第四十六夜 蛇と大君 -13-
男女の体臭が濃密に漂う天幕の内側、タルナールたちが囚われていた場所よりもひとまわりほど大きい円形の空間は、武器や鎧兜の一式と、いくつかの嗜好品が置かれた木箱が置かれているくらいで、さして豪華というわけでもありません。
端の方には毛織物を重ねて設えた寝床があり、そこではいま、ぐったりとした様子のジェディア姫に、シャイタンが寝具をかけてやっているところでした。
「せっかちな奴らじゃな。もう少し余韻に浸らせてくれてもよかろう?」
シャイタンは一糸まとわぬ姿であぐらをかき、タルナールたちの方を向いて飄々と言いました。
「ああ、姫さま、姫さまぁ」と、ルールーが主君のもとへ駆け寄り、その枕元に跪きます。
「いましがた大きく気を遣ったところじゃ。目を覚ますには少しばかりかかる」
「……まあとにかく、無事でよかった」
その余裕ぶりに少々腹の立つ思いはしましたが、タルナールはひとまずほっと息をつきます。しかしこれで万事解決というわけではありません。なにせここはケッセル軍がたむろする野営地の只中であり、タルナールたちとジェディア姫は、別段和解したわけでもないのですから。
「兄上には剣技でも為政者の器でもついぞ及ばなんだが、抱いた女の数だけは――」
そのとき、急を知らせるラッパが大音声で響き渡りました。
タルナールはどきりとして短剣を握り直し、いまにも兵士たちが天幕に躍り込んでくるのではないかと身構えました。しかしどうやら、自分たちの脱走が知れたというわけではないようです。
「敵襲! 敵襲!」と、鋭い声が飛んできた直後には、野営地全体がわっと騒がしくなりました。士官が詳しい状況の報告を求めたり、兵卒が自らの武器や馬を求めたりする声が、あちこちであがりはじめました。
果たしてこれは厄難か、それとも天祐か。しかし襲いくる敵が誰であるにせよ、野営地を抜け出すのにこれ以上の機はありません。
「ルールー、姫さまのことは任せたぞ!」
「えっ、えっ」
タルナールは面倒な後処理をすべて不憫な従者に押しつけると、シャイタンを寝床から引きずり出し、下着だけでも身につけるよう言ってから、さきほど切り裂いた天幕の隙間から顔を覗かせ、あたりの様子を窺いました。
兵士たちは突然の事態に浮足立ち、外の敵に意識を向けているようですが、さすがに捕虜が悠々と野営地を出られるほど、混乱した状態に陥っているわけではありません。
天幕が作る死角に隠れながら行くとしても、かがり火の灯りを逃れるまでにはかなりの距離を移動しなければならず、そうなれば今度は、戦いに巻き込まれる危険が大きくなってしまいます。
「馬が必要だ」と、タルナールは判断しました。「マヌーカ、なんとかして奪えないか?」
「蛇を使いましょう。あるいは、戦姫どのを人質にするという手もありますが」
「美しい女性を傷つけようとするのは、シャイタンが許さないだろう」
「よくお分かりになっていらっしゃいます」
ふたりで息をひそめつつ手ごろな獲物を待っておりますと、そのうち部隊へ合流しようとしているのか、騎手つきの馬が二匹、天幕のすぐ近くを横切りました。
マヌーカの蛇が背後から足元へ忍び寄り、まとわりついて脅かしますと、馬は狙い通り激しく怯えてうしろ脚で立ちあがり、甲高い声でいななきました。
振り落され、地面に叩きつけられた騎手が正気づく前に、タルナールたちは馬の手綱を取り、どうどうと宥めながら背に跨りました。そして半裸の状態でのんびり出てきたシャイタンを尻馬に乗せ、タルナールはいまだ応戦準備の完了せぬ野営地の中心から、方向も確かめず馬を走らせました。
途中、何人かの兵士に制止されかけたものの、敵が迫ってきているという状況下、ひとたび強引に押し進んでしまえば、あとは追手がかかるようなこともありませんでした。
殺気立った兵士たちの喧噪と、焚火や松明がはぜる音の中を通り抜け、タルナールたちは冷たい荒野の夜を駆けます。ケッセルの野営地を脱出して荒野を進み、少し落ち着いたところであたりを眺めれば、遠く地平線上に浮かぶアモルダートの灯りが見えました。
ようやく安全な街に帰ることができる。いまだ所在の知れないラーシュたちの無事を願いつつ、馬首を巡らせようとしたタルナールは、ふと野営地とは反対の方角から近づいてくる軍勢の存在に気がつきました。
彼らは松明や仰々しい旗を使わず、遠くから察知されないよう、足や蹄の音にさえ気を配っている様子でした。タルナールたちは不運なことに、ケッセル軍を急襲しようとする敵の真正面に飛び出してしまったのです。
既に矢が届くほどの距離。慌てて逃げ出そうとしたタルナールでしたが、うしろに乗っているシャイタンが、その必要はない、とのんびりとした声をあげました。
「アレはどうやら味方じゃ」
シャイタンはそう言うと、自分たちの位置を知らせるべく、軍勢に大声で呼びかけはじめました。
「おおい、こっちじゃ、こっち!」
こうなればもう誤魔化しは利きません。シャイタンの意図を汲んだマヌーカが、小さな魔法の灯りを中空に浮かべて交信を試みますと、果たして向こうからも明確な反応がありました。
近づいてくる軍勢の先頭付近で、小さな丸い灯りがいくつか打ちあげられたのです。松明の炎ではない、まじないによって造られた、わずかに灰色がかった光。タルナールが〈魔宮〉にもぐるとき、いつもあたりを明るくしてくれていた光でした。
「ネイネイだ!」
向こうに仲間がいると知り、タルナールは大いに安堵しました。おそらくラーシュとエトゥも傍にいるでしょう。ケッセルの斥候たちから逃れた三人は無事に山をおり、強力な応援を引き連れてやってきてくれたのです。
双方が馬を進めて合流するに及び、軍勢の正体も知れました。
ネイネイらとともに闇夜を進んできたのは、およそ二百騎から成るダバラッドの駱駝騎兵部隊だったのです。おそらくは捕虜になった守護者を奪還するため、急ぎ編成されたのでしょう。
しかし当の守護者がひょっこり戻ってきた以上、もはや危険をおかして野営地を襲う理由はありません。部隊はこれ以上ケッセル軍を刺激しないよう、整然と方向を変えて帰路につきます。
そのうちシャイタンには駱駝があてがわれ、タルナールはようやく、彼の汗ばんだ胸板から解放されました。
「陛下、お怪我はありませんか」
「おう、アズバァイルか。苦労をかけたのう! 今日はこの者らに救われたのじゃ。これより我が野営に招くが、構わんな?」
部隊を率いてきたダバラッドの大臣はその言葉を聞き、部隊の中でもひときわ立派な駱駝の上から、タルナールたちをじろりと睨みました。
「いいえ、せっかくですが、ご遠慮いたします、陛下」と、タルナールは大臣の手前、へりくだった口調で言いました。「我々はアモルダートに属する者。バーラムの頭越しに歓待を受けて街に帰ったとあれば、かえって不和の種となってしまいます」
「ふふん、細かいことを気にするのう」と、シャイタンは言いました。「まあ、よい。いつか気兼ねなく盃を酌み交わせる日が来ることを祈ろう、友よ!」
そう言うと、若き守護者は駱駝の手綱を握り、威勢のよい掛け声とともに、ダバラッド軍の野営地へと――いまだ半裸のまま――駆けていってしまいました。
その傍らにいたアズバァイルは小さく頭を振り、疲労の滲んだため息をつくと、またタルナールたちにちらりと目を遣ってから、部隊を先導するため駱駝に軽く鞭を入れ、そのまま一行から離れていきました。




