第六十七夜 エル -4-
記憶を取り戻した直後にはつい昂ってしまいましたが、実際に私が宮殿を去るまでには、少し間がありました。
なにせ広大な王国でしたから、商店の手じまいとはわけが違います。将来の腐敗や破滅を避けるためとはいえ、私がひと晩のうち消えてしまえば、大混乱が巻き起こることは想像に難くありません。下手をすれば王国がいくつにも分裂して、果てのない内戦が生じる危険さえあったでしょう。
誰が権力を継承するのかについては、ザラッドと何度も相談を重ねました。もし二十年前であれば、これはとても悩ましい問題だったでしょう。しかしいまや比肩するもののない大国となったダバラッドは、たくさんの優秀な人材を抱えていました。
その中でも特に適当と思われたのは、ザラッドの遠縁の、そのまた姻戚であるひとりの若者でした。彼は二十歳を過ぎたばかりでしたが、既に重要な事業をいくつも受け持ち、部下や民からの信頼も篤い人物でした。私が記憶を取り戻す前からも、ゆくゆくは大臣として取り立てて、政の全般を補佐してもらおうと思っていたほどです。
ザラッドには引き続き近衛の騎士団長として、王を補佐してもらうことに決まりました。私から彼への贈り物として、守護者の称号、そして特別な金属でできた剣を与えました。王国に危機が訪れたときにそれを抜きなさい、と言い含めて。
そういった内々の準備を整えたあと、私は民に退位を告げました。長すぎる治世は必ずや災いを招く。ゆえに私はこの世界を去る。そのような旨の知らせを、王国の隅々まで届けさせました。不可解に思った者は多いでしょう。しかし私は愛する人々に、あまり派手な嘘をつきたくなかったのです。
加えて、私は自分に関するさまざまな記録の抹消も命じました。公的な文書を燃やし、各地にある彫像や石碑を壊し、吟遊詩人には私のことを歌わないよう触れを出しました。
民の心に残る記憶については、ひとりひとり消して回ることもできませんので、彼らが子、孫、曾孫と代替わりを繰り返すうちに、段々と薄らいでいくのを期待することにしました。
ひと通りの仕事が終わってから、私はザラッドに最後の別れを告げ、供も護衛もなく宮殿をあとにしました。この世界を出ていく扉を造る場所は、既に目星をつけてありました。まさにこの場所、エイブヤードの地下深くです。
建造物に名前はつけませんでした。しかし語るにあたっては不便ですから、仮に無名宮と呼ぶことにしましょう。
無名宮の建造には妖霊たちの力を頼りました。地下に広大な空間を掘るために必要な技術や労力は人間の手に余りましたし、もし人々を集めてそのような大事業をおこなえば、せっかく抹消した私の名がまた広まってしまうからです。私は前もって妖霊の王に事情を話し、大勢の部下を借りる約束を取りつけていました。
魔術を得意とする白銀の妖霊たちと、腕力に長ける青銅の妖霊たちによって、無名宮の建造は進んでいきました。しかし彼らの中には気分屋だったり荒っぽかったりする者も多く、作業を滞りなく管理するのにはとても苦労しました。
どのような原因だったかは覚えていませんが、一度は反乱紛いの事件が起こったことさえあります。そのときの首謀者は罰として壺に封じておきましたが、しばらくしてから解放してやるよう命じたので、いまはきっと自由にしていることでしょう。
そして建造をはじめてから千日ののちに、無名宮は完成しました。地中より豊富なエーテルを汲みあげる仕組み、それを運ぶための水路、大きな流れはやがてこの場所に至り、別世界への門を開く力となる。そして私は門を通り、愛すべきこの世界に別れを告げる。人ならざる身で支配し君臨した罪は雪がれ、未来への憂いは晴れる。
ああ、そうなればどれだけよかったことか。
私は愚かにも、門の先になにがあるのか、慎重に考えることをしなかったのです。
これから行く世界が荒涼としながらも穏やかで、先住の生き物がいるとしても、大した力は持たないだろう。私は彼らを支配するのでなく、無害で善良な隣人として、慎み深く暮らすことにしよう。私がしていたのは、そのようなおめでたい想像だけ。
それはあまりに救いがたい浅慮でした。
私は別世界――いえ、ここからは異界と呼びましょう――そこへとつながる門を開くことに成功しました。私は少しばかり場景を目にしただけに過ぎませんが、異界は鮮やかで美しく、誰にも干渉せず穏やかに暮らすには、まずます好適な世界であるように思えました。
しかし、それは誤りでした。異界には私でさえ身を凍りつかせるような、並外れた存在がひそんでいたのです。
あえて形容するならば、六つの翼を持つ盲目の大長虫。〈それ〉は異界の神とも呼べるものでした。〈それ〉はいにしえの種族のもっとも強大な者に匹敵するほどの力を持つ、危険な存在でした。
〈それ〉は私が門を開いたのを察知しました。そしてあろうことか、この世界への侵入を試みたのです。
もちろん、私は急いで門を封印し、〈それ〉が入り込んでこようとするのを必死に防ぎました。私の力は明らかに劣っていましたが、幸いにして無名宮の力を利用することができましたので、なんとか〈それ〉の本体を押し込めることに成功しました。
しかし〈それ〉は器用にもわずかな隙間を突いて、存在の一部をこの世界に滑り込ませたのです。
この世界に顕現した〈それ〉の一部――仮に、アル・アモルと呼ぶことにしましょう。異界よりのもの、という意味の言葉です。
アル・アモルが地上でどのような害をなしたか、地下深くで門の封印に必死だった私が、つぶさに知るのは不可能でした。その害が除かれるまでには、おそらく多大な犠牲が払われたに違いありません。
私はまた罪を犯したのです。今度こそ、本当に取り返しのつかない罪を。
ですが、絶望に打ちひしがれている余裕はありませんでした。せめて本体は門を通すまい、と私は力の限りを尽くして〈それ〉を防いでいました。
やがてこの世界からアル・アモルの気配が消えると、〈それ〉もやや意気が萎えたと見え、少しずつ力を弱めていきました。しかし私が優位になったかというと、決してそうではありませんでした。
〈それ〉と対決し続けたことと、人々の記憶から薄れていったことで、私も力を失っていったからです。私はまた〈それ〉が力を強めたときのために、少しずつ門の封印を補強し続けました。力の消費を抑えるために自らを休眠状態とし、この繭の中でまた長い時間を過ごしました。
それからいままでに、三つの変化がありました。
ひとつ目はトゥーキーたちがやってきたことです。彼らは〈それ〉と同じく異界からやってきた存在でしたが、〈それ〉よりも小さく弱かったため、わずかに開いた門の隙間から、この世界に入ることができたのです。
はじめは数も少なく、害もありそうに思えませんでしたので、無理やり排除するようなことはしませんでした。やがてトゥーキーたちはこの場所のすぐ上に街を造り、平和に暮らしはじめました。彼らの中には霊感の優れた者が多く、私の存在を感じ取ることがありましたが、互いに過度の干渉は避けていました。
ふたつ目の変化は、ひとつ目に付随するものです。トゥーキーたちのほかに、この世界へと入り込んできたものがあったのです。その生き物は色なきものと呼ばれていました。トゥーキーたちに比べると遥かに狂暴で危険な存在でした。
おそらくは〈それ〉の眷属であろうと思われ、本来ならば排除しなければならないものでしたが、トゥーキーたちはそれを狩って骨や皮を利用していましたし、さきほど言ったように、彼らへの干渉はできるだけ避けたいという気持ちがあったので、ひとまずは放っておくことにしました。しかしいま思えば、なんらかの方策を採っておくべきでした。
三つ目は、比較的最近起こった変化です。あなたたちもよく知っていると思いますが、無名宮がふたたび人々に発見されたことです。色なきものたちが掘り進んだ洞窟を誰かが見つけ、その者に送り込まれた大勢が奥へと進み、やがてひと握りの勇敢な者たちが、この無名宮の入口に辿り着いたのです。
人々がより多く、より深くまで入り込んだことで、無名宮に施されていた繊細な魔術が乱され、門を押さえる力は弱まりました。ですが、あなたたちがその一因となったとして、責めるつもりはありません。多少の時間は要したとしても、無名宮が発見されたときから、こうなることは避けられなかったのです。
結果として、なにが起こったか?
〈それ〉が封印の弱まりに気づいたのです。
〈それ〉がどうやってこの世界への侵入を果たそうとしているのか、はっきりとは分かりません。しかしながら、単純な力押しでないのは確かです。既に〈それ〉の一部、かつて害をなしたアル・アモルと同じものが、地上に現れ出ようとしているのを感じます。そして〈それ〉の眷属たる、大量の色なきものも。
長く話してしまいましたが、いまあなたたちに伝えなければならないのは、まさにこのことです。どうか急いで地上に戻り、人々に危機を伝えてください」




