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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第三十六夜 蛇と大君 -3- 

 夜が去り、朝が訪れます。


 時刻は払暁。マヌーカに割り当てられた最上の部屋で眠りこけるシャイタンを叩き起こし、タルナールたちはしばらくぶりの探索に赴きます。今回は、廃砦を経由して〈魔宮〉へもぐることにしました。〈病人街〉からだと人が多く、シャイタンが目立ちすぎるからです。


「寝床が固いせいで、あちこち痛くなったわ。しかし、これも外行きの楽しみであるな」


「旅の騎士を自称するなら、もう少しそれらしい言動を取ったほうがいい」


 おそらく改めないだろうと思いつつ、タルナールが忠告しますと、シャイタンはにやりと笑ってやり返してきました。


「まあ、ここまで漕ぎつけたからには、あまり取り繕う必要もあるまいて。噂に聞く夜の獣とやらが、我の素性を気にするというのなら別じゃが」


 傍らでマヌーカが嘆息するのを聞きながら、一行は廃砦に設けられた縦穴をくだります。タルナールたちが以前に来たときと違い、縦穴は大きな井戸のように拡張され、整備され、奴隷が動かす昇降機によって、地上と〈魔宮〉とを行き来できるようになっておりました。


「ここへ来るときにもちらりと見たが」と、シャイタンが自分たちと入れ違いに引き揚げられる、アモル石の載せられた箱を見あげながら言いました。「あのクズ石のようなものが、万人の羨む見事な細工品になるとはな」


「それは金や鉄だって同じだろう」と、タルナールは言いました。


「華美なものもはじめからそうではないということか。なるほどのう」


 シャイタンがもう少し慎みのある人間であったなら、このあたりでネイネイが口を挟み、錬金術の知識をもってアモル石の解説をおこなうところなのでしょうが、彼女は最初のやりとりでシャイタンに苦手意識を持ってしまったらしく、いつもよりずっと物静かでした。


 タルナールは雰囲気を和らげるために歌のひとつでも披露しようかと思いましたが、廃砦の入口を使えば、そこはすぐに大型の獣が出やすい地帯です。いまも前衛でラーシュ、ネイネイ、エトゥが警戒にあたり、そのうしろにシャイタンがつき、後尾にタルナールとマヌーカという隊列を崩さず、慎重に進んでおりました。


 マヌーカについては言わずもがな、シャイタンも長い距離を歩くのに慣れていない様子でしたから、一行の歩みは過去数回に比べ、ゆっくりなものとなっています。それでも少しずつ〈魔宮〉の深みへともぐっていくにつれ、あたりにどんよりとわだかまる闇は、確実にその重さを増していきました。


 ごつごつとした岩の洞窟に根を張る、地上では見ることのできない大きさの洞窟樹を眺めながら、シャイタンはほほうと感嘆の息を漏らします。


 そんな彼の様子を観察しながら、タルナールは自分がはじめて〈魔宮〉にもぐったときを思い出しておりました。その中でなにに出くわし、どんな恐怖に遭遇したかを。


 シャイタンは夜の獣と対面したときも、その泰然とした態度を崩さずにいられるだろうか? タルナールは少々意地の悪い気持ちで、あれこれ想像を巡らせます。


 まもなく、それを確かめる機会が訪れました。


 出発から一刻半ほど歩いたあたりで、エトゥがさっと手をあげ、一行を制止させました。彼がそうするのは、決まってなにかしらの変化や、危険の予兆を察知したときです。全員がにわかに緊張し、息を呑んで洞窟の奥を睨んでいると、やがて灰水晶が放つ光の範囲にゆっくりと、巨大な影が姿を現しました。


 それは果たして夜の獣でありました。密林に棲む大猿に似た見た目は、タルナールにも見覚えがありました。はじめて〈魔宮〉にもぐったとき、ブルズゥルクに襲われる直前、斃れた鉱夫の肉を貪り喰っていた二匹の獣が、ちょうど同じような姿かたちをしていたのです。


 しかし、いま近づいてきているのは、かつて遭遇した個体の三倍近くの背丈を持つ、並外れた大きさの一匹でした。


 獣は全身を覆う黒く(こわ)そうな毛を逆立て、耳をつんざく大音声で咆哮します!


「ネイネイ、さがれ。タル、うしろを警戒してくれ。シャイタンとマヌーカは――」


 夜の獣が肉薄する前に、ラーシュが指示を飛ばします。しかしそれが完了しないうちに、獣の目前へと飛び出す者がありました。


「聞きしに勝る異形よのう! その肉、我が太刀の贄となるがよい!」


 シャイタン! 彼は腰の曲刀をすらりと抜き放ち、大上段の構えで獣と相対しました。


 タルナールはその刀身が、月光のような光を帯びていることに気づきます。シャイタンが持っているのは、ラーシュのザーランディルと同様、軽さと無類の強靭さを併せ持つ、アモル鋼の武器だったのです。しかし細剣であるザーランディルに比べて、その刃のなんと分厚いことか!


「だめだ、シャイタン! さがれ!」


 すっかり興奮してしまっているのか、シャイタンはラーシュの指示も聞こえない様子です。


 強大な夜の獣を前にしてシャイタンが恐怖に駆られ、脇目も振らず逃げ出したとしても、タルナールは彼を責めなかったでしょう。足が竦んで動けなくなり、子どものように役立たずになったとしても、無理のないことだと思ったでしょう。


 しかし未知の怪物を前にして、戦の一番槍よろしく、武器を振り回しながら挑発をしかけるとは。


 失礼を承知で申しあげるならば、これは勇気でなく、無謀というものです!


 多少の切り傷、矢傷はものともしないであろう巨体。重要なのはみなで息をあわせ、一気に致命傷を与えること。ひとりだけ突出してしまってはそれも為せず、ただいたずらに相手を怒らせるだけになってしまいます。


 案の定、目の前でぎらりぎらりと刃物を見せつけられた大猿は、生意気な相手を攻撃しはじめます。うしろの二肢を地面に踏ん張り、中の二肢を横の岩盤に打ちつけ、前の二肢を滅茶苦茶に振り回し、牛の頭ほどもある拳でシャイタンを叩き潰そうと、これ以上なく激しい攻撃に出ました。


 まさに手のつけられない大暴れ! 天井から剥がれた土塊がぼろぼろと降り注ぎ、跳ねあげられた石礫がそこかしこにぶつかって砕け、舞いあがった塵であたりはもうもう煙り、おまけに盛大な咆哮がそのすべてを揺るがします。


「滅茶苦茶だ! 撤退するか?」と、エトゥが叫びました。


「ダメだ。シャイタンが死ぬ!」と、ラーシュが反対します。


 土埃の中、タルナールが前方に目を凝らしますと、まだ動いているシャイタンの姿が見えました。いまのところ壁や地面の染みにはなっていないようですが、距離を取る隙も見いだせず、繰り出される剛腕を躱すのに精いっぱいの様子。


 エトゥの矢で目や首を射貫くか、ラーシュが突撃して気を引くか、いずれも確実ではありませんが、ただ待っているだけでは、遅かれ早かれシャイタンはぺしゃんこになってしまうでしょう。


 ラーシュの指示通り背後への警戒を続けつつ、自分になにかできることはないかと、タルナールが得物の槍を握りしめたとき、視界の端にいたマヌーカがさっと地面にかがみこみ、地面に両手を当てるのが見えました。


 面紗(かおあみ)に覆われたその口から紡がれるのは、謎めいた音節から成る呪文です。


 タルナールは緊迫した状況の中、彼女の低く掠れた詠唱を邪魔すまいと、身じろぎせずに見守りました。気づけば傍らのネイネイも口を硬く引き結び、マヌーカの魔術に目を奪われておりました。


 宿の薄暗がりでまじまじと見る機会は多くありませんが、タルナールはマヌーカとはじめて出会ったとき、彼女の黒い瞳が、わずかな虹色の光を帯びていることに気づいておりました。


 もちろん、魔術の才を持っているからといって、すべての人間がネイネイと同じように、ムジルタの里で教育を受けるとは限りません。しかしこの後に及んではもう、疑いようもないでしょう。


 マヌーカはただの薬師でなく、魔術師でもあったのです。


〈我が皮膚に宿りしものへ命ず。敵を縛り、苦しめよ〉


 低く掠れた、軋むような声でマヌーカが呪文を結ぶと、彼女が地面に当てている掌から、なにか長いものが這い出したように見えました。


 それは……蛇でした。彼女の腕ほども太く、身の丈よりも長い二匹の蛇。乾いて黒ずんだ血液を思わせる、不吉な色の蛇でありました。


 マヌーカが操る二匹の蛇は滑るように地面を這い進み、ラーシュとエトゥの足元をすり抜けます。ふたりが驚いてたたらを踏む間に、蛇は暴れる大猿の股下へ、音もなくするりともぐりこみました。


 次になにが起こったか?


 剛腕を振り回し、シャイタンを叩き潰そうとしていた大猿が、びくりと身体を震わせました。かと思えば、それは苦痛に満ちた叫び声をあげながら、洞窟の天井に頭をぶつけるのも構わず、うしろ肢で跳ねるように立ちあがったのです。露わになったうしろの二肢には、地面から肢の半ばにかけて、赤黒い蛇が一匹ずつ、らせんを描くように巻きついておりました。


「いまだ、シャイタン! さがれ!」


 大猿の攻撃が束の間やんだのを見計らい、ラーシュがシャイタンに指示を飛ばし、自らは敵の気を引きつけようと突進していきました。さらにエトゥが素早く弓を連射し、大猿の首と胸板に命中させます。


 それからは本当にあっという間でした。


 シャイタンが命からがら仲間のもとへ辿り着き、大猿が上半身をよじりながら腕をおろしたときには、既にザーランディルがうしろ肢を一本、すっぱりと切り株にしておりました。続けてラーシュは傾ぐ大猿の背に駆けのぼったかと思うと、そのうなじに刃を突きたて、首元までを貫き通してしまったのです。


 なんと身軽で、豪胆な立ち回り! お分かりでしょうか。本当の勇気を持つ者は、本来このように動くのです。


 強靭な肉体を持つ大猿もこれにはたまらず、どう、と地面に倒れると、すぐに動かなくなってしまいました。素早く地面におり立ったラーシュが、とどめとばかりに首を刎ねますと、大量の血液がその断面から噴き出して、あたりにひどいにおいのするどす黒い池を作りました。


「シャイタン、怪我は?」と、ラーシュが言いました。


「あ、ああ。大事ない」と、答えるシャイタンの身体には、いくつもの擦り傷や打ちができていましたが、幸いなるかな五体満足、激しい出血や骨折も見られませんでした。とはいえ、大猿の猛攻によってさすがに意気を挫かれたらしく、シャイタンは洞窟の壁に背を預け、少しの間茫然としたように、じっと大猿の骸を見つめておりました。


 シャイタンの身勝手な行動は、普通ならば充分責められるに値するものですが、タルナールもその仲間たちも、敢えてシャイタンを非難することはありませんでした。


 その心情を推し量るに、言葉にしなくとも身に染みただろう、というのがひとつ。それから、シャイタンが振り回していたアモル鋼の曲刀を見て、薄々気づいていた彼の正体に確信を得た、というのがひとつ。


 ともあれ、一行はなんとか大きな損害を出すことなく、夜の獣を討伐することができました。大猿から採れたアモル石は、かつて苦労させられたブルズゥルクにも匹敵する重さです。


「血のにおいが届かないところまで進んだら、今日はもう休もう」


 シャイタンの様子を見たラーシュは、少し考えたあとでそう提案しました。もとよりさほど奥へは行かないつもりでしたから、早めの野営に反対する者もなく、一行は骸を背後に置き去って、居心地のよさそうな場所を探しはじめました。

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