第六十四夜 エル -1-
〈病人街〉より出でた巨獣、そして街を覆い尽くさんばかりの大群に、ダバラッド軍が建国以来の無残な潰走を経験した少しあとのこと。
慄然たる不浄の巷と化したアモルダートの南方、エイブヤード直下の〈魔宮〉内部にて、タルナールたちは石彫都市で老レヴィッドとの会談を終え、いよいよ巨大な縦穴の底に開いた入口から、エルトラに対面せんと階段をくだっておりました。
見渡すことのできる空間は、全体の形としてどこか〈病人街〉に似通ったところがありました。
ゆるやかに弧を描く雪花石膏の壁が成すのは、差し渡し二百歩、深さ建物四階分の潰れた円筒形。底面は清浄な気配を放つエーテルの霧に覆われ、その中央あたりにひとつ、巨大な白い繭のようなものが鎮座しています。
エトゥが拳ほどのアモル石を放りますと、それは底に当たって硬い音を立てました。
ひとまず、深淵が口を開けているということはなさそうです。
一行は壁の内側に沿って設えられた階段をくだりきり、霧のわだかまる床の上に立ちました。タルナールがしゃがみこんで探ってみれば、そこには髪の毛よりも細い白銀の糸が無数に折り重なり、不織布のようになっておりました。
白銀の糸は一本一本が金属のように強固で、それらで覆われた床にはへこみも亀裂もありませんでしたが、タルナールはどうにも確かな足場と信じることができず、おっかなびっくり進むことになりました。あたりにわだかまる霧は非常な低温で、これもまた寛ぎとは対極の気分を催させます。
しかし浮足立ってしまうのはやはり、ここが〈魔宮〉の深奥、という感慨があるからでしょう。旅の終着。エルトラとの対面。のんびりと構えられるはずもありません。ラーシュも、ネイネイも、エトゥも、ここまでやってきた目的は少しずつ違えど、それぞれ深く思うところがあるはず。
ほかにめぼしいものもありませんでしたので、一行は空間の中央に見える白い繭へと近づいていきました。
巨象をも軽々と連れ去る怪鳥が卵を産んだのなら、きっとこれくらいの大きさでしょう。その表面は床と同じく、白銀の糸が幾重にも絡まりあって殻のようになり、内部を窺うことはできません。
さてどうしたものか、とタルナールが考えていると、ラーシュがおもむろにザーランディルを構え、その切先をぴたりと繭に当てました。
ネイネイはそれを見てなにか言いかけましたが、ラーシュの動きが確信に満ちたものだったからか、結局は口を挟むのをやめました。タルナールもまた彼の邪魔をしないよう、一歩さがってもしもの事態に備えます。
ラーシュは繭の硬さ厚さを推し量るように目を細めたあとで、上段の構えから二度、腰だめの構えから一度、目にもとまらぬ速さでザーランディルを振りました。
彼はあっという間に人ひとりがくぐれるほどの穴を開けると、剣撃の残響が消え去らぬ間に、躊躇なく繭の中へと乗り込んでいきました。タルナールたちもあとを追うようにして、鋭利な繭の断面で手足を切らないよう、穴の縁を乗り越えるようにして中へと入ります。
内部はとてもがらんとしておりました。あたりは源の知れない光で満たされ、銀糸の壁がきらきらと眩しいほどでした。そこは古めかしくも現代的でもなく、紛れもない驚異でありながらどこか優しく、聖性と魔性の両方を備えた、とても不思議な空間でした。
薄明りに馴れてしまった目を瞬かせながら、タルナールが先行したラーシュの姿を探しますと、彼は繭の中央あたりでザーランディルを放り出し、誰かの小柄な身体を抱きあげているところでした。
「……女の子?」と、ネイネイが呟きます。
そう。ラーシュが抱えているのは、せいぜい十四、五にしか見えない少女でした。腰に届くほど長い白銀の髪、没薬にも似た褐色の滑らかな肌。顔かたちは美しく、どの国の人間とも違っていましたが、どの国の人間とも似たところがありました。
彼女はぐったりと目を閉じ、華奢な身体をラーシュの腕に預けています。身につけている純白の長衣は薄くしなやかで、特別な代物であることは明らかでしたが、そのほかに装飾品などはなく、身分を示すようなものもありません。
「その子が、エルトラ王? 私、もっといかつくて、ひげもじゃの――」
「生きてるのか?」と、エトゥが言いました。
「どうだ? ラーシュ」と、タルナールは尋ねます。ラーシュはさきほどから神懸ったような状態になってしまっていて、ひと言も口をきいておりませんでした。
心配して近寄ったところで、少女がわずかに動きます。
彼女はラーシュの腕を頼りながら身を起こし、ゆっくりと目を開きました。その潤んだ琥珀色の瞳から、右と左でひとしずくずつ、涙が頬と顎を伝い、長衣の胸元を濡らしました。
少女は泣いていました。それはまるで悲しい夢を見たあとのようでした。
「あなたが……、その、エルトラ王?」と、タルナールは尋ねました。
少女は頷き、なにか言おうとして喉を押さえました。タルナールが革袋から水を飲ませてやりますと、彼女はようやく声を発することができるようになりました。
「私は……確かに、かつて私はそう呼ばれていました。しかしいまやどのような称号にも値しません。エルという名前の、ただの咎人です」
「そうか、じゃあ、本当に……」
彼女こそがエルトラ王。彼女こそが〈魔宮〉の造り主。タルナールが想像していたのはネイネイと同様、限りない威厳を備えた白髪の老爺でしたから、目の前にいる少女の姿はとても意外なものでした。
「起こしてくれてありがとう」と、エルはラーシュの方を向いて言いました。「それから、ごめんなさい。懐かしい気配がして、ついあなたを呼んでしまいました」
「懐かしい?」と、ラーシュが怪訝な顔をします。彼はいつのまにか正気に戻り、少女の顔をじっと見つめました。「悪いが俺には覚えが……」
「ええ、きっとそうでしょう。私はその剣を……。いえ、順を追って話した方がよいでしょう。伝えなければならないことがたくさんあります」
「色々話してくれるのは願ったりだが……」と、エトゥが言いました。彼はまだ少し、エルを警戒しているようでした。「いったん、上に戻るか?」
「ルアフたちが騒ぎそう」と、ネイネイが懸念を示します。
「では、しばらくここで話しましょう」
そう言うと、エルがそっと床に触れ、静かに呪文を紡ぎました。
するとどうでしょう、細い銀糸の表面から、青々とした苔が生じはじめました。それはどんどん面積を増し、すぐに繭の内側をすっかり覆ってしまいます。苔はふかふかと柔らかく、よい香りがして、あたりの寒さを随分と和らげてくれました。
さらにエルは手を空中に掲げ、指先に火を灯しました。それは熾のように穏やかな熱を発しながら、腰ぐらいの高さにふわりと浮かび、みなの身体を温めました。
「私はかつて持っていた力のほとんどを失いました」と、エルは言いました。「いまできるのは、せいぜいこの程度です」
「エルトラ王、僕たちは――」
「どうか、私を王と呼ばないでください。私にその価値はありません」
タルナールはその口振りに、謙遜や親しみやすさとは別の、なにか切実な様子を感じ取りました。過去になにがあったのかは知れませんが、どうやら王という称号も、王として敬意を払われることさえも、彼女の心に痛みを与える棘となるようでした。
「じゃあ、エル」と、タルナールは努めて気さくに言い直します。「僕たちはそれぞれ目的の違いはあるけど、〈魔宮〉――この遺跡がどうして作られたのか、一番奥にはなにがあるのかを調べていたんだ。ここがそうなのか? 君が本当にこの遺跡の主なのか?」
「そうです」と、エルは頷きました。「この場所こそが最奥。この場所こそが真髄。この場所でこそ、私の目的が果たされるはずだったのです。王国を棄て、民を棄て、千の千倍に及ぶ妖霊の手でこの場所を、宮を造らせたのは――」
エルは悲しげに目を閉じ、言いました。
「私自身を、この世界から追放するためでした」




