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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第六十八夜 エル -5-  

 ふさふさとした苔のうえで長い語りを終えたエルは、ゆっくりと息をついたあと、うつむき加減に目を閉じました。こんなにも長く喋ったのは久しぶりのことでしょうから、疲れるのも無理はありません。


 タルナールはまた彼女に水を飲ませてやりながらも、なにを言えばよいのか、話をどのようにまとめればよいのか分からず、口を開くことができませんでした。それから助け舟を期待する気持ちで、おもむろに仲間の方を見遣りました。


 ラーシュ、ネイネイ、エトゥの三人も、タルナールと同じく沈黙の内にありましたが、彼らの様子はそれぞれ少しずつ異なりました。


 ラーシュはザーランディルを膝に置き、その刃をまじまじと眺めておりました。タルナールは古ダバラッド語に明るくありませんが、いまはザーランディルの名の由来がなんとなく想像できました。


 ザラッド・アル・イル。すなわち、ザラッドの剣。ラーシュがシーカの居城をあとにしたとき餞別代りに持ち出したのは、かつてエルが無二の友に与えた伝説的な品だったのです。


 それがザラッドの手からどのような経緯を辿ってシーカに渡ったのか、詳しいことまでは分かりませんが、やがて〈魔宮〉へ挑むことになるラーシュの腰に収まり、ふたたびエルと相まみえるというのは、なんと数奇な巡りあわせでしょうか。おそらく、ラーシュもそのことを考えているのでしょう。


 隣のネイネイはと言いますと、顔をわずかに紅潮させ、エメラルド色の瞳を細かく揺らしておりました。彼女がムジルタの里を出発する直前に与えられた使命は、「〈世界の根〉の根源を求めよ」というもの。これが「エイブヤードの地下深くに隠された歴史の真実を明らかにせよ」という意味ならば、エルの語ったことこそが、まさにその真実にほかなりません。


 自分は使命を成就したのか? ムジルタの魔術師の多くが人生をかけて取り組む使命を、里から出てほんの一年足らずで? もしかするとネイネイの胸には、そのような戸惑い混じりの感慨が、ぐるぐると渦巻いているのかもしれません。


 エトゥもまた黙ったまま、静かにエルを見つめておりました。


 彼はかつて、〈魔宮〉の発見をきっかけとした変化によって元の生活を奪われ、それが直接の原因ではないにせよ、妹のユンを喪いました。もしかすると彼はエルトラ王と対峙したとき、その責任を問うつもりだったのかもしれません。しかし実際目の当たりにしたのが、自らの罪に打ちひしがれている少女の姿とあっては、強く責めるわけにもいかないのでしょう。


 ややあってから、エトゥがはっとした様子で口を開きました。


「いま、アル・アモルはどこにいる?」


 その言葉に、半ば茫然としていたタルナールも正気に戻りました。


「詳しくは分かりません」と、エルは答えました。「私は長らくここに在ったので、無名宮にあるものは自らの体内にあるものと同じように感じることができます。少なくとも、アル・アモルこの中にいません。おそらくは、まず無名宮が見いだされた地に向かったのではないでしょうか」


「アモルダートだ」


 エトゥの顔が色を失います。彼はあの街自体にさほど愛着を持っていたわけではありませんが、そこには足繁く通っていた孤児院があり、サーニャやレンヤや子どもたちが暮らしているのです。


「戻ろう。タル、ラーシュ、ネイネイ。みなの安全を確かめないと」


 タルナールもそれには賛成でした。急いでアモルダートに戻り、状況を確かめなくてはなりません。


「エル、君も来てくれないか」と、タルナールは言いました。「本当に危機が迫ってるんだとしたら、きっと君の力が必要になる」


「しかし、私は――」


「この場所を離れられないのか?」


「いいえ」と、エルは小さく首を振りました。「いいえ。私の力は弱まりましたが、門の封印はいまだ強固です。私がここを離れたとしても、少しの間ならば〈それ〉が門を破ることはないでしょう」


 自身の言葉とは裏腹に、エルは地上に出ることを躊躇っているようでした。しかし彼女の話が本当ならば、いまは遠慮しているときではありません。タルナールは多少強引にでも彼女を連れていくことにしました。


 仲間たちもそれに反対しませんでした。彼らにしたところで、まだエルに尋ねたいことが山ほどあるはずですし、もし事態が急を要するのであれば、次にここを訪れるのがいつになるか分かりませんから、エルの同行は望むところでしょう。


 エルははじめ少しばかりふらふらしていて、タルナールやラーシュの手を借りていましたが、すぐに以前の感覚を取り戻し、確かな足取りで歩きはじめました。


 そうして一行はラーシュの開けた穴から繭を出ると、冷たい霧が漂う広間を横切り、壁に沿って造られた階段をあがって、ルアフたちが待っている縦穴の底に戻りました。


「タルナール・カヴ!」


 階段をのぼりきると、そこにはルアフだけでなく、大勢のトゥーキーがおりました。いえ、大勢どころではありません。水浴びの途中だったのか身体を濡らしている者。くちばしに金属の道具をつけたままの者。灰色の羽毛を寄せあう子どもたち。差し渡し七、八百歩ほどある縦穴の底には、実に数千のトゥーキーがひしめいておりました。


 トゥーキーたちは多かれ少なかれ、エルの言っていたアル・アモルの侵入を感じ取っているのでしょう。みな落ち着かなげに囁きを交わしたり、ぶるぶると羽毛を震わせたりしておりました。しかしタルナールたちが現れると、それに気づいた者から神妙さが伝播して、緊張感を伴った沈黙があたりを支配しました。


 そして一行からさほど離れていない場所には、ひときわ立派な護衛につき添われた、老レヴィッドの姿もありました。


「エルトラよ。そしてエルトラの子らよ」


 老レヴィッドが掠れた、しかし厳かな声で言いました。


「滅びがやってきた。災厄がやってきた。それはここからはじまったが、あなたたちが住む場所に現れた」


「エルから聞きました」と、タルナールは言いました。「僕たちはいまから街に戻って、人々に危機を伝えなければなりません」


「タルナールの街、行く!」と、ルアフが声を張りあげます。


「すまない、ルアフ。いまは少し――」


「エルトラの子よ、彼を連れていきなさい」


 意外なことに、老レヴィッドがルアフの肩を持ちました。


「彼だけでなく、彼のきょうだいたちも連れていきなさい。そこに広い空があるならば、彼らの強い翼がきっと役に立つ」


 タルナールは戸惑いました。もしアモルダートの人々がトゥーキーたちを見れば、きっと面倒なことになるでしょう。襲われたり捕まったりとまではいかなくとも、一行の行動に差し支えるかもしれません。


 しかし、老レヴィッドの確信に満ちた言葉が、タルナールの気持ちを揺り動かしました。ほかのトゥーキーよりも強い霊感を持ち、老練で慎み深い彼がこう言うのです。もしかするとないか強い確信を抱いたうえで、ルアフの帯同を勧めているのかもしれません。


「連れていってあげよう、タル」と、ネイネイが言いました。「ルアフだって、あんなに頑張って〈禁じられた塔〉をのぼったんだから」


「シャルカン陛下あたりが欲しがらないといいけど」


 タルナールはそう言いつつも、老レヴィッドの勧めに従うことを決めました。


「ルアフ、一緒に行こう。君のきょうだいは?」


「ヨ・エヴク!」


 ルアフがそのように叫ぶと、トゥーキーたちの中から三人が進み出ました。ひとりはルアフより大柄、ふたりはやや小柄です。彼らは思いがけない機会を得られたことに興奮しながら、どたどたとタルナールたちの傍に寄ってきました。


「あなたたちによい風が吹くように」と、老レヴィッドが言いました。周囲のトゥーキーたちもいっせいに翼をはためかせ、同族と人間たちの前途を祝福しました。


 さて、エルと四人のトゥーキーを加え、合計九人にまで膨れあがった一行。どのようにしてアモルダートへ帰ろうか、とネイネイを中心に相談しておりますと、解散しかけていたトゥーキーたちの幾人かが、縦穴の闇を見あげて叫びました。


「ニシュム・エヴク!」


 その声に含まれる剣呑な響きを聞き取ったタルナールは、慌てて彼らの目線を追いました。するとなにやら銀色に光るものがひとつ、縦穴をおりてくるではありませんか。


 さきほどエルから不穏な話を聞いたばかりですから、一行の警戒感は否応なく高まります。ラーシュがザーランディルを構え、エトゥが弓矢で狙いをつけます。タルナールも短槍の柄を握りしめ、咄嗟の事態に備えました。


 しかしエルの冷静な言葉が、人間たちを臨戦態勢から引き戻します。


「あれは妖霊です。敵意は感じません」


「妖霊?」


 タルナールは目を凝らしながら、近づいてくる光の正体を見極めようとします。それはある高さで動きをとめたかと思うと、一転してものすごい速さでらせんを描き、あっという間に縦穴の底、エルの眼前に着地しました。


 光の正体。それは銀色の炎に包まれた麗しき妖霊の姫、ドゥーザンニャードでありました。


「エルトラさま! エルトラさまではありませんか! どうしてタルナールたちと一緒にいるのですか? それに、このずんぐりした鳥の群は? あら嫌だ、わたしったらいきなり現れてとんだ無礼を――」と、彼女は慌てて跪きました。「その御姿をふたたびお目にかかることができ、このドゥーザンニャード、恐悦の至り――」


「落ち着いて。落ち着きなさい、ドゥーザンニャード」


 エルは跪いた妖霊の姫のもとにしゃがみこみ、その肩に触れて顔をあげさせました。


「あなた、本当にあのドゥーザンニャード?」


「はい。この場所を建造する大事業の折、不遜にもあなたさまに刃向かったあのドゥーザンニャードでございます。このたびは――」


 それにしても、あのドゥーザンニャードがここまでへりくだるとは、往時のエルが誇っていた権勢や力量――あるいは反乱鎮圧の苛烈さ――が知れるというものです。


「ドゥーザンニャード。爛漫なる妖霊の娘よ。どうかそんなにかしこまらないでください。私はかつてあなたを罰しましたが、それはすでに遠い過去のこと。私はもはやあなたにかしずかれるような存在ではなくなり、世界の情勢も随分と変わりました。ところで事業が終わったあと、あなたは郷里に帰ったのではないのですか? どうしてここにいるのですか?」


「ええ、まあ、それが、色々とありまして……」


 どこから説明してよいか悩む様子のドゥーザンニャードに対して、焦れた様子のラーシュが険しい顔で尋ねました。


「そんなことより、アモルダートはいまどうなってる?」


「控えなさい! エルトラさまの御前ですよ! これだから蛮人は――」


「いいえ、ドゥーザンニャード。そちらの方が重要な用件です。答えてあげてください」


 ドゥーザンニャードは形のよい眉をひそめて戸惑いを示しながら、ラーシュとエルを交互に見遣ります。少ししてなにやら事情があるようだと察したらしい彼女は、こほんと軽く咳払いをしてから、重々しい口調でこう言いました。


「あなたたちの言っている街ですけどね。いまはもう、ありませんよ」


「どういうことだ」


 気色ばんだラーシュを燃え盛る指先で制止して、ドゥーザンニャードは説明を続けました。〈魔宮〉の入口から夜の獣が溢れて人々を襲ったこと。ダバラッド軍が討伐を試みたが逆に壊滅させられてしまったこと。そして〈病人街〉だった場所から身の毛もよだつ存在――六つの翼を持つ盲目の大長虫――が現れたこと。


「子どもたちは」と、エトゥが喉の詰まったような声で尋ねました。「避難した人間の中に、孤児院の子どもたちはいなかったか」


 話の腰を折られて憤りかけたドゥーザンニャードでしたが、彼の切羽詰まった顔を見て、やや同情を催したようでした。


「いいえ、見ていません。でも、避難民の多くはウシャルファという街へ向かったようですから、そこで会えるかもしれませんよ。心配かもしれませんけど、あまり悲観的に考えないでね。ウシャルファにはいまダバラッドの軍隊が集結していて、防備を固めています。


 なにからって? それはもう、溢れ出した獣の群に決まっています。上空からちらりと見た限り、ざっと五千くらいはいたかしらね。でもきっとまだまだ増えるでしょう。群はまだアモルダートに留まっているけれど、いつまでもそうしてはいないと思うわ。


 なんにせよ、あの場所はもはや街とは言えません。この世のものとは思えません。硫黄の煙に覆われて、建物も石畳も、すべて黒い結晶に覆われてしまいました」


 そう言ってドゥーザンニャードが身を震わせると、彼女が纏った銀色の炎も、恐怖を示すように勢いを弱めました。


「ウシャルファに行かないと」


 エトゥの言葉に、ラーシュも賛成します。


「まずは状況を確かめよう。俺たちになにができるかは、そこから考えればいい。ネイネイ、地上までの門を頼めるか」


「やってみるけど、この人数は……」


「わたしが手伝ってあげましょう。感謝するのですよ」と、ドゥーザンニャードが恩着せがましく言いました。「ですが、そこまでです。わたしは急いで国に帰らないといけませんからね」


 少しばかり薄情な気もしましたが、ここで苦情を申し立て、臍を曲げられても厄介です。タルナールはひとまず帰還を助けてくれることに感謝を示し、さらなる要求は控えることにしました。


「さあさあ、そうと決まったらぎゅっと集まりなさい。エルトラさまはどうぞ、わたしの傍へ来てくださいな。到着するまで、手を伸ばしたり翼を広げたりしてはいけませんよ。岩にぶつかって折れちゃいますからね。それでは――」


 直後、タルナールは自分の足が地面を離れ、身体が大きく揺れるのを感じました。大人数であるせいか、前回ドゥーザンニャードに運ばれたときよりも荒っぽい気がします。傍らにいる誰かの腕を掴むため握っていた短槍を手放すと、それは放たれた矢の如く、下方へとすっ飛んでいってしまいました。


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