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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第七十五夜 人界の守り手たち -6-  

 昼と夕が去り、夜が訪れます。


 酒場の二階にある宿の中で、タルナールとラーシュはエルの帰還を待っておりました。エルはウシャルファ到着以降、随分と忙しく動き回っているようで、タルナールにも彼女がどこにいるのか、ほとんど把握できていませんでした。城館と鍛冶場を訪れても捕まらず、防壁の外でもすれ違いになり、結局タルナールは宿で待つという言伝を残して、休息を決め込むことにしました。


 陽がとっぷりと暮れたころになってネイネイが戻り、それから半刻ばかりして、ようやくエルが戻ってきました。彼女は黒い長衣(ローブ)に身を包み、纏う雰囲気はなにやら隠者風ですが、数日前に比べると、随分と堅固な意思の備わった貌をしておりました。


「すみません、陣地の視察をしていて、遅くなりました」


「おかえり、エル。忙しいところに呼び出してすまない」と、タルナールは彼女を労いました。


「忙しいといっても、それほどではありません。かつて王であったときに比べれば」


 エルはそう言いながら、床に腰をおろしました。日中は方々を歩き回っていたのか、長衣(ローブ)の裾は砂で汚れておりました。


「エトゥとルアフたちはどうしています?」


「孤児院の子どもたちと一緒にいる。彼はあそこを離れたがらない」と、タルナールは答えました。


「軍の方は?」


「投石機と弩砲の建造はおおむね終わりです。〈星の火〉はまだ量産を続けていますが、錬金術師たちの疲労も溜まっていますから、そろそろ手を緩めた方がいいでしょう。ケッセルとシーカの動向はいまだ掴めていません」


「そのあたりは、シャルカン陛下やアズバァイルも色々策を練っているだろう。僕たちが今日エルを探していたのは、アル・アモルに近づくための方法があれば、その方法を教えてもらいたいと思ったからだ」


 その言葉を聞いたエルは、渋面を作ります。


「決定的なものはありません。そもそも軍勢をアモルダートへ進めるためには、万を超える夜の獣を打ち払わなければなりません。ルアフたちの翼を借りれば、敵の頭上を飛んでいくことはできるでしょう。しかしご存じの通り、霧の塔がアル・アモルへの接近を阻んでいます。霧――もとい硫黄の煙がどの程度のものか、どのような仕組みで出現しているのか、まだほとんど調査できていませんし、調査ができる目途も立っていません」


 ラーシュやネイネイからも、いくつか意見が出ます。〈魔宮〉に戻ってトゥーキーたちを大勢連れてくるとか、地下からアモルダートへの侵入を試みるとか、状況を打開するための大胆な策がいくつか検討されました。しかしどれも実行にあたっては、問題の多いものばかりでした。


 そうして一刻ばかりも経ったころ。建物の外からばさばさと、大きな羽ばたきの音が聞こえてきました。


「タルナール! タルナール!」


 ルアフの声。かなり切迫した様子です。タルナールは部屋の窓から顔を出し、酒場の壁をがりがりと掻いている彼に呼びかけました。


「ルアフ! どうした?」


「色なきもの!」


「夜の獣がなんだって?」


「色なきもの、来る! ルアフ、分かる!」


「彼は夜の獣の接近を感知したのです」と、タルナールの背後でエルが言いました。「人々に知らせなくては」


「待ってろ、ルアフ。いまそっちに行く」


 タルナールは窓から頭を引っこめて、仲間たちの方に向き直りました。


「ラーシュ、僕たちはエトゥのところに行こう。子どもたちが心配だ」


「分かった」


「私は陣地へ」と、エルが言いました。「〈星の火〉を使うことになるかもしれません」


「なら、私もエルと一緒に」と、ネイネイも言いました。「タルもラーシュも、気をつけて」


「僕たちは大丈夫だ、そっちこそ、無理はするなよ」


 支度もそこそこに、タルナールたちは部屋を飛び出します。一階の酒場におりていくと、亭主や客が酒杯を片手に持ったまま、隅の方で困惑顔をしておりました。


 彼らに警告することも考えましたが、混乱を避けるため、タルナールはあえてなにも説明しませんでした。ずかずかと酒場を横切り、すぐ外で翼を広げているルアフに合流しました。そのまま、エルとネイネイは市街の南へ、タルナールとラーシュは市街の北を目指します。


「タル、ルアフと先に行け。俺は走って追いつくから」


「よし、ルアフ、頼んだ」


 既に事情を呑み込んでいるらしいルアフが、さっと離陸してタルナールの肩を掴みます。喰い込む爪の感触も急激な浮遊感も、いい加減慣れたものです。ふたりは密集する建物も曲がりくねる道も飛び越えて、あっという間に大門のあたりまでやってきました。防壁の上では篝火に照らされた何人かの歩哨が、こちらを驚きと警戒の目で見つめています。


「まずいな、門が閉まってる……」


 夜に閉門するのは当然ですが、タルナールは焦りました。あれではいざ夜の獣が押し寄せたとき、避難民たちが為す術なく殺されていまいます。


 エトゥや孤児院の人々だけなら、ルアフときょうだいたちで運べるかもしれません。しかし避難民は彼らのほかにも何百人といるのです。ここでタルナールが兵士たちを説得しなければ、多くの命がみすみす失われてしまうことになるでしょう。


 タルナールはルアフに声をかけ、門のすぐ上におり立ってくれるよう頼みました。もちろん、その行為が歩哨を刺激しないはずはありません。すぐさま槍や曲刀を持った数人に詰め寄られます。


「頼む、門を開けてくれ。夜の獣が迫ってるんだ。外の人間が皆殺しになるぞ」


 タルナールは彼らを宥めながら、必死に訴えました。


「夜の獣? そんな報告は聞いていない。正式が命令もないのに門を開けることはできない。なにかよからぬことを企んでいるなら――」


「待て」


 そのとき、兵士たちの背後から上役らしき者が現れました。


「お前、アモルダートの鉱夫だな。また誰か探しているのか?」


 部下を脇に除けて進み出たのは、これまでに何度か顔を合わせた例の隊長でした。


「隊長殿、聞いてください。夜の獣がやってきます。防壁の外にいる人たちを中に避難させてください」と、タルナールは乞いました。


「その鳥に乗って見てきたのか? 嘘とは思わんが……」


「隊長、あれを!」と、兵士のひとりが声をあげ、南の方角を指さしました。


 それに釣られてタルナールが目を遣ると、市街を挟んで反対側、防壁に設けられた見張り塔の上部で、ちかちかと点滅する光が見えました。鏡か覆いを使って、炎で信号を伝えているのです。


「招集の合図だ。敵に動きがあったらしい」


 ざわざわと、兵士たちの間に緊張が伝わります。


「お前たち、門を開け。外のものを可能な限り内側に入れろ。急げ!」


「隊長殿、感謝します」と、タルナールは言いました。


「俺は義務を果たしているに過ぎん。人々は広場に集める。外の仲間が心配なら、お前もそこへ向かえ」


「分かりました。ルアフ、行こう」


 去り際、隊長に呼びとめられタルナールは振り返ります。


「厳しい戦いになりそうだ、覚悟しておけ」と、隊長は言いました。「また生きて会えるといいがな」


       *


 獣たちがやってきます。夜の獣たちがやってきます。ここ数日急速に数を増しながらも、アモルダート周辺に留まり続けていた大群が、ついに人界を呑み込むべく進軍してきたのです。


 無数の肢が荒野を揺らし、大小の咆哮が空気を震わせます。熱病がもたらす悪夢よりなお恐ろしい姿かたちで、絶望と破滅を運んできます。


 (カル)山羊(アザー)(ザダム)仔牛(バカルア)(ヒーザーン)、図体や脚の速さはそれぞれ違いますが、あたかも全体でひとつの意思を持っているかのように、群はウシャルファへと殺到します。


 その数は推定で二万。小さいものでも人間を容易に噛み殺し、大きいものとなれば石壁を突き崩す。そんな存在が二万です。


 一方で人間側。襲撃を警戒し続けていた軍の動きはさすがに迅速でした。タルナールやエルが警告するまでもなく、見張りが大群の接近に気づき、事前の指示通りに布陣を整えていきます。


 防壁のすぐ南、敵の正面で構えるのは、土塁や逆杭に護られた弓兵が三千。その背後には工兵によって運用される投石機が百門。


 そしてウシャルファから生えた両翼のように展開しているのは、機動力の高い弓騎兵が三千ずつの計六千。これらの大半は守護者(ダワール)直属の軍勢で、士気と練度では他より秀でています。


 四つの大門と防壁の上には守備兵が二千と、弩砲が百五十門。これはウシャルファの兵士、若干の義勇兵が含まれた混成部隊です。


 市街の防衛と後詰の役割を果たすのが、主にダバラッド部族長たちから拠出された兵士たちによる三千の勢力。重装備に身を包み、白兵戦の用意を整えています。


 総勢一万四千。これが、夜の獣二万とぶつかる街の守り手となります。


 さて、この戦いの前半部分を語るにあたっては、ネイネイの目を借りましょう。彼女はエルと、城館から駆けつけたマヌーカとともに、もっとも危険な前線で、戦の趨勢を見ることになりました。


 ずらりと並ぶ投石機の合間に、ネイネイは小枝よろしく立っておりました。慌ただしく行き交う松明と、それに照らされる兵士たち。傍らには、〈星の火〉を詰めた壺が、木箱に入れられた状態で置かれています。


 事故が起こらぬよう注意深く、しかし数を揃えるべく突貫で造り続けた秘密兵器は、壺にして五百個。そのうち、ネイネイが魔術を施した特別な壺は十六個です。うまく働けば恐るべき破壊をもたらすはずですが、実際にどの程度効果を発揮するかは、使ってみなければ分かりません。この十六個はもっとも大型の投石機によって、敵方の只中に放り込まれる手筈となっておりました。


 敵襲の報せが発せられてからしばらく。じりじりと時が過ぎ、兵士たちがおおむね持ち場についたころ。ようやくネイネイの目にも、群の姿が捉えられるようになりました。


 星の煌めく夜空。遥か遠くで隆起するエイブヤードの峰々。その足元にのっぺりと横たわる黒灰色の大地。そして大地の上を這い進むように、異様な存在感を持つ影が、刻々と近づいてきています。


 距離はまだ数千歩以上あるでしょう。全容は容易に知れません。しかしたったひとつ、確実に判別できる個体が在りました。脅威という言葉では足りぬほどの、圧倒的な個体が。


巨獣(アズワハーシャ)……!」


 マヌーカが呟きます。慄然の響きを帯びた、普段の彼女らしからぬ声でした。思わず口にのぼったそれは、どんな魔術よりも速く、強く、兵士たちの間に恐怖を伝播させていきました。


「勝てるはずがない」と、誰かが震える声で言いました。張り詰めた緊張の糸を弾くように。


「逃げた方がいい」と、別の誰かが言いました。さきほど聞こえたものより、幾分か強い調子で。「いまならまだ間にあう」


 ここがふつうの戦場ならば、士官が兵卒の弱気を戒め、叱咤し、ときには見せしめの制裁を加えることで、規律を保たなければならないところ。しかし巨獣(アズワハーシャ)の圧力は、そうした軍の正常な働きを、早くも麻痺させてしまっておりました。


 既に何人かは、持ち場を二歩三歩と後ずさりはじめています。


 まずい、とネイネイは焦りました。一部でも逃げ出せば、もはや陣の崩壊はとめようがなくなるでしょう。そうなればせっかく用意した投石機も〈星の火〉も、まったくの無駄になってしまいます。二万の敵は一匹たりとも減ることなしに、そのまま防壁へ取りつくでしょう。


 守備兵たちが防衛に失敗すれば、次は市街が敵の爪牙にかかります。市街が陥落すれば、ネイネイたちには帰る場所がありません。闇の中を獣たちに追い立てられ、悲惨な死を遂げることになるでしょう。


 勝ち目を拾うには、ここで踏みとどまらなければなりません。しかしみなが逃げ去ってしまったならば、自分ひとりが残ったところでどうしようもありません。少しばかり体面を大事にしたせいで、むざむざ貪り喰われる羽目になるなら、いっそほかの人間が迷っているうちに――


「逃げてはなりません!」


 心に生じた葛藤と怯懦(きょうだ)を射抜くような言葉に、ネイネイはびくりと肩を震わせます。

 それを発したのはエルでした。


「逃げてはなりません! あなたたちが守っているのは、背後にいる数千の人々だけではありません! 歴史ある街だけではありません! 私たちが守ろうとしているのは人の世です! 連綿と紡がれ、積みあげられてきたかけがえのない世界です!


 私たちこそがその守り手! 私たちこそが最初の楯! 恐れを抱くのは当然のこと! しかしそれに屈するのは厭うべき恥です! 恐れてなお踏みとどまり、敵に立ち向かったならば、どのような結果になろうとも、人々はその(いさおし)を語り継ぎます!」


 それは権威による命令でも、熱狂による鼓舞でもありませんでした。にもかかわらず、それは力強い言葉でした。勇気や誇りというものがなんであるかを知っている者の言葉でした。臆病や卑怯というものがなんであるかを知っている者の言葉でした。


 そしてそれは、確かに兵士たちの心を捉えました。


「誰が逃げるかってんだ! やってやるよ、畜生!」


 少し離れた場所で、叫ぶ者がありました。ネイネイはそれをジャフディの声だと思いましたが、暗い中では確かめようもありません。


「う、撃ち方用意!」


 ここでようやく、士官たちの命令が飛びます。エルの言葉で麻痺が解け、集団が正常な働きを取り戻しはじめました。


 兵卒たちも遅滞なく命令に呼応します。〈星の火〉を載せた百門の投石機が、火矢をつがえた三千の弓が、戦端の開かれるときを待ち受けます。


 敵の先頭はいまや、防壁から七百歩の距離。


「放て!」


 まずは小型中型の投石機が機構を軋ませ、次いで三千の弓が弦を唸らせ、壺や火矢を敵に投射します。ネイネイが見あげれば、そこには宵闇と星月と火焔が入り混じる、凄絶な光景が広がっておりました。


 さて、頼みとなる〈星の火〉の威力は如何に。失われた戦争の技術。錬金術の粋。比類なき破壊の到達点。その効果はいかに。


 以前にエルが作業に携わる者や一部の士官を集めて、〈星の火〉がどのように燃えるのか試したことがありました。そのときにネイネイが知ったのは、ほんの小指の先ほどの量であっても、人がすっぽり入れる木箱を焼き尽くし、その下にある石畳さえ溶かすほどの熱を放つ、〈星の火〉の恐るべき性質の一端でした。


 いまは、それが壺一杯の量。


 ひと呼吸あとでネイネイの目に映ったのは、無数の白い光の柱でした。


 光の柱は優に建物二階分の高さまで噴きあがり、一瞬あとで周囲を包む光球と化しました。それがいったいどれほどの温度であるのか、まったく想像もつきません。


 光球の外側にいた夜の獣がぱっと炎に包まれます。それは滅茶苦茶に動き回ったあとで地面に倒れ伏し、後続に踏みつけられて見えなくなりました。倒れた先鋒を乗り越えた獣たちも、いまだ消えぬ光球に焼かれました。


 焦げた夜の獣から立ちのぼる不浄の煙が、薄布のように戦場を覆います。それからひと呼吸遅れて、熱風がネイネイたちに吹きつけました。


〈星の火〉は極めて大きな威力を発揮しました。兵士が数人がかりで斃すような夜の獣を、あっという間に三、四千も滅ぼしてみせたのです。


 投石機の前に立つ弓兵たちもまた、決して小さくはない戦果を挙げていました。降り注ぐ火矢は大型の獣にこそ効果薄でしたが、小型の獣の急所を射抜き、あるいは肢を貫いて深手を与えました。


「エル。これはまだ撃たないの?」


 ネイネイは、傍らにあるひときわ大きな投石機を見あげながら言いました。この一門と、すぐ近くにある別の一門には、ネイネイの魔術が施された特別性の壺が載せられているのです。


巨獣(アズワハーシャ)を狙います」と、エルは言いました。


 たったいま証明されたように、〈星の火〉は強烈無比な兵器です。しかし巨獣(アズワハーシャ)ほどの図体であれば、しぶとさも底抜けでしょう。こちらが持つ最大の火力をぶつけようとするのは、まずまず妥当な戦術と言えます。


「でも、敵が」


 そう。いま現在巨獣(アズワハーシャ)は敵軍の後方に位置し、投石機の射程外に在ります。一方敵の最先鋒は、いよいよ味方に肉薄しようかというところ。


 弓兵や工兵たちも接近戦の用意こそしていますが、正面からの攻撃に持ちこたえることは想定していません。両翼に布陣する弓騎兵たちの支援があっても、わずかな後退の機を逃せば、多くの犠牲が出てしまいます。


「近づかれる危険については、わたくしも同感ですが……」と、マヌーカが静かに言いました。「〈星の火〉でなければ、巨獣(アズワハーシャ)を斃すことはできぬでしょう。そして巨獣(アズワハーシャ)を斃さねば、ウシャルファは陥ちたも同然。ここで撃たずに逃げれば、すなわち敗けということです」


「おい、聞いたか! てめぇら!」


 いつのまにか近くにいたジャフディが、大声を張りあげました。


「ここでちょいと踏ん張りゃあ、俺たちが一番の英雄様ってわけよ! 唯一の名にかけて、クソ漏らしても弾撃ち漏らすんじゃねえぞ!」


 あまりに下品な言葉を聞いて、魔術師たちは思わず顔を見あわせましたが、無骨な男どもにはそれなりに響いたようでした。彼らはやたらに大声をあげながら互いを鼓舞し、集団が後退をはじめる中でも持ち場に留まり続けました。


 ことここに至り、ネイネイもまた留まることを決めました。自らの魔術がどれほどの戦果をもたらすのか、最前線で見極める覚悟を固めたのです。

 そして彼女が灰水晶の杖を握りしめたとき、味方や篝火の合間を縫って襲いくるものがありました。


「獣だ!」


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