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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第七十六夜 人界の守り手たち -7-  

 狼に似た一匹が工兵に喰らいつき、地面に引き倒しました。ネイネイは咄嗟に杖を振りあげて、柄頭で獣の頭を一撃します。わずかにできた隙を見逃さず、工兵は自由になっている腕で帯びていた短剣を抜き、獣の喉笛を切り裂きました。


 噴き出す体液。悪臭に顔を顰める間もなく、ネイネイは胴体に強い衝撃を受けて地面に転がりました。別の獣に体当たりされたのです。


 息ができずに悶絶する中、獣の爪牙が迫るのを感じます。痛みを覚悟しながらも、ネイネイは必死にもがき、立ちあがろうとします。


「大丈夫ですか。掴まって」


 そのときネイネイの身体を支えたのは、マヌーカの手でした。見れば彼女の蛇が獣を締めあげ、動きを封じております。


「人手が足りません。わたくしたちも戦わねば」


 ネイネイはマヌーカの助けで体勢を立て直しながら、口を引き結んで彼女に頷きかけました。


 敵は続々とやってきます。いまのところ、(カル)山羊(アザー)といった小型で速力に優れる獣が中心ですが、そのうち大型の獣もやってくるでしょう。


「もう少しだけ、耐えてください!」


 エルの叫び声が聞こえました。彼女はいま二門の投石機を庇うように前へ出て、なにがしかの魔術を展開しておりました。小柄な身体の回りには青白い秘文字が渦を巻き、それらは次第に速さを増して光の帯となりました。


 呪文も唱えず。大仰な身振りもせず。ネイネイはこんなやり方を見たことがありません。


 光の帯からは間断なくまばゆい雷が放たれ、押し寄せる夜の獣たちを次々と焼き焦がしていきました。しかし、新手は次から次へと現れます。ネイネイも必死に杖を振り回して防ぎますが、あちこちから攻撃に晒され、いつ致命傷を負ってもおかしくない状況です。やがて息が切れ、心臓も悲鳴をあげはじめました。


 もう長くは持たない。ネイネイが疲労に膝をつきかけ、咄嗟に杖で身体を支えたとき、混沌とした戦場にふたたびエルの声が響きました。


「いまです!」


 ほとんどやけくそになった兵士たちが奇声をあげながら、投石機の腕木を解放します。重石と梃子の力で加速したそれは、ぶおんと音を立てながら身を起こし、籠に満載された〈星の火〉入りの壺を、七百歩の彼方まで放り投げました。


 荒い呼吸を繰り返しながらも、ネイネイは束の間すべてがとまったような感覚に陥ります。〈星の火〉は、人々の意地と技術の精髄は、絶望を曳いて迫りきたる巨獣(アズワハーシャ)に向かって、狙いを過たず飛んでいました。


 直後ネイネイの目に飛び込んできたのは、太陽よりなお明るい閃光!


 戦場が昼と見紛うばかりに照らされ、姿形の違う無数の獣、転がる数千の骸、傷つき斃れた兵士たちの姿を浮きあがらせました。巨人の槌が大地を一撃し、最古の竜が吠えたような衝撃があたりを駆け巡ります。ネイネイは両腕で顔を庇い、両脚を踏ん張りましたが、耐えきれず二歩三歩とたたらを踏みました。


 それはおよそ人間が造り出したものとは思えませんでした。街を消し飛ばし、湖を蒸発させ、山脈を崩すほどの恐ろしい兵器でした。局所的に見れば、かつて地上を荒廃させたという、神々の争いで使われたものにさえ、肩を並べる威力にに違いありませんでした。


 巨獣(アズワハーシャ)は死んだのでしょうか? ネイネイは閃光に目をやられ、敵の姿をしっかりと確認することができません。


「撤退だ! 撤退!」


 あたりで兵士たちが叫んでいます。なにはともあれ、踏みとどまった者たちは立派に務めを果たしました。ネイネイもまた、安全な場所を求めて逃げ出します。しかし味方のほとんどは既に去り、周囲は敵だらけ。


「だめだ! 逃げられねえ!」


 ネイネイやマヌーカを含め、危地に孤立した二十人あまり。ひとまとまりとなって互いの隙を補いますが、それでも到底守りきることはできません。次々に深手を受けて脱落し、数を減らしていきます。全滅の憂き目に遭うのも、時間の問題と思われました。


 人間の血と汗。獣の体液。興奮した敵味方から発散される得も言われぬにおい。闘争によって混ざりあわされるそれらを呼吸しているうちに、ネイネイは頭がくらくらとしてくるのを感じます。おまけに喉はからから。腕や脚の筋肉は、随分前から苦痛を訴えています。


 気づけば、ネイネイを含む生き残りたちは防壁の傍までやってきていました。これ以上は逃げられません。すぐ近くに大門はありますが、敵が目の前まで押し寄せる現状、わずかな味方を招き入れるために開くことはないでしょう。


 ああ、ついにここまでか……。


 ネイネイが疲労と絶望でぐったりと首を垂れたとき、足元の砂がきらきらと、不可思議な光を放っていることに気がつきました。


「それをのぼって! まだ諦めてはなりません!」


 まだ生きているらしいエルの声が、どこかから聞こえてきます。


 のぼる? と、ネイネイは防壁を見あげ、はっとしました。地面から防壁の上までを繋ぐ、急な傾斜の(きざはし)ができているではありませんか! それは湖面に張った氷のように透明でしたが、実に立派で堅牢そうな形をしておりました。


 男たちはほんの一瞬ためらいましたが、すぐにはじめの段へと足をかけ、あるいは手を使って這いずるように(きざはし)をのぼりはじめました。


 ネイネイも同じようにのぼろうとして、マヌーカが遅れていることに気づきます。彼女は数歩うしろで膝をつき、両腕を抱いて荒い息をついておりました。


「マヌーカ!」


 呼びかけても奮起する様子のない彼女を見かねて、ネイネイは(きざはし)から離れ、彼女のもとへ駆け寄ります。


「平気? 立てる?」


「大事ありません」と、マヌーカは言いました。しかしその声は苦しげです。「蛇が死んだので、刺青が焼けてしまったのです」


「とにかく、掴まって」


 ネイネイが彼女の腕を取ると、衣服の布越しに皮膚が熱くなっているのを感じました。もしかすると、ひどい火傷になっているのかもしれません。しかし遠慮している余裕はありません。ネイネイはマヌーカが痛みに呻くのも構わず、彼女を引っ張るようにして(きざはし)へと向かいます。


 足元の覚束ない非力な魔術師がふたり。敵にとっては格好の獲物です。ネイネイが最初の一段をのぼろうとしたとき、背後から跳びかかってきた(ザダム)が、マヌーカを押し倒しました。


 その勢いに段を踏み外しかけながらも、ネイネイは杖で(ザダム)を殴りつけました。しかし刃のついていない武器では、有効な傷を与えることができません。そのうち打擲を受けとめた(ザダム)は、ネイネイから杖を奪い取ってしまいました。


「わたくしなど置いて、早くお逃げなさい」と、マヌーカが呻きます。


「嫌だ!」


 自分だって、仲間たちとともに〈魔宮〉を踏破してきたのだ。この程度の敵に負けたとあっては、あとでみなに笑われる。意地になったネイネイはいつも携えている短剣を抜き、それを(ザダム)の首元に突き刺しました。


 苦痛と怒りの混じったぞっとするような叫び声をあげながら、(ザダム)は四つの手でネイネイの腕を掴みます。ひとつひとつが万力のように肉を締めあげ、骨を軋ませました。すぐ近くからは、別の獣の吐息が迫ります。


 しかしそのとき、白い雷が閃いて、(ザダム)の頭を弾けさせました。


「あなたたちが最後です! 早く!」


 エルが戻ってきました。彼女の髪や白い薄衣はエーテルに満ち満ちて、淡い光を放っておりました。それはかつて〈魔宮〉の最奥で出会った少女とは、まったく別の存在に見えました。


 エルとネイネイはふたりでマヌーカの手を引いて、一気に防壁の上まで駆けあがります。透明な(きざはし)は夜の獣たちにとっては足がかりとならないようで、何匹も防壁に衝突し、あるいは壁の石材をひっかいて、獰猛な鳴き声をあげました。


 こうして三人はひとまず、味方の守備兵たちと合流することができたのです。


「おお、唯一の名にかけて! このジャフディ、貴女さまの忠実なしもべとなります!」


 既に(きざはし)をのぼっていたジャフディがエルのもとにひれ伏し、エルの足に接吻します。彼女のおかげで命を救われた者たちも、跪いたりこうべを垂れたりして、自分たちの救い主に敬意を示しました。


〈魔宮〉の奥より現れた英傑。人々の不確かな噂であったものが、いま明確な像を結びはじめます。


「手傷を負ったものはさがりなさい。まだ戦える者はここに残りなさい。――巨獣(アズワハーシャ)はまだ生きています」


 そう言って、エルは振り返りました。その目線の先には、閃光を伴う〈星の火〉の衝撃から立ち直り、再びこちらに近づいてくる巨獣(アズワハーシャ)の威容が在りました。


「エル。私もまだ戦える」と、ネイネイは言いました。大事な杖は失ってしまいましたが、傷はいずれも軽いものです。


「あなたが思うようにしてください、ネイネイ」と、エルは答えました。「頼りにしています。みなで夜を越えるのです」

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