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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第八十夜 異界よりのもの -2-

 夜が去り、朝が訪れます。人々の命運を決する朝です。


 昨日にウシャルファを出発した軍勢は、アモルダートまであと半日ほどの距離まで進んでいるはずでした。地図の上では、もはや目と鼻の先といってもよいでしょう。いまのところ、軍勢に異常があったという伝令は寄越されていません。ひとまずは、予定通りにことが運んでいると見てよさそうです。


 さて、作戦の本命であるタルナールたちに目を移しましょう。


 未明に最後の準備をはじめた一行は、昨日に軍勢が集結したのと同じあたりで、出発のときが来るのを待っておりました。あまり早く到着してしまうと陽動の意味が薄くなり、遅くなりすぎれば味方の被害が拡大します。タルナールは逸るルアフを宥めながら、エルやシャルカンがいまどのあたりにいるのか、果たしてまだ無事であるのか、思いを巡らせておりました。


「雲が……」


 空の白むころ、ネイネイが南方を見て呟きました。


 昨日まで霧の塔があった場所の上空には、分厚く、暗い色の雲が浮かんでおりました。それは地上に局所的な雨をもたらしているようで、一帯にはまるで灰色の帳がおりているようでした。


 もしなにも事情を知らなければ、不自然な雨は良からぬものにも見えるでしょう。しかしタルナールたちにとっては、物事が順調に進んでいる証拠です。あの雨はエルの魔術によるものでしょう。うまくいけば、アモルダートを覆う有毒な硫黄の煙を除いてくれるはずです。


「出発しよう」と、タルナールは言いました。「ルアフ、頼む」


「イールフ・ヒーフ!」


 四対の翼が、あたりに大量の砂塵を舞いあげます。魔術の補助を受けたトゥーキーたちは、人間の重さなどものともせず、力強く離陸しました。あっという間に防壁の高さ、見張り塔の高さを越え、すぐにウシャルファの街並みが、赤茶色の絨毯の中にある模様のようになりました。


「南へ!」


 鞍をしっかりと掴みながら、タルナールは叫びます。


「南へ!」


 ラーシュもまた大声で号令します。


 軍勢に遅れること一日。勇者たちは誰にも見送られることなく、アモルダートへと発ちました。


       *

 

 正面から吹きつける風を避けるように、タルナールは姿勢を低くして、しかし視線は前方に据えたまま、ルアフの背に捉まっておりました。空気は徐々に湿りけを帯び、ここ数日漂い続けていた硫黄のにおいも、いまはほとんど感じられなくなっています。


 アモルダートを発ってから四半刻も立たないうちに、遠くの大地に戦塵が確認できました。ときおり見える白い雷光は、エルが放つ魔術でしょうか。


 アモルダートで夜の獣が湧き出してから、大群がウシャルファ襲うまで五日。もし同じような勢いで、ふたたび夜の獣が現れ続けているのだとすれば、現在のアモルダート周辺には、およそ五千から一万もの敵がいるものと推定されます。


 前回の戦いにおいて、味方は身を守るための防壁も、敵を焼き尽くす〈星の火〉も利用できました。しかし今回の野戦ではそれらを頼ることができません。いかに士気や練度が高い軍勢であっても、厳しい戦いを強いられていることでしょう。


 しかしながら、もはや手助けをする余地はありません。タルナールたちにできるのは、彼らが払う犠牲を無駄にしないため、アル・アモル討伐に全力を尽くすことだけなのです。


 戦闘の趨勢を気にかけつつ、一行は大きく進路を変えました。いったんアモルダートの東側に回り込み、味方の軍勢とは別方向から接近するつもりでした。


 アモルダートとの距離が縮まっていくにつれ、水のにおいは段々と濃くなり、やがて細かい雨粒が、タルナールの頬を濡らしはじめました。


 幸いなことに、トゥーキーたちは雨を苦にしないようでした。彼らの艶やかな羽毛は、水をよく弾くのです。


 アモルダートまでは、あと四半刻といったところでしょうか。


 無数の雨粒で煙る景色の中に、途方もない大きさの異質な黒い影が浮かびあがってきます。


 その頭部は雲に接するほど高く、胴回りは二百人が腕を広げてようやく抱えられるほど。広げられた六つの翼は、ひとつひとつが守護者(ダワール)の宮殿さえ覆ってしまえそうな大きさでした。ウシャルファを脅かした巨獣(アズワハーシャ)でさえ、この影に比べれば仔猫に等しく思えます。


 古の災厄アル・アモル。〈魔宮〉の奥底より漏れ出した混沌の欠片。忠良なる騎士と相討った邪竜。六つの翼を持つ盲目の大長虫。


 それはただ佇んでいるのでなく、絶えず不吉に震え、くねり、蠕動しているように見えました。まるで異界から悪意を汲みあげて、この世界全体に振りまいているかのようでした。あるいは地底から少しずつ身を引き抜いて、完全な自由の獲得を試みているのでしょうか。


 あんなものとどうやって戦えばいい? タルナールはアル・アモルが視界の中で揺らぐたび、腐食した鉄のようなにおいの風に、全身をざあっと撫でられるような感覚に陥りました。これまでの人生で味わったことのない種類の、心底不快な感覚でした。


 しかし、身体を支配しようとする空虚と無力に、タルナールは堅固な意志で抗います。敵の術中に嵌ってはいけない、と。


 恐怖こそがアル・アモルの武器であり、恐怖こそがアル・アモルに力を与える。


 新天地に去ったアル・カラム、神と呼ばれる存在が、人々に奇跡を差し出し、崇拝によって力を得たように。


 だから、恐れてはいけない。


 刻々と大きくなっていくアル・アモルの輪郭を前にして、心を強く保つのは至難の業でした。しかしタルナールは自らが果たすべき約束と、仲間の存在を支えに、絶えず吹き抜ける腐食の風から、なんとか身を守っていたのでした。


「作戦を」


 風に乗って、ラーシュの声が聞こえました。雨が強さと冷たさを増す中で、トゥーキーたちは互いに話ができるよう、翼が触れるほどの距離まで近づきました。


「陽動があるって言っても、剣が届くぐらいの近くにいけば、さすがに相手もこっちに感づくはずだ。タルたちはなるべく鬱陶しく飛び回って、アル・アモルの気を逸らしてくれ」


「目や耳があるわけじゃないからな」と、エトゥが言いました。「どうやって気を引く? 向こうにとって、こっちは蚊か蠅みたいなものだ」


「〈星の火〉を」と、ネイネイが叫ぶように言いました。「〈星の火〉を鼻面で炸裂させてやるのはどう? 役に立つと思って、ひとつ持ってきたから」


「鼻がどこか分からないけど」と、タルナールは言いました。「いい考えだと思う。巻き込まれないように気をつけよう。ルアフ、理解できたか?」


「理解! 理解!」


 彼の返答に同調して、きょうだいたちも声をあげました。少なくとも、彼らは恐怖に捉われていません。それはいまからはじまる戦いにおいて、なによりも重要なことでした。


 背後に魔術の煌めきを残しながら、一行は雨の中を飛びます。アル・アモルに近づけば近づくほど、空気が粘度を増していくように思えました。確かに、肺を毒する硫黄の煙は消えています。しかしタルナールには、錬金術の埒外にある――単なる恐怖とも違う――心を毒するなにかが、あたりに充満しているように思えました。


 それはおそらく、時間の感覚さえも狂わせるのでしょう。アル・アモルの影が見えてから、タルナールは三昼夜も飛び続けているような気分になっておりました。


 それでも、一行は徐々にアル・アモルへ近づいていきます。その巨大な影は既に、全体を視界に収めることさえ難しくなっておりました。


 タルナールは神を信じません。ラマルエルナの人々からして、神を崇めていたのは遠い昔のことです。素朴な信仰として、太陽や月、風、海、火、大地といったものに人間性を見出し、その健全な恵みを願う行為は存在します。しかし実体を持つ神はもはや人々の記憶の彼方へと追いやられ、それに祈りを捧げる者はほとんどいないのが現状です。


 もしいま、ラマルエルナに神がおわすのだとすれば――


 目の前に佇む、アル・アモルをおいて他にはないでしょう。


 悪神であれ、邪神であれ、これほどまでに強大なものが、神でないはずがありません。人間や馬や鳥や魚といった生き物とは、まったく別の(もと)から創造され、まったく別の(ことわり)によって存在し続ける、世界の支配者。


「ヨ・トーノ・ドラク! ナディル・エルトラ! ヨ・トーノ・ドラク!」


 アル・アモルのあまりの威容にあてられ、タルナールが呆けたようになっていたとき、ルアフが鋭く叫びました。


 恐れるな、エルトラの子よ。恐れるな。


 彼はきっと、そう言ったに違いありませんでした。


 恐れてはいけない。タルナールは手綱と一緒に、自らの魂を握り直しました。たとえアル・アモルの羽ばたきひとつで吹き飛ぶ魂だとしても、こちらにはザーランディルがあるのです。神をも弑し得る古の魔剣が。


 一行がいよいよアル・アモルに肉薄せんとしていたとき、分厚い雨粒の帳が揺らぎました。タルナールははじめ、風の具合でそうなったのだろう、と思いました。しかし、トゥーキーたちはいち早く危険を察知しました。翼をすぼめ、あるいは身体を傾けて、急速な回避行動を取ったのです。


 さきほど手綱を握り直していなければ、危うく振り落とされるところでした。一体何事かと思った矢先、タルナールのすぐ上を、丸太を百本束ねたほどの触腕が、轟音とともに通り過ぎたのです!

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