。


画面の隅に、最後のコメントが映った。


『おやすみ また明日見る』


俺は見ていない。見ていないが、もし見ていたら、鼻で笑っていたかもしれない。


明日も土を掘る。

明日も水を濾す。

明日も根を干す。


それだけだ。それだけで、どうやら帝国は凍るらしい。


知らんけど。



久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし視聴者一万人。

高木玄真、契約凍結。帝国、停止中。

畑、稼働中。


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