第六十六夜 エル -3-
ザラッドと私が取り戻した国は、古くから肥沃なオアシス地帯で育つ穀物と、種々の香料の生産で栄えていました。土地にも民にも力があり、また交易の要衝でもありましたので、いったん情勢が安定しさえすれば、圧政による荒廃を取り除くのはさして難しくないだろうと思われました。
王となった私はまず、これから治めることになる国に新しい名を与えました。これまで使われていたものに代わり、〈豊穣の地〉という意味を持つダバラッドという名を。
そして私は慣れない生活の中で、民が明るく楽しく暮らせるよう、一生懸命に政をおこないました。ザラッドは近衛の騎士団長として私の傍に侍りながら、なにかと相談に乗ってくれました。
はじめのうち、民は私をあまり尊敬しませんでした。王座を取り戻すための争いにつきあってくれた者たちを除けば、周辺にさえ味方は多くありませんでした。先々代の王が存命だったときからいる代官などは、あからさまに私を侮り、軽んじました。
とはいえ私の容貌と出自から考えれば、いきなり尊敬せよというのも無理な話です。旅をしていた時分にはよく体験したことでもありましたから、私は特別に気分を害するということもありませんでした。
しかし昔と違うのは、私が放浪者から王になったということです。王として立ち回るうえで、他者から承認されることの効用は決して無視できないものでした。一時期、私はどのように威信や尊敬を獲得すればよいか、思い悩んだ時期もありました。しかし結局、善政に若くものはないとの結論に至り、以降は民の心に任せました。
幸運や気候にも恵まれて、国は急速に大きくなりました。民はたくさんの子を産み育て、また国の外からも続々と人が集まってきました。私は彼らが路頭に迷ったり、野盗と化したりしないよう、仕事を与え、住む場所を世話してやりました。ダバラッドの評判が広まると、近隣の都市や村落の方から、従属を申し出てくるようなこともありました。
私が王となって十年も経つと、かつて全土を覆っていた荒廃は一掃され、ダバラッドは立派な国に成長していました。規模だけで言えば、もはや妖霊たちの国にも劣らないほどに。もはや私を侮る者はいなくなりました。私は民より〈唯一なる者〉の称号を贈られ、唯一なるエル(エルトラ)と呼ばれるようになりました。
国が大きくなるにつれ、政務の量も増えました。私は紛争を公正に解決できるよう法を整え、貧者が飢えぬよう富を分配し、治水や開拓の事業を指揮しました。宮殿の中に医者の詰め所や図書館を作り、病んだ人々や学ぶ意欲のある者に開放しました。
民の陳情にはできるだけ耳を傾け、多くの者の意を酌むようにしました。そしてときにはザラッドとともに軍を率い、交易路や領土を脅かす敵と戦いました。
心を砕いて政をするうち、私は民を心から愛するようになっていきました。もとからそこにいた者も、新たに移り住んできた者も、征服や従属によって民となった者も、私は等しく愛しました。夫を持たず、子を生すこともなかった私ですが、宮殿の窓から王都の街並みを見遣れば、いつも百万の家族がそこにいたのです。
しかし民同士は必ずしも互いを愛しませんでした。人が集まるところには必ず憎しみや強欲があり、卑劣な犯罪が起こりました。だから私はときとして冷たい為政者の仮面を被り、彼らを厳しく罰しなければなりませんでした。
戦争に関しては言わずもがな、寛容と慈悲で収められる場面は限られていました。誰も見向きすることのない、小さく貧しい国ならば、あるいは争いと無縁でいることもできたでしょう。
しかしダバラッドが年々豊かになり、地図の上でも随分目立つようになると、小規模な馬賊の集団から万の歩兵を擁する強国まで、富を切り取り、あるいは国を丸ごと奪おうとする者の影が消えることはありませんでした。
私は軍を率い、多くを殺しました。破壊の魔術で自ら手をくだすこともありました。
心の痛むことはほかにもたくさんありました。しかし王としての生活には喜びもありました。ザラッドと各地を放浪していたときに味わったものとはまた違う、育み、築きあげる喜びが。
私が王となってから、いつのまにか二十年が経っていました。
ダバラッドの版図は広がり、同盟国や自治領を含めれば、その勢力圏は北西の地峡から、遥か東の大平原にまで及びました。国が安定するにつれ規模の大きな争いは減り、人々は平和を享受できるようになりました。
王都では文化と芸術が花開きました。縦横の交易路に商品が行き交い、酒場では陽気な歌が聞かれました。
拡大がひと段落すると、政務にも少し余裕ができました。そこで私は、一度諦めた仕事にふたたび取りかかることにしました。忘却の霧の中に置き去られた、己の出自を明らかにすることです。
とはいえザラッドとの旅の中で、ふつうに考えつく手段は採り尽くしていました。エイブヤードの高峰を訪れたり、妖霊たちに尋ねたり、古代の石碑を読んだりしても、真実を得ることはできていなかったのです。
しかしその過程で、私はアル・カラムたちの存在を知り、彼らが関わっているのではないか、とまでは推測できるようになっていました。ですがこのときはまだ、自分が彼らと同じいにしえの種族である、ということにまでは思い至っていませんでした。
いま考えれば、気づかないようにしていただけなのかもしれませんが。
ともかく、私は自分の記憶を取り戻すための研究に本腰を入れはじめました。それはとても複雑な魔術ですから、詳しく説明することは避けますが、いにしえの種族が住む別天地から、私の記憶を盗み出すようなものと理解してください。
この二十年間、私は生活のほとんどを政務に費やしていましたが、魔術師としての力量は衰えることなく、むしろ増大の一途を辿っていました。ふつうの人間なら考えられないことですが、かつてアル・カラムたちがそうであったように、いにしえの種族は他者の承認によって力を得ます。人間の姿を与えられた私にも、その性質は受け継がれていたのです。
そして数年に渡る研究と実験の末、いよいよそのときがやってきました。
私は宮殿に設えた特別な間で、最後の準備に取りかかっていました。必要なものを漏れなく揃え、床に記した呪文に間違いがないかを確認し、頭の中で何度も手順を反復していました。複雑な儀式を伴う魔術では、小さな甲虫の羽ばたきひとつですべてが狂ってしまうようなこともありますから、ささいなことにも細心の注意を払わなければなりません。
儀式の場には私しかおらず、部屋には魔術で二重の結界を張り、唯一の出入口となる扉の外には、もっとも信頼できる見張りのザラッドひとり。不確実なことは起こりようがないと思われました。
しかし薄暗がりの中、私はかすかな気配を感じました。振り返ってみれば、どこから入り込んだのやら、そこには一匹の鼠がうずくまっていました。黒くもつれた毛を持つ、大きな、老いた、醜い鼠でした。
鼠は私に気づいても逃げることなく、それどころかこちらをじっと見返し、掠れた、低い、不吉な、しかしはっきりとした声で――紛れもない人間の言葉で――こう言ったのです。
お前が罪を知るときだ。
そのときの恐怖はどうやっても言葉にすることができません。私は咄嗟に魔術で鼠を燃やしました。紅蓮がその体を消し炭にし、悪臭を伴う白い煙がすっかり散ったあとも、私の動悸はなかなか収まりませんでした。鼠の言葉が耳に残って離れませんでした。
ふつうならばこの時点で予定をとりやめにするか、はじめから準備し直すのですが、私はなぜだか強い焦燥に駆られ、そのまま記憶を取り戻すための魔術を強行しました。
幸いにして、魔術それ自体はうまく効果を発揮しました。私の肉体はエーテルの糸となり、さらに解きほぐされて風となり、はるか天球の向こうまで舞いあがって、星の渦の中に浮かびました。
私はすでに秘密の名を知っていましたので、大きな困難もなく別天地に忍び込むことができました。そして防護の施されたとある場所から、自分の記憶を盗み出すことにも成功しました。
自らの記憶に触れたとき、私は千本もの雷に撃たれたかのような感覚に陥り、そのまま気を失ってしまいました。ひとつの物事を思い出すのとはわけが違います。いにしえの種族としての記憶は、たくさんのものが詰め込める私の頭にとっても、なお危険なほどに過大な量だったのです。
この種の魔術の途中で気を失うのは致命的なことです。大抵はそのまま吹き散らされて消えてしまうか、頭がおかしくなってしまうかのどちらかでしょう。
しかし私はそのどちらの末路も辿ることなく、気づいたときにはもとの肉体、もとの場所へと戻っていました。いまになって考えてみると、易々と記憶を盗み出せたことも含めて、アル・カラムたちによる意地悪な計らいがあったのかもしれません。
ともあれ私は記憶を取り戻し、自らの罪を知ったのです。
お分かりでしょう。それは支配の罪。君臨の罪。人ならぬ身で人の世を治めようとした罪です。
はじめ、私は大陸にいくつもある国の王に過ぎませんでした。しかし二十年の治世でダバラッドは繁栄し、近隣に比肩するもののない大国となりました。はじめのような侮りはなくなり、敬意と畏怖がそれに替わりました。
いえ、ありていに言えばそれは崇拝でした。王の中の王となった私を、現れたときのまま衰えることのない私を、神に等しいものとして崇める者が少なくなかったのです。
世界の叡智を集め、魔術を極めた者。盤石な体制を敷いた不老の王。そのような存在が世界を治めるということが、なにを意味するのか。
人々は変化の機会を失い、歩むのをやめて腐敗していくのか。あるいは膨らんだ泡が弾けるように、破局的な終末が訪れるのか。それともいつかいにしえの種族に匹敵する存在となり、苛烈な争いを起こすのか。
どうなるにせよ、その事態は私がもたらすことになるのです。私はいずれ腐敗の主となり、破滅の導き手となり、終末戦争の帥となるのです。たとえその宿命に抗い、百年は善政を敷いたとしても、二百年後、千年後は?
記憶を取り戻したこと自体が迅雷の衝撃ならば、その中身を知ることは樽いっぱいの硫黄を飲み干すような苦痛でした。かつて非難したアル・カラムたちの所業を、ほからならぬ私自身が再現していたことに気づいた私は、しばらく身体の震えをとめることができませんでした。
ようやく少しは動けるようになり、ひどく狼狽えながら儀式の間からまろび出ると、外で待っていたザラッドに抱きとめられました。そのまま彼に担がれて寝室へ運ばれると、すぐに大臣や典医たちも駆けつけてきました。おそらく相当どひどい状態に見えたのでしょう。しかし私は治療を断り、みなをさがらせました。
ただひとり、ザラッドを除いて。
私は柔らかい寝台から身を起こし、取り戻した記憶、自らの罪、そして未来への憂苦を彼に語りました。
ザラッドはすべてを黙ったまま聞いたあと、言葉を尽くし、手を握り、私を慰めてくれました。そして、なにがあっても自分はエルの味方でいる、と請けあってくれました。
私はその優しさに甘えて、随分と久方ぶりの我儘を言いました。四十年の長きに渡る彼とのつきあいの中でも、指折りの大きな我儘を言いました。
あなたにダバラッドを任せたい、と。もし王になりたくないのなら、あなたが適任だと思う者を選んでほしい、と。
エルはどうするつもりなのか、とザラッドは尋ねました。
去らねばならない、と私は答えました。かつていにしえの種族が、竜が、妖精が、小人がそうしたように、この世界ではないどこかへ行かなければならない。私という存在がこれ以上世界に長居すれば、必ずや取り返しのつかない災厄を招く。それを防ぐためには、すべての未練を断ち切り、永遠に去らねばならない、と。
ザラッドは長らく考え込んでいましたが、やがて口を開きました。友よ、これまで重荷を背負わせてすまなかった。親愛なる友よ、私は君と旅したこの地を、君が育てたダバラッドを、この命にかけて守護することを誓おう。彼はそのように言いました。
私は泣きました。ザラッドの胸に縋りついて泣きました。これもまた随分と久方ぶりのことでした。彼との別れは、半身が引き裂かれるよりも辛いことでした。ザラッドは泣きませんでしたが、私の背に回された手には力がこもっていました。
けれど、私は行かなければなりません。それはザラッドも理解していたと思います。なにせ四十年も一緒にいたのです。彼が深く聞くことも引き留めることもしなかったのは、そうしなくても心のうちが分かるからです。
少しして私は幾分か冷静さを取り戻し、心配そうな顔をするザラッドに、もう大丈夫だと告げました。それから早速、この世界から去る準備に取りかかりました。自分という咎人を、この世界から追放する算段を立てはじめました。