第六十三夜 災禍の呼び声 -11-
「巨獣!」と、誰かが叫びました。
黒い体色、六つの肢といった特徴から、それが夜の獣と同種のものであることは疑いがありません。
しかしいま、汚泥の内側から生まれ出た数匹は、これまでにマヌーカが見たことも聞いたこともない、とてつもなく巨大な体躯を持っておりました。アズワハーシャがもともと意味するところの犀や象とも、およそ比べものになりません。
また姿かたちも奇怪でした。これまでに知られている夜の獣も大なり小なり奇怪ですが、それでもある程度、ふつうの獣たちと似通ったところがありました。
しかしいま、ゆらめく境界に向かって肢を伸ばしている獣たちは、山羊や猿や蜘蛛といったものより、もっと原始的で単純な生き物を思わせました。この世界がはじまったときから姿を変えずにいる、決して名づけられることのない存在――
「こっちに来るぞ!」と、誰かが叫びました。
その言葉通り、巨大な獣の巨大な腕が、指も節も持たない触腕が、不確かな境界を突破して、ぬるりとこちら側の世界に侵入してきました。強い硫黄のにおいがあたりに充満し、駱駝たちの悲鳴が一段と高まりました。
「矢を射かけろ! 殺せ! 殺すんだ!」
アズバァイルの引き攣った喚き声が聞こえます。彼が命じるまでもなく、既に幾人もが巨獣の触腕に攻撃を加えておりました。
しかしその大きさを考えれば、長弓の矢も縫い針と変わらず、曲刀の刃も薄皮を剥ぐのがせいぜいといったところ。押しとどめるのはまったくもって不可能でした。
すぐに長い触腕が穴の縁を掴み、巨獣の本体がゆっくりと身をもたげて、頭とも腹ともつかぬ部位についた洞のような目でもって、弱く愚かな人間たちを睥睨しました。
「退け!」
そのとき、シャルカンの声が響きます。
「攻撃は無駄である! 退却せよ!」
あえて狙ったものなのか、偶然発揮されただけなのか、守護者の号令は兵士たちの何割かを、いっとき正気に戻すだけの威厳を備えておりました、マヌーカもまた声のおかげで、悪夢のような光景から注意を引きはがすことができました。
ラッパが狂おしく吹き鳴らされます。兵士たちは駱駝で、あるいは徒歩でその場を離れ、市街の北に退却を試みます。
しかし圧倒的な存在を前にして竦んでしまった者、駱駝から振り落とされて足を痛めた者などは、次々に触腕の犠牲となりました。それはカリヴィラの宮殿にある柱よりも太く、象の鼻よりも柔軟で、いきりたった蛇のように素早く動きました。
ひとりの兵士が触腕に巻き取られ、裂け目のような巨獣の口に放り込まれると、軍勢の間には致命的な恐慌が起こりました。
六本の触腕を持つ巨獣。しかも一匹だけではありません。それらは境界の向こうから次々と侵入してきます。この場所に少しでも留まることは、すなわち死を意味しました。
シャルカンもはじめ全体の掌握を試みようとしましたが、すぐにそれが不可能であることを悟り、やむなく周囲の手勢だけを率いて、いましがた進んできた道を引き返しはじめました。
たった四半刻前まで高度な規律を保ちながら行動していた精鋭たちは、いまや烏合の衆と大差ありませんでした。そして多くが、死と恐怖の根源から少しでも早く遠ざかるため、てんでばらばらの方向に逃げ去っていきました。
災難はまだ続きます。
軍勢が統制を失ったのを見計らったように、夜の獣たちが大挙として姿を現したのです。穴から這い出した巨獣とはまた別に、犬、山羊、猿、仔牛、さまざまな大きさの数百匹が、マヌーカたちの退路を塞ぎ、あるいは横合いから襲い掛かってきたのです!
ああ、さきほどの戦いで不自然な数の群を見たとき、警戒しておくべきでした。気づくべきでした。なんらかの大きな意思が獣たちを動かしているということに、思い至っているべきでした。迂闊にアモルダートへ入るということは、罠の中に飛び込むようなものだと、勘づいているべきでした。
しかしもはや手遅れです。
北へ向かう大通りの途中で、マヌーカたちはすっかり包囲されてしまいました。
獣の牙が駱駝の脚に食らいつき、ねじれた角がその腹を突き刺します。ある獣は速度を緩めた駱駝によじ登り、騎手に掴みかかってその目を抉ります。
通り一杯に広がった群。数匹斬り伏せ、射倒したぐらいでは埒があきません。横道にも隙はなし。そして背後からは巨獣が迫ります。周囲の建物をなぎ倒し、押し潰しながら。
「立ちどまっている暇はないぞ!」と、シャルカンが曲刀を振り回しながら言いました。「恐怖に捕らわれれば死があるのみ! 進め、進め!」
そして彼は護衛が道を切り拓くのを待たず、獣の群に突っ込んでいきました。そうなれば部下たちも進まないわけにはいきません。巨人隊の指揮官が野太い声で突撃を命じると、二百の槌矛が勇ましくそれに呼応しました。
もはや陣形や戦術などといったものは意味をなしません。ただ全員が死に物狂いで血路を拓こうとしているだけです。アズバァイルさえ曲刀を抜いて、飛びかかってくる猿に応戦しています。
マヌーカは早々に邪魔な槍を捨て、自らの身体に宿る蛇を喚び出しましたが、それでも充分な対処はできません。一撃をなんとか凌いでも、すぐ次の脅威が迫ります。血飛沫と怒号と土埃で、周囲はあっという間に混沌の支配する場となりました。
そんな中でも、力を示したのは巨人隊でした。彼らの槌矛が閃くと、夜の獣の身体が傾ぎ、あるいはぐちゃりと音を立てて潰れました。彼らは武器が折れれば拳で、拳が砕ければ脚や頭で戦いました。
爪牙で傷つけられ、血みどろになってもひるむことなく、猛然と敵に向かっていきました。そして通常の兵士によっては成し得ない、獣の如き闘争によって、守護者のための細い隙間が辛うじて拓かれました。
「進め!」
掠れた声は、もはや誰のものかも分かりません。
辛うじて包囲を逃れられたのは、守護者とその手勢が二百騎ばかり。マヌーカもなんとかその後尾について脱出することができました。
それでもなお、安全圏まではまだかなりの距離を行かなければなりませんでした。途中、路地の死角から襲われたり、建物の上から飛びかかられたりして、一騎また一騎と落伍していきます。
ようやく市街の辺縁までたどり着いたとき、集団はおよそ百五十騎まで減っておりました。野営地を出発してきた頭数の一割に満たない寡勢。士気は壊滅、負傷者も多く、なんともみじめなありさまです。
しかし主君を逃がすため勇敢に戦った巨人隊、弓兵、それから散り散りになった数百騎が辿った末路より、萎れながら撤退する方がまだしも幸福でしょう。包囲を抜けられなかった者たちがどのような最期を遂げたのかは、まったくもって想像を絶します。
視界を遮る砂煙の中、しばらく泡を吹きながら走っていたマヌーカの駱駝は、やがて力尽きて膝をつき、そのまま動かなくなってしまいました。背中からおりて見てみれば、駱駝の尻がごっそりと食いちぎられているではありませんか。
「陛下! シャルカン陛下!」
痛む喉で声をあげましたが、呼びかけに応える者はありません。どうやら置いて行かれてしまったようです。ひとまずは、自力で野営地に向かうほかありません。マヌーカは方角に見当をつけ、夜の獣を警戒しながら歩きはじめます。
とぼとぼと進むうち、徐々に砂煙が薄らいできました。そのとき、風の音に混じり、ひどく不吉な咆哮を聞いた気がして、マヌーカは振り返ります。
するといましがた逃れてきたアモルダートの中心に、そびえるものが見えました。
それははじめねじくれた黒い塔のように見えましたが、すぐに違うものであると分かりました。姿だけを形容するならば、六つの皮翼を持つ盲目の大長虫とでもで言いましょうか。そしてそれは巨獣ですら雛のように感じさせる、本当に途方もない存在でした。
地に開いた異界の門より現れ出で、空に向かって身をくねらせる、神にも等しきなにか。
「アル・アモル――」と、マヌーカは呟きました。異界よりのもの。暴いてはならないもの。〈魔宮〉にひそんでいた夜の化身。
「唯一なる者よ」と、マヌーカは震えながら慣れない祈りを口にしました。「ラマルエルナをお守りください。すべての弱き人々をお守りください」
祈りが通じたのか、あるいは元々幻影に過ぎなかったのか、瞬きをひとつする間に、大長虫は姿を消しました。マヌーカはほとんど茫然自失の態でありましたが、なんとか足腰を奮い立たせると、よろめきながらその場を離れました。




