第四十五話 蛇と大君 -12-
囚われのタルナールたちを訪れた老婆。
記憶を手繰るのに少し苦労しましたが、タルナールは彼女の姿を覚えておりました。それはイルムリムの城館にて、ジェディア姫から逃げるよう忠告してくれた、あの老婆だったのです。
「まったく、己の優柔不断さには呆れるばかり」
現れるなり、老婆は言いました。
「あなたは確か……」
「はい、タルナールさま。この姿でお会いするのは、イルムリム以来になりますね」
「この姿?」
「私は変化の術を扱う魔術師。名をルールーと申します」
老婆は急に若々しい声で言ったかと思うと、ぴかりぴかりと体中から妖しげな発し、次々に姿を――それも顔だけでなく服装や体格まで――変えてみせたのです。
若い男、になったかと思えば、次は不器量な女に。年端もいかぬ子どもに化けた次は、太りたおした黒猫に。それら中には、あの山肌で一行を拘束した男の姿もありました。
そうしていくつかの形を経たあとで、なんとか元の姿を探りあてたらしいルールーは、ようやく目まぐるしい状態から脱し、ネイネイとそれほど齢の変わらない、癖毛の髪を持つ地味な女に落ちつきました。
「いろいろな人に変身していると、ときたま元の姿を忘れかけます」
「僕たちを助けにきてくれたのか? 頼む。手を貸してくれ。友人が殺されるかもしれないんだ」
「事情はおおむね承知しております。力になりたいのはやまやまですが」と、ルールーは首を振りました。「私はあくまでも姫さまの従者。ここへやってきたのも、あなたたちが無茶をしないように見張るためなのです」
タルナールはちらりとマヌーカの方を見遣りました。もし彼女が黒い蛇を操ってルールーを襲えば、ねじ伏せてしまうのは難しくないでしょう。あるいは絞め殺すふりで脅かして、言うことを聞かせられるかもしれません。
しかしルールーはかつて命を救ってくれた相手。シャイタンを助けるためとはいえ、彼女に暴力を振るうのはタルナールの仁義にもとります。
「ルールー。君が姫さまを思うなら、なおのこと彼女をとめるべきだ」と、タルナールは言いました。「姫さまがいま殺そうとしているのは、僕の友人でもあるが、なによりダバラッドの守護者なんだぞ」
「…………」
おそらくはルールーも、シャイタンの正体に気づいているはずだ、とタルナールはふんでおりました。
ルールーが扱う変身魔術やこれまでの行動からして、彼女はジェディア姫の従者としての役割を持ちながらも、斥候や密偵として働いていたことは間違いなく、ならばアモルダートにおけるシャルカンの所業や風体も、少なからず耳に入れているはずだからです。
だとすれば、シャイタンを抱え込む利益だけでなく、その危険も承知しているはず。説得の余地ありと睨んだタルナールは、懸命に言葉を重ねます。
「君の姫さまがどんなに勇猛でも、守護者の軍勢を怒らせれば破滅してしまう。巨人隊の話は聞いたことがあるか」
「いいえ――」
「古くからある守護者の親衛隊で、生まれを問わず健康な子どもを集めて訓練するんだ。特別に調合された秘薬を与えられながら育つから、背丈は誰もがふつうの一倍半、身幅は二倍以上にもなる。
筋骨隆々の背中は毛だらけで、戦うときは麻薬を吸って恐怖を忘れる。このまま君が姫さまをとめなければ、そんな連中が彼女を襲うことになるんだぞ」と、タルナールは以前に仕入れた知識を使い、ルールーを揺さぶります。
みなさまの中にも、きっと噂ぐらいはお聞きになったことのある方がいるでしょう。まだ小さな巨人隊候補生たちは薬を混ぜた食事だけでなく、訓練を含めた生活全体を徹底的に、苛烈に管理されます。
それゆえ、はじめ百人の子どもがいたとして、秘薬の効用に耐えきれず二十人が死に、訓練の疲労や怪我で三十人が死に、脱走や脱落で二十人が減り、といった具合で、正規の兵士となれるのはせいぜい三割程度。
しかしそれらの度重なる辛苦に耐え抜いた若者たちは、精強無比、剛勇無双、常人では持つこともできないほどに長大な槌矛を存分に振るい、天空より襲いくる怪鳥さえ叩き落とすことのできる巨人隊の一員となるのです。
そしてひとたび正式に任命されれば、以後は生涯に渡る生活の保障と、民衆からの畏怖が約束されるのです。
と、そのような話は一旦脇へ除け、タルナールとルールーのやりとりに戻りましょう。
毛むくじゃらの男たちに姫が嬲られる想像でもしたのでしょうか、ルールーは暗がりの中でも分かるほど、顔を青ざめさせました。
「君は姫さまをとめなければならない。彼女は怒るかもしれないけれど、身内を殺したりはしないんだろう? 意図を説明すれば、最後にはきっと納得してくれる」
「私は――」
「さあ、ジェディア姫のところへ連れて行ってくれ」
タルナールは拘束されたままの足で無理やり立ちあがり、背中側に回された腕をルールーに押しつけました。彼女の優柔不断な性格というのが事実なら、強引な態度でなしくずしてしまうに限ります。
彼女はタルナールの身体を支えたまま、かなり長い間ためらっていましたが、やがて護身用の短剣を抜くと、ぶつりとタルナールの拘束を断ち切りました。
「ありがとう。なるべく急いでくれ」
ルールーはまだ多分に迷っていましたが、タルナールは必死に彼女を急き立て、自分の足、それからマヌーカの手足を解放させました。
「ああ、こんなこと。また姫さまにお仕置きされてしまう」とルールーは自らの身体をかき抱きます。
もしジェディア姫が剣を振るってルールーを断罪しようとしたなら、タルナールは彼女を連れて逃げようと思いました。しかし仕置きが命に係わるものでないのなら、そのまま放っておこうと決めておりました。どうやらそれがこのふたりの、やや倒錯したいつものやりとりであるようでしたから。
ルールーはジェディア姫の従者たる立場を使って見張りを追い払い、タルナールたちを天幕から連れ出しました。
冷たい夜風が吹く屋外、所々で焚火を囲む兵士たちの目を憚りながら、向かうはジェディア姫の寝所です。それは野営地の中央やや北、ほかの天幕から少し離れて在りました。入口には〈麗しき剣士〉の兵がふたりおりましたが、これはルールーでも退かすわけにいきません。
「詩人どの、なにか腹案がおありで?」と、マヌーカが囁きます。
「いや、ない」と、タルナールは正直に答えました。
「いざとなれば、わたくしが身を挺しましょう。多くを殺めることになるやもしれませんが」
「なるべく騒ぎは起こしたくない」
見張りの排除を諦めた三人は、こっそり裏手へと回り、天幕の分厚い布越しに、ひとまず中の様子を窺います。状況によっては布地を裂いて侵入し、急いでシャイタンを救わなければなりません。
荒れ地を吹く砂塵まじりの風と、ときおりはぜるかがり火の音に混じり、天幕の内側から漏れ聞こえてくるのは……。
「どうやら盛りあがっているようでございますね」
マヌーカの言う通り、天幕の中では既に官能の宴がたけなわでありました。淫靡な水音と乱れた嬌声が満ち満ちて、夜気を焦がすほどに熱い吐息が折り重なり、それらが位置を入れ替えながら、いっとき叫びやうめきに近いほど高まったかと思えば、ほっと弛緩するというようなことが繰り返されておりました。
おお、あの武勇で鳴らし、冷酷な本性を持つ姫君が、これほどの痴態を晒そうとは……。
「こうなるのではないかと、薄々は予感しておりました」と、マヌーカは言いました。
「わたくしが宮殿に勤めていたころから、陛下はまさしく精力絶倫との呼び声高く、また国の内外より来る優れた女を抱くことで、男女の交合におけるさまざまな秘技をも身につけたとの噂でしたから。己が支配欲のままに男と情交するだけの娘を篭絡することなど、騾馬の尻毛をむしるほどに容易かと」
タルナールは半分気まずい思いで、もう半分呆れながらそれを聞いておりました。しかしマヌーカの見立てが正確だったとしても、事態がここからどう転ぶかは、まだ予断を許しません。
「はぁぁ……姫さまがあんな、あんな風に……」
傍らではルールーが官能の熱にあてられ、もじもじと身をよじらせております。タルナールは彼女の手から短剣をもぎ取り、なにがあっても対処できるよう身構えながら、じっと機を窺っておりました。
それからしばらく。
ジェディア姫の声が急に高まったかと思うと、天幕の中が静かになり、あとはわずかに乱れた息遣いだけが聞こえるようになりました。もし情交が終わったということであれば、いよいよシャイタンが刺し殺されそうになっているころあいかもしれません。
もはや待っていても状況は好転しないと判断したタルナールは、まだくねくねとしているルールーを差し置き、マヌーカと頷きあってから、短剣で天幕の布地を切り裂き、中へと踏み込みました。




