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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第七十四夜 人界の守り手たち -5-

 夜が去り、朝が訪れます。獣の侵攻はまだありません。


 南に聳える霧の塔は相変わらず、大地に突き刺された不吉な金釘のようでした。しかしそちらに目を向けなくとも、エイブヤードから吹きおろず風が運ぶにおいで、人々は異界の存在を意識せざるを得ません。


 絶えず送り出されては戻ってくる斥候の報告によると、夜の獣はいまや万を超える規模となっているようでした。それらはアモルダート周辺に留まりつつも、不穏な蠢きを見せているとのこと。


 ウシャルファの中でも比較的裕福な住民は、家財をまとめて街を出ていきました。移住する費用や元気を捻出できない住民や避難民は、家や天幕の中で肩を寄せあい、怯えながら過ごしています。そして守護者の軍隊や、他国からの援軍や、不確かな希望から作り出された姿なき英傑のことを囁いて、互いを励ましあっているようでした。


 兵士たちの間にも、長らくの緊張に耐えかね、自棄になったり逃亡したりする者が出はじめました。


 空は曇りがちで、通りは物寂しく、たまに見る人々の顔にも喜びはありません。アル・アモルの顕現から三日、ウシャルファという街全体にゆっくりと、諦めと絶望が蔓延りはじめておりました。


 タルナールが部屋を借りている酒場は城館に近いこともあって、夜になるとそこそこの客が入ります。しかし彼らも、大抵は陰気にぶどう酒を呷るだけで、浮かれ騒ぐような者はおりません。そのような中では、タルナールもぽろんぽろんと控えめにリュートを爪弾いて、沈黙を紛らわせるのが精一杯でした。


 この日の未明。ラーシュが部屋を出ていった音で目を覚ましたタルナールは、仰向けのままで天井を見あげ、例によって物語の断片を虚空に追い求めはじめました。しかしそのうちまた、仲間のことが気にかかりはじめました。そういえば、ラーシュはどうしているだろうか。


 ここ二日、ラーシュは朝早くに出かけ、帰ってくるとすぐに寝てしまうものですから、タルナールは彼とじっくり話す機会を持てませんでした。


 もちろん、昼間なにをしているのか、と軽く尋ねてみたことはあります。しかし、ラーシュはあまりはっきりとした答えを寄越しませんでした。ただ、埃っぽくなった衣服と、部屋に漂うわずかな汗のにおいからして、屋外で動き回っていることは確かなようでした。


〈魔宮〉の最奥に至る直前から、ラーシュの様子はどこか変でした。エルの霊気にあてられているときはもちろん、彼女にザラッドのことを聞いて以降も、たびたび物思いに沈んでいるようでした。考えているのはもちろん、自分とザーランディルとの、数奇な巡りあわせのことでしょう。


 しかし彼はこれまでに、いま自分がザーランディルを帯びていることについての、詳しい考えや決意を口にしたことはありませんでした。


 もしかすると彼は、自分なりの答えを見つけようとしているではないだろうか。答えを探すために仲間から離れ、ひとり過ごしているのではないだろうか。タルナールはそのように考えました。もしそうだとすれば、邪魔をしない方がよいのかもしれません。彼を信頼して、じっと待つ方がよいのかもしれません。


 しかし結局は、仲間としての心配が勝ちました。居場所の見当はつきませんが、タルナールは酒場を出て、ウシャルファの街をさまよいながら、どこかにいるはずのラーシュを捜すことにしました。


 ウシャルファの街路は概して入り組んでおりますが、三日も歩き回れば大体の地理は掴めます。タルナールは城館近くの小さな庭園、裏路地で営業している酒場、西の一角にある墓地といった、考えごとに適していそうな場所をひとつひとつ巡りました。


 そして適当な通行人を捉まえて、赤い髪をした勇壮なシーカ人の剣士を見なかったか、と尋ねました。しかし昼間まで歩き回っても、ラーシュの足取りは掴めませんでした。


 タルナールはいったん酒場に戻り、昼食を摂ることにしました。大麦の粥と羊の揚げ物をもぐもぐやっていると、酒場の主人が話しかけてきて、南門の外でも見にいっちゃどうだ、と勧めてくれました。


「俺も朝方に届け物をしたんだけどよ、でっかい機械がずらっと並んでて、ありゃなかなか壮観だったぜ。あんたの友達がそこにいるかどうかはわからんがね」


 防壁の外には、守護者(ダワール)や部族長たちの率いる軍勢が陣を敷いているはずです。主人が言う機械とは、おそらくその軍勢が設置した投石機や弩砲のことでしょう。そこが考え事に適した場所かどうかはともかく、どうやら防壁の内側にラーシュはいないようですから、少しばかり足を伸ばしてみるのもいいように思えました。


 酒場を出発し、途中の市場で買った林檎を齧りながら、タルナールは南門の近くまでやってきました。高い防壁の上を見てみれば、そこには案の定、真新しい弩砲がいくつも設置されています。三日前には見かけなかったものですから、おそらくは夜の獣の襲来に備え、突貫で工事をしたのでしょう。


 鋼鉄で補強された大門をくぐると、今度は防壁に沿って並んだ投石機の列がありました。シャルカンが数百と口にしていたのはさすがに誇張でしたが、それでも大小でざっと百門ほどが、南方のアモルダートを睨んでおりました。


 そのほかにも射手が潜むための土塁や、突撃を防ぐための逆杭など、防衛のための様々な設備がありました。いまも工兵や人足たちが行き交って、資材の運搬と兵器の組み立てに汗を流しておりました。


 働く人々の邪魔にならないよう、タルナールがそれらを見学しておりますと、誰かが遠くから声をかけてきました。


「唯一の名にかけて! おい、お前、タルナールか?」


 声の方向に目を遣れば、そこにはアモルダートの古参鉱夫、ジャフディが立っているではありませんか。


「てっきり〈魔宮〉で死んじまったと思ってたが、こりゃ驚いたな」


「ジャフディか! そっちこそ、鉱夫はかなり死んだって聞いたぞ」


「ああ、死んださ。死んだとも。俺はあんとき〈病人街〉にいたのよ。夜の獣どもがわんさか湧き出してきたときにな。まったくもってひでえ有様だった! 忘れようったって忘れられねえ。俺はな――」


 ジャフディはひとしきり、自分がアモルダートの脱出し、命からがらウシャルファに辿り着くまでのことを語りました。話すうちに感情が昂ったのか、彼は涙を流したり、髭を引きむしったりと、少々厄介な様相を呈しました。それでもタルナールはうんうんと頷いたり、慰めの言葉をかけたりして、最後まで我慢強く聴いてやりました。


「それで、いまは人足をしてるのか」


「なに言ってやがる。下働きなんざするわけねえだろう。俺は夜の獣のことをよく知ってるし、昔に大工をやってたこともあるんだ。だから軍のひよっこどもが頭をさげて、俺に助言を求めにくるのさ」


 ジャフディの言っていることが真実かどうかは、若干疑わしいように思えました。なにせ彼の衣服は汗と砂埃にまみれ、手には慣れない仕事でできたと思しき傷や胼胝(たこ)が、いくつも見えていましたから。しかしタルナールはしつこく詮索することなく、ラーシュの姿を見ていないか、と尋ねました。


「あいつも生きてたのか。そりゃ、めでてえことだ。ああ、本人じゃねえかもしれねえが、朝方にひとり、見慣れないやつが南に向かったってのを聞いたぜ。それがもしラーシュだったってんなら、アモルダートに残してきた財産が惜しくなって、取りに戻ろうとしてるのかもな」


 たいして面白くもない冗談ですが、それなりの手がかりです。タルナールは礼を言ってジャフディと別れ、段々とまばらになっていく家屋の間を、アモルダートの方角へと歩いていきました。途中、一匹の山羊がタルナールの前を走って横切り、八歳くらいの子どもがそれを追いかけていきました。


 獣の大群が押し寄せてきて、この一帯が苛烈な戦場となったとき、人は防壁の内側に避難できても、家畜は同じようにできません。おそらくあの山羊は、遠からず肉にされるでしょう。


 気づけば既に街のはずれ。ここから南には人家もほとんどありません。遠くを見遣ればそこには茫漠たる荒野と、背後に聳えるエイブヤードの峰々。もちろん、かつてアモルダートだった場所に佇む、あの忌むべき霧の塔の姿も在ります。


 そして視線をもっと手前に転じ、ぐるりと周囲に目をやったタルナールは、少し離れた場所に座り込む、赤毛の人物を見つけました。


 ラーシュは上半身の服を脱ぎ、ザーランディルを傍らに置いた状態で、ゆるく胡坐を組んだまま、じっと南を見つめておりました。ついさっきまで激しい運動をしていたようで、彼の素肌には汗が浮いておりました。


 その姿には声をかけるのが憚られるような、言い知れない凄みがありました。しかしせっかく探しにきておいて、話さずに帰るというのもなんだか間抜けです。タルナールは遠くから彼の名を呼び、ざくざくと砂を踏みながら近づいていきました。


「タルか。どうした?」


 ラーシュは座ったままわずかに身をよじり、頭を傾げるようにこちらを振り返りました。


「いや、別にどうということはない。ただ様子を見にきたんだ」


「そうか」


 ラーシュは姿勢を戻して、また南に目を遣ります。タルナールはその横まで行って、彼と同じようにどっかりと胡坐をかきました。


「考えごとか?」


「考えごとをして、剣を振って、また考えごと、ってところだ」


「なにをそんなに考えてる?」


 タルナールが尋ねると、ラーシュは小さくため息をついて、霧の塔を指さしました。


「あれを見ろ、タル。アモルダートがあんなになっちまった。中には得体の知れない化け物がいて、夜の獣をわんさか従えてる。俺たちはよくやったよ。けどここまでくると、もう個人の力でどうこうできるもんじゃない」


「本当にそう思ってるのか」


「半分は」と、ラーシュは言いました。「もう半分は、諦めきれてない。俺は剣こそが自分の人生を切り拓くものだと思ってやってきた。〈魔宮〉の奥に辿り着くまでは、実際にそうだった。俺の剣は夜の獣にも通用したんだ。


 でも思えば、兄貴と勝負することになってから、雲行きが怪しくなってきたよな。政治とか駆け引きが顔を出してきて、物事がどんどん大きくなっていった。いまでは守護者(ダワール)だって頭を抱えるような大問題だ。一万からの軍勢がどうこうってときに、俺たちがあくせくしたところで、嵐の海に小舟で漕ぎ出すようなもんじゃないか」


「僕は……そうは思わない」


「なぜ?」


「君の手にザーランディルがあるからだ」


 タルナールがそう言うと、ラーシュは傍らのザーランディルを拾いあげ、それを鞘から抜き放ちました。アモル鋼でできた薄く細い刀身が、陽光を受けて煌めきます。


「確かにこれは並外れた剣だ。俺は魔術のことなんかさっぱり分からないが、この剣には材質によるものでもない、鍛冶の腕によるものでもない、特別な力があるということは分かる。でも、タル。これはあくまでひと振りの剣だ。


 俺はこれを使って百人の兵士を相手にできるかもしれない。でもその十倍を斬り伏せるのは無理だ。大木を斬り倒すことはできるかもしれない。でも塔を両断するのは無理だ。アル・アモルも同じだよ。剣を持ったひとりの人間が相手にできるようなものじゃない」


「それも違う」


「やけに食いさがるな。なぜだ?」


「アル・アモルはザラッドの剣によって斃されたと、〈忠良なる騎士〉で歌われてるからだ。この歌は時代や地域によって少しずつ内容が違う部分もあるけど、ザラッドの刃が邪竜を貫いた、というのは変わらない。


 そして僕たちはエルに出会って、この歌が創作ではないことを知った。もちろん細部までは分からない。でも試してみる価値はあると思うし、僕は君に相応の力量があると信じる」


 それまで霧の塔を見つめ続けていたラーシュは、ここではじめてタルナールの方に顔を向けました。


「臆病者だと思われるのは癪だから、はっきり言っておく。もし見込みがあるなら、自分の命を賭けることに躊躇はない。だが、君はどうだ、タルナール。どうしてそれほど、アル・アモルにこだわる?」


「約束したからだ」


 タルナールは答えました。


「僕は昔に師匠と約束した。いつか貴女に届くような物語を創ってみせると。そしてエルと約束した。真実の彼女を物語にして、いまの人々に伝えると。アル・アモルを遠巻きに見るだけで、どうして力のあるものが創れる?


 物語に関する約束は違えたくない。それは僕の信念と言ってもいい。ネイネイもエトゥも、君だって同じじゃないのか。保身の機会を捨ててなおここに留まってるのは、そう育てられたからでも、そう命じられたからでもないだろう? それぞれの信念があるからこそ、ここにいるんじゃないのか」


「信念か」と、ラーシュはザーランディルの刃に目を落としました。「信念というのなら、俺にはこれしかない。これしかないなら、きっと迷う必要もないんだろう。少なくとも、挑んでみる意味は充分にありそうだ。……どうやって、という問題はあるが」


「いまのままでは、あの霧の塔に近づくことすらできない。いい案が思いつきそうな気はするんだけど」


「やっぱり、こういうのは魔術師の領分だろう。エルとネイネイにも意見を聞くのがいい」


 それからラーシュはおもむろに空を仰ぎ、ぽつりと呟きました、


「……今夜は星がよく見えそうだ」

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