第四十七夜 蛇と大君 -14-
深夜のアモルダート。
長い一日が終わろうとしておりました。シャイタンとマヌーカを伴って〈魔宮〉深部へと到達し、蜘蛛に似た夜の獣から毒を食らい、担架に載せられて地上へと逃げ帰り、カルガ人たちの集落ではケッセルの斥候に捕らえられ、連行された野営地でジェディア姫に殺されかけ、シャイタンの類まれなる精力によって事なきを得、やっと街に帰ってきたタルナール。言わずもがな、くたくたです。
本当ならば〈病人街〉の自室でゆっくりと眠るところですが、少々物思いをしたい気分だったタルナールは、仲間たちとのささやかな宴も遠慮し、アモルダートの市街を彷徨っておりました。
そしてぶらぶらと歩くうち、盛り場のあたりにやってきます。夜にこそ賑わいを見せる区画ではありますが、さすがに宵を数刻も過ぎると、開いている店は片手で数えられるほど。あと少しすれば誰もがすっかり寝静まり、街は泥棒の時間を迎えます。
そんな中、通りの向こうからぽくぽくと、ひとり歩いてくる者がありました。
肌を多く見せる衣装は娼婦か踊り子のそれとも似ておりましたが、纏う気品は凡百の女性とは明らかに異なり、冷たい星明りのもと湛える魅力は、どこか魔性の妖しさを帯びておりました。
「おや、おや、おや。どこかで見た顔だと思えば、いつか〈魔宮〉でお会いした……タルナールといったかしら? 奇遇だこと」
「ドゥーザンニャード?」
つい先日、一行が〈魔宮〉で遭難しかけた折、偶然出会った妖霊の姫ドゥーザンニャード。そのまま故郷へ帰ったものと思われましたが、どうやらまだこの界隈をうろついていたようです。人間の姿に身をやつし、片手にはどこから持ってきたのやら、焼いた羊肉の串をぶらさげて。
「失礼しました。高貴なる妖霊の姫よ」と、タルナールは慌てて呼び捨ててしまったことを詫びました。
「そんなにかしこまらなくていいのよタルナール。いまは私、お忍びですからね。あら、星明りの中で見ると、あなたなかなか素敵なお顔をしているじゃない?」
ドゥーザンニャードは少し離れた場所から、まるで身体の重さなどないかのようにふわりと跳躍し、タルナールの眼前に音もなく着地しました。
「ほんの少し憂いを含んだ表情も魅力的ね。それとも本当に心配事があって? もしかして、食あたりでもしているの?」
「そういうわけではない……、いや、そういうわけでもあるかな」
彼女に対して意地を張っても仕方がない、とタルナールは表情を緩めました。
「歩きながら、少し相談に乗ってくれないか、ドゥーザンニャード」
「ドゥーニャで結構よ。いいでしょう。若輩を導くのも高貴なる者の務めです。話してごらんなさい。恋の悩みかしら?」
タルナールの目からすると、ドゥーザンニャードは十五、六の少女にしか見えませんが、妖霊というものは人間とは比べ物にならないほど長命と聞きますので、容貌から実際の成熟を判断することはできません。
「自分の役割のことなんだ」と、タルナールはいままでぼんやりと抱いていた、そして昨日から今日にかけて改めて意識するようになった悩みを、ドゥーザンニャードに打ち明けました。
「前にも話したけど、僕たちは四人で〈魔宮〉の奥に行こうとしている。ラーシュは自分の生まれに背を向けて、エトゥは変わってしまった暮らしを取り戻すために、ネイネイは師から授けられた使命を果たすために。そして僕は物語を作るためだ。かつて僕に歌を教えてくれた大切な人に届くような物語を」
「結構なことね。わたしもお話は好きよ」
「仲間たちにはそれぞれ得意なことがある。ラーシュはなんといっても腕が立つ。彼のザーランディルに斬れないものはない。どんなに強大な夜の獣が現れてもこれまで生きてこられたのはラーシュのおかげだ。
ネイネイには魔術の知識がある。〈魔宮〉を造った人間――エルトラさまといったっけ? きっと優れた魔術師でもあったんだろう。だから〈魔宮〉の真実を解き明かすために、ネイネイの存在は不可欠だ。
エトゥの方向感覚がなければ、僕たちは〈魔宮〉の浅い部分さえ踏破できなかっただろう。いつだって先頭に立って、状況の変化をいち早く察知してくれる。彼がいなければ、目を瞑ったまま探索するのと同じだ」
「ははあん、大体読めてきましたよ」と、ドゥーザンニャードは薄衣をひらひらさせながら言いました。「あなたは自分がどれだけ役に立っているのか、不安なのですね」
「うん、その通りだ」と、タルナールは潔く認めます。「仲間たちは誰が欠けても成り立たない。でも僕は……別に必要ないんじゃないか? と思うことがある。交渉事は引き受けるようにしているけれど、〈魔宮〉の中では正直、足手まといにならないようついていくだけで精いっぱいなんだよ」
しかしドゥーザンニャードは鼻息ひとつ、笑い飛ばしてみせました。
「どんな深刻な悩みかと思えば、そんなことですか。タルナール、あなたいま、おいくつ?」
「二十一」
「妖霊で言うとどのくらいなのかしら? でも、ほんの小僧には変わりないわね。いいですか、小僧なのですよ。土と水から生まれてまだたった二十年しか経っていないんですから、なにかに役立っていると考えたり、重要な人物であろうとするなんておこがましいぐらいです。
まあまあ、その心がけは立派ですけどね。わたしのもとで働いていた青銅の妖霊たちなんてもう、何百年生きているのか知らないけれど、本当に志が低くて、ぐうたらで、この高貴なわたしが頭を悩ませながら働いているというのに、さぼることしか考えていなかったのですよ! 思い出しても腹の立つこと!」
「そんなものかなあ」と、タルナールはドゥーザンニャードの憤激をなだめながら言いました。
「ええ、ええ。でもね、つい同輩と比べてしまう気持ちはなんとなく分かりますのよ。わたしみたいな生まれながらに優れた存在でもない限り、そういった懊悩はつきものね。
とはいえ、なにごとかを成すのにどう役立ったかなんて、最後の最後まで分からないものじゃありません? エルトラさまのもとで〈魔宮〉建設に携わったわたしも、造っている部分にどんな役割があるのか知らないまま、とにかく作業を進めてましたもの。
まあ、結局いまでも分かっていないけれど、きっと一番の屋台骨に違いないわね。それはそうとタルナール、あなただってとても重要な仕事を、知らないうちに済ませているのかもしれませんよ。
あるいはこれから旅を続けていくうち、いつか固い固い扉に出くわして、それを開くためにあなたの力が必要になるのかもしれませんよ。
たとえ違ったとしても、あなたはちっぽけな人間の、そのまた小僧っ子ですからね。大したことができていないなんて悲しむ必要はこれっぽっちもないのですよ。いいですね? 少しは気が晴れましたか?」
「うん……そうかな。そんなものかな」
その慰めには幾分か独りよがりな部分もありましたが、さすがにタルナールを小僧呼ばわりするだけはあって、大局を見渡せる年長者の余裕に満ちたものでした。
「ありがとう、ドゥーニャ」
「まったくもって礼には及びません。若輩を導くのは高貴なる者の務めですからね。あっ、でも感謝の気持ちがあるのなら、少しばかりお小遣いをくださらない? 下心のある殿方を誑かしてお相伴に預かるのは簡単だけれど、自分のお金で買い物してみたいのよ」
品物を前にしながらも銅貨の一枚もなく、くさくさしてばかりいた思い出を持つタルナールは、ドゥーザンニャードのおねだりに快く応じ、懐に入っていたシックル銀貨数枚を取り出し、彼女の白い掌に載せました。
「あら、気前のいい殿方は好きよ。これでシャーベット水が飲めるわ。あの露店のガラス玉はもう売れちゃったかしら? でもまだお店が開いていないわね。朝を待たなきゃ」
ドゥーザンニャードは銀貨を大事そうにおし抱きながら、その場でくるくると踊るように回りました。それから思い出したように動きをとめ、タルナールに歩み寄って顔を近づけると、つま先立ちで背を伸ばし、頬に軽く口づけしました。
「あまり肩ひじを張らずにやるのですよ、タルナール。あなたが作る物語、楽しみに待たせていただきますわ」
そう言うと、ドゥーザンニャードは照れたように顔を背け、ぱっと姿を消しました。あとにはわずかな銀色のきらめきだけが残ります。
「……忙しない姫だ」
タルナールは口づけされた頬に軽く手を当て、改めてドゥーザンニャードの思いやりに感謝してから、気づけば既に静まり返った通りを歩きながら、仲間たちの待つ宿に帰るべく、〈病人街〉へと帰っていきました。




