第八十一夜 異界よりのもの -3-
「なんだあれは」
タルナールは首を竦めながら、思わず声をあげました。触腕というのはあくまでも直感的な表現で、実際の形状はどうにも判然としません。なぜなら、いましがた一行を叩き落とそうとしたなにかは、ほとんど透明だったからです。触腕が弾き飛ばした雨粒によって、辛うじて存在を察知できたに過ぎません。
タルナールは理解します。人間の目で捉えられるアル・アモルの姿は、かの者のすべてではないのだ、と。雲まで届く世界樹のごとき胴体、皮膜でできた六つの翼のほか、目には見えない触腕が、おそらくは無数に生えているのだ、と。
あるいはそれも、完全な理解ではないのかもしれません。巨象をも叩き潰す触腕よりも、なお戦慄すべきものが待ち受けているのかもしれません。
しかし、いまは目先の触腕を避けるので精一杯で、ほかの危険を警戒する余裕はありません。
幸いにして、第一撃で叩き落とされた者はいませんでした。それでも、触腕は次々と襲いかかってきます。わずかに掠っただけでも半身を持っていかれるほどの威力。まともにぶち当たればまず助かりません。
しかしトゥーキーの目、あるいはほかの鋭敏な感覚は、触腕の動きを人間よりも良く捉えていました。ルアフは上下左右に激しく機動しながら、致命的な衝突を避けています。
「ハー! ハー! ハー!」
少しでも見極めを誤れば、すぐさま死に繋がる状況。そのような中にあっても、ルアフは自らの翼を微塵も疑ってはいないようでした。興奮したような声をあげながら、ぐるぐるきりもみしたり、大きく宙返りをしたりと、大いに挑発の役目を果たしています。彼の背に乗るタルナールはとにかく、振り落とされないように必死でした。
「ヨ・イムード・アル・アモル! エヴ・トーノ・ドラク!」
このままでは命が持たない、とタルナールが思いはじめたころ、ルアフの身体が一瞬だけ強張り、羽毛がわずかに逆立ちました。
「ネイネイ、あれ、落とす」
直後、ルアフはさっと翼をたたみ、急降下しながら速度を稼いだかと思うと、地上の近くで翼を広げ、アル・アモルから距離を取りました。眼下に流れるは、黒々とした変じたアモルダートの市街。タルナールは首をひねるようにアル・アモルの方を振り、仲間の姿に目を凝らしました。
雨に煙る景色の中、小さく見えるネイネイの影が、芥子粒のようなのを投下しました。特製の壺に入った〈星の火〉です。
直後、また別の影から矢が放たれます。壺を射抜き、アル・アモルの鼻先で炸裂させるために、エトゥが弓で狙いをつけていたのです。
確かに、アル・アモルの鼻先で〈星の火〉を炸裂させるには、空中で射るのが最善でしょう。しかしエトゥと壺の距離は、どう見積もっても三百歩以上ありました。これを命中させるのがいかに難しい所業かは、説明せずともお分かりでしょう。
しかし、矢はまるではじめから糸で結ばれていたかのように、壺へと吸い込まれていきました。これまでにエトゥが放った数千本の矢の中で、最も精密な一射。狂おしい執念の一射です。
そして、太陽にも似た閃光の塊が出現します。〈星の火〉が威力を発揮するのに、雨はなんの妨げにもなりませんでした。
光の次に襲ってきたのは熱、そして衝撃でした。タルナールの頬に滴っていた水滴も、一瞬で乾き、あるいは吹き飛ばされてしまいました。
ルアフの翼が大きく傾ぎ、体勢が崩れました。しかし事前にアル・アモルから離れていたおかげで、辛うじて墜落は免れています。
衝撃の次は強風。街の中心に向かう激しい風でした。これもまた〈星の火〉の余波に違いありませんが、もはや周囲にどのような力学が働いているのか、タルナールには分かりません。
一方で、ルアフは体勢を立て直しつつありました。彼は風に逆らうことなく、街の中心に首を向けました。
「アル・アモルは――どうなった?」
タルナールは顔をあげます。気づけば〈星の火〉が作り出した閃光は消え、ふたたびアル・アモルの姿が見えるようになっておりました。
黒い大長虫の巨体は、依然としてそこにありました。炎に包まれてもいなければ、一部が欠けているということもありません。苦痛に身体を折っているわけでもなければ、呻き声をあげているわけでもありません。
しかしながら、それまで周囲を満たしていたアル・アモルの濃密な気配が、ほんのわずか乱れ、薄らいだように思えました。
「行け、ラーシュ」
仲間たちの姿はどこにも見当たりません。しかしタルナールは彼らの無事を疑いませんでした。
「行けっ!」
もはやタルナールとルアフにできることはありません。ネイネイもエトゥも同様でしょう。この状況でアル・アモルへ近づくのは無意味です。いたずらに危険を増すだけの行為にほかなりません。
本当に?
少なくとも、タルナールはそう思っていませんでした。自分たちが決して逃げないことで、少しでもラーシュの近くに在ることで、アル・アモルの恐怖と、恐怖を源泉にした力を抑えられるだろうと信じたのです。
そのとき、アル・アモルの上空にわだかまる雲の中、きらりと光るものが見えました。それは切れ間から差し込む太陽でなく、またネイネイが投げ落とした〈星の火〉でもありませんでした。心細いほどに小さく、しかしどんなものよりも鋭い光。
それは紛れもなく、ザーランディルが放つ光でした。
比類なき魔術師による、最愛の友への贈り物。忘却の奥津城で長らく眠り、ふたたび見出された遺宝。アル・アモルを討ち滅ぼす唯一の武器。ラーシュ・ギルザルトの手に握られた剣。
直なる光の刃が、雷よりも疾く駆け抜けます!
アル・アモルの天辺から、それがおぞましい根を張る地中深くまで。
瞬間、音のない絶叫があらゆるものを圧倒しました。避けることも堪えることもまったく不可能な、混沌の波動とでも呼ぶべきものが、タルナールの外側と言わず内側と言わず、ひと呼吸のうちに支配してしまいました。
全身に麻痺が広がります。思考も――死の恐怖さえ――凍りついていくようです。ルアフの翼が力を失って、為すすべなく墜落していくのが分かります。タルナールの耳の奥では、晩鐘に似た音が幾度も響いています。
これが、神を弑そうとした代償なのでしょうか。
肉体も、精神も、深い闇に落ちていきます。やがてすべてが暗転し、途絶し、タルナールはなにも感じなくなりました。
*
ざらざらと肌を苛む、固く尖った砂利。絶えずふり注ぐ冷たい雨。
全身がばらばらになったかのような痛みで、タルナールは声もなく呻きました。しかし、実際にばらばらなわけではないようです。
タルナールは目を開けて、なんとか身を起こそうとしました。しかし、両腕の肘から下がうまく動かないことに気づきました。折れても千切れてもいないようですが、まったく力が入らず、感覚もありません。
言うまでもないことですが、吟遊詩人にとって腕は命です。足で楽器を演奏するような者もおりますが、それは珍奇な芸当を売りにしているだけで、普通、手指を使うことなしに音楽を奏でることはできません。
タルナールは恐怖に駆られました。もしこのまま、二度と腕が動かなかったら……。
腕のことを置いたとしても、タルナールの動揺と混乱は大きいものでした。目を覚ます前のことは、いまだ茫洋とした霧に包まれて判然としません。現状を把握したり、物事を考えたりするにも、ひとつひとつ噛みしめるようにやらなければ、するりと頭から抜けてしまいます。
ひとまず、タルナールは冷えた身体を丸め、肘と足を使ってなんとか立ちあがりました。周囲に見えるのは、角ばった黒い巨岩の列。
いや、これは岩などではない。
これは建物だ。異界より噴き出した硫黄の瘴気によって、黒く変じたアモルダートの商店や家々だ。
瘴気は所々で結晶し、砕けたそれが地面に落ちて、石畳の上に広がる砂利となっておりました。それはエルが降らせた雨にも溶けることなく、足元で固く耳障りな音を立てます。
タルナールの頭の中で、つい先ほどまでの出来事が輪郭を結びはじめました。
ザーランディルがアル・アモルに一撃を与えたあとで、タルナールは前後不覚に陥りました。おそらく、ルアフとともに墜落したのでしょう。普通なら無残な死体になってしかるべきところですが、どうやら幸運に恵まれたようです。
いや、自分の身よりも大事なことがある。
アル・アモルは滅びたのか? 仲間たちは無事なのか?
タルナールはルアフを探そうと思い立ちました。一緒になって墜落したのですから、きっと近くにいるはずです。
そしてルアフの名を呼ばわろうとしたとき、声が出ないことに気がつきました。いくら喉に力を入れても、舌を動かしても、口から出るのは掠れた吐息だけです。
タルナールの絶望と無力感はいや増しました。腕に加えて声までも失ってしまったとあれば、当然のことでしょう。どちらも、吟遊詩人にとっては命も同然です。
膝を折りたくなる衝動に耐え、タルナールは顔をあげます。とにもかくにも、仲間を探すことにしました。自分と同様に怪我をして、途方に暮れかけているかもしれませんし、逆にこちらの助けとなってくれるかもしれません。
どこへ向かえばいいのかは分かりません。方角さえ定かでありません。空に太陽はなく、街は死に絶えています。それでもタルナールは歩きはじめました。身体の節々が痛むのに加えて、腕がうまく使えないために足取りはふらふらです。
タルナールは言いようもない心細さを感じておりました。世界にたったひとりだけ生き残ってしまったかのような気分でした。もしかすると、本当にそうなのかもしれません。ラーシュはアル・アモルを殺しきれず、異界との門はいよいよ完全に開き、エルが封じていたはずの〈それ〉によって、すべては破壊されてしまった。
もしかすると、本当に。
それでも、タルナールは歩き続けます。物事の終わりを見届けると決めたからです。腕も声も奪われたいま、タルナールを支えているのはその決意だけでした。
黒く寂れ果てた街路を歩いていると、ときおり、朧な影のようなものが見えました。タルナールは何度か、それを夜の獣だと思い、身を隠すため、かつて路地であった場所に逃げ込みました。しかし、そのうち面倒だと思うようになり、無視することに決めました。
この場所はアル・アモルの体内も同然であり、逃げる場所も隠れる場所もないのだ、という気持ちになったからです。いま歩いているのが、かつてアモルダートという街だったという感覚も、ほとんど抱けなくなっておりました。あるいは実際に、ここは現実でなく、悪夢の只中であるのかもしれません。
タルナールは歩き続けます。足元で黒い結晶がざりざりと音を立てています。雨で濡れた髪や服や靴が、やけに重く感じました。
ふと、タルナールの進む方向に人影が見えました。ラーシュやエトゥではなさそうでした。服装はネイネイの長衣に似ています。しかしその色は彼女が近頃身につけていた黒でなく、消えゆく炎を思わせる深い紅でした。
それは決してここにいるはずのない、しかし、タルナールにとっては忘れようもない人物でした。歌と物語の師であり、宿命的な約束を交わした相手。彼女がいなければタルナールは吟遊詩人になることも、アモルダートを訪れることもなかったでしょう。
ナジャハ。なぜここに?




